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4話「伯父」

 

 花びらの警告を、メアリーは一晩考えた。


 『地下に来るな』


 誰が書いたのか。どうやって鍵のかかった部屋に入れたのか。そもそも、警告する理由があるということは、地下に何かがある。行くな、と言われれば行きたくなる。それがメアリーという人間の、どうしようもない性分だった。


 朝になってデイコンに花びらを見せると、デイコンは二度読んでから静かに言った。


「……警告、ですかね」

「それとも罠?」

「罠にしては回りくどい」


 それはそうだ。メアリーを地下に引き込みたいなら、わざわざ来るなと書く必要はない。


「白い影が書いたとしたら?」


 デイコンが言った。


「白い影は助けてくれる方だと思う。だとしたら、本当に危ないから来るな、ということかもしれない」

「だとしても、いつかは行くことになる」


 デイコンは何も言わなかった。否定も肯定もせず、ただ窓の外の薔薇園を見ていた。その横顔が、少しだけ怖がっているように見えた。


「マーサさん、伯爵ってどんな人?」


 着替えながらマーサに聞くと、マーサが少し考えてから答えた。


「……厳しい方です。でも礼儀を守れば、理不尽なことはなさいません」

「奥様を亡くしてから変わった?」


 マーサの手が止まった。


「……少し、変わられました」


 それだけ言って、続きは話さなかった。

 通されたのは一階の奥、書斎だった。重厚な本棚が壁を埋め、窓には厚いカーテンが引かれていて、光が少なく薄暗かった。暖炉に火が入っていて、部屋全体を赤く染めていた。


 机の前に、男が立っていた。

 クレイブン伯爵。背が高く、痩せていた。三十七歳と聞いていたが、もっと老けて見えた。

 黒いジャケットに黒いタイ、黒いズボンと、全身が黒だった。髪も黒く、白髪が数本混じっていた。顔色が悪く、頬がこけていて、目の下に深い影があった。


 でもその目が、鋭かった。暗い書斎の中で、その目だけが光っているように見えた。


 メアリーが扉の前で止まった瞬間、伯爵がこちらを向いた。

 その表情が、一瞬だけ崩れた。ほんの一瞬、何かが溶けるような、痛みのような、強い感情が表に出かかって、すぐに抑えられるような変化があって、次の瞬間には何事もなかったかのように無表情に戻っていた。


「……来たか」


 声は低く、静かだった。


「メアリー・レノックスです。引き取っていただいて、ありがとうございます」


 メアリーははっきりと答えた。伯爵がゆっくりと近づいてくる。その歩き方が少し変だった。わずかに右足を引きずっていて、注意しなければわからない程度だったが、確かに引きずっていた。


 伯爵がメアリーの前で止まった。近かった。成人男性の背の高さから見下ろされて、その目がメアリーの顔を舐めるように動いた。髪を、目を、鼻を、唇を。値踏みではない。何かを探している目だ。


「お前は」


 伯爵が言った。


「私の妻に、そっくりだ」


 声に、何かが滲んでいた。表情は動かないのに、声の奥に、抑えようとして抑えきれていない何かが。


「……肖像画の方ですか」

「踊り場で拝見しました。美しい方でしたね」


 伯爵の目が細くなった。


「見たのか」

「はい」


 暖炉の炎が弾ける音だけが、部屋に響いた。伯爵がメアリーから目を離し、窓の方を向いた。


「ここで暮らすにあたって、守ってほしいことがある」


 話が切り替わった。


「三つだ。一つ、裏庭の薔薇園には許可なく入るな。二つ、夜中に廊下を歩くな。三つ、地下には絶対に降りるな」


 地下。昨夜の花びらと同じ言葉だ。


「理由を聞いてもいいですか」

「薔薇園は管理が難しく、素人が触れると傷める。夜の廊下は転倒の危険がある。地下は構造が古く、危険だ」


 流れるような答えだった。用意していた答えだ、とメアリーは直感した。


「わかりました」


 メアリーは素直に頷いた。伯爵が改めてこちらを向いた。


「返事がいいな」

「従うかどうかは別の話ですから」


 言ってから、余計なことを言ったかと思った。でも伯爵の表情が、微かに変わった。笑った。笑顔ではない。口角が一ミリほど上がっただけの、笑顔の欠片のようなものだったが、今まで見た中で最も人間らしい表情だった。


「似ている」


 伯爵が小さく言った。


「口の利き方まで」


 それが褒め言葉なのか、そうでないのか、メアリーには判断できなかった。

 書斎を出て廊下を歩いていると、背後から声がした。


「メアリー」


 振り返ったが、廊下には誰もいなかった。書斎の扉は閉まっている。声は確かにした。男の声ではなかった。女の声だった。低く、かすれていた。


 廊下の両端を見た。左も右も、誰もいなかった。ただ廊下の突き当たり、暗がりの中に、また見えた。

 白い影ではなかった。黒い。人の形をした、黒いモヤのようなものが、壁に沿って立っていた。


 さっきの部屋の隅で動いた影と同じだ。輪郭がはっきりしない。境界が揺れていて、空気に溶け込もうとしているような。でも確かに、そこにある。


 メアリーは動かなかった。逃げなかった。じっと見た。

 黒い影も動かなかった。ただ、存在していた。やがて、モヤの中で二つの目のようなものが開いた。ぎょろりとした、白目のない、黒い目が。それがメアリーを見た。正確には、メアリーを見ているようでいて、少しずれていた。メアリーの少し後ろの空間を見ているような。


 メアリーは振り返る衝動を必死に抑えた。振り返ったら、背後に何かいると思ったら、振り返れない。

 影の目が、また動いた。今度はメアリーを正面からとらえた。ちゃんと見た。その目がゆっくりと細くなった。人間が笑う時のように。


 影が動いた。壁から剥がれるように廊下に踏み出し、下半分がモヤに溶けたまま床に沈み込みながら、こちらへ向かってくる。音がしなかった。完全な無音で、滑るように近づいてくる。

 メアリーは後退った。一歩、二歩。


「メアリーさん!」


 デイコンの声が廊下の端から飛んできた。その瞬間、影は消えた。デイコンが小走りで近づいてくる。


「どうしました、こんなところに立って」

「……なんでもない」


 影がいた場所を見た。ただの廊下だった。でも床に、うっすらと黒い染みのようなものが残っていた。影が床に沈んでいた、その場所に。


「それ、前からありましたっけ」


 デイコンが近づいて同じ場所を見ながら言った。


「さあ」


 二人は顔を見合わせた。


「伯爵とのお話は、どうでしたか」

「地下に行くな、と言われた。薔薇園にも入るな、と」


 デイコンが少し考えてから、声を落とした。


「薔薇園、気になってたんです。最近、庭を手伝っている時に気づいたことがあって。薔薇の根元の土が、あちこちで盛り上がってるんです。最近、誰かが掘った跡みたいに。でも庭師の爺さんに聞いたら、植え替えはしていないって」

「誰かが、掘った」

「夜中に、伯爵が庭にいることがあるんです。僕、見たことがあって」


 夜中の薔薇園。盛り上がった土。メアリーの頭に、一つの考えが浮かんだ。でもまだ、確信が持てない。持ちたくない。


「今夜一緒に庭を見に行ける?」


 デイコンは少し黙ってから頷いた。


「行きます」


 夕食の席に、クレイブン伯爵は来なかった。マーサが「今夜も体の具合が」と言った。

 メアリーは何も言わずに食事を終えたが、食事の間中、ずっと首筋が気になっていた。誰かに見られている感覚が、食事が終わるまで消えなかった。振り返っても、誰もいない。


 部屋に戻って窓の外を見た。夜の庭は暗く、薔薇の赤は闇に溶けて、黒い塊のように見えた。その薔薇の中に、一つだけ動くものがあった。人影だ。黒いコートを着た、背の高い人影が、薔薇の中に屈んでいた。


 クレイブン伯爵だった。夕食の席には来なかったのに、具合が悪いと言っていたのに、その人影が薔薇の中で長い時間、屈んだまま動かなかった。やがて立ち上がり、月明かりの中で、その手が光った。濡れていた。伯爵の両手が、月光を反射して黒く光っていた。


 メアリーは窓を握りしめた。

 伯爵が屋敷の方へ歩き始め、ふと空を見上げてから、そのままメアリーの部屋の窓を見上げた。目が合った。暗くて表情は見えなかったが、確かに伯爵はメアリーを見て、一秒、止まった。それから歩き続けて、屋敷の中に消えていった。


 カーテンを引いた。手が少し震えていた。ポケットの中の花びらを握った。


 『地下に来るな』


 書斎でもそう言われた。でも地下は後回しでいい。

 今夜確かめるべきは、庭だ。薔薇の根元の土と、伯爵の濡れた手。


 その答えが、怖かった。それでも確かめなければ、と思った。




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