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3話「肖像画」

 

 夜になると、屋敷は別の顔を見せた。


 昼間はまだ光が差し込んで、重苦しいながらも輪郭がはっきりしていた。

 でも日が落ちると、廊下の燭台の炎だけが頼りになる。その炎が壁に歪んだ影を作り出し、見慣れたはずの廊下を別の場所のように変えた。


 メアリーは眠れなかった。

 ベッドに入って一時間、天井を見つめていた。昼間の白い影が頭から離れなかった。廊下の奥で、壁を指差していた白い影が。あれは何を示していたのか。壁の向こうに何かある、そういうことだと思った。

 でも昨日来たばかりで、屋敷の構造もまだわからない。


 何より、本当に自分は正気なのか、という疑念が消えなかった。


 両親を亡くして三週間。知らない屋敷に連れてこられて、疲れと悲しみで頭がおかしくなっているだけかもしれない。白い影など、見えていない。扉の隙間の指など、なかった。そう思おうとした。


 でも首筋の感触が、まだ消えていなかった。昨夜の、息の感触が。


 メアリーは起き上がった。眠れないなら動いた方がいい。それが自分の性分だ。


 ランプを持ち、部屋を出た。

 廊下は静まり返っていた。メアリーのランプの炎が周囲をオレンジ色に染め、壁の燭台はすでに消えていて、自分の持つ明かりだけが頼りだった。


 足音を立てないように歩きながら、踊り場の肖像画へ向かった。昨夜の赤い雫が本物だったのかどうか、確かめたかった。それだけだ。


 踊り場が見えた。ランプの光が届く範囲に、肖像画が浮かび上がった。金髪の女性、薔薇を持つ白い手、薄い微笑み。ゆっくりと近づき、絵の具の盛り上がりが見えるほどの距離で目を見た。


 何もなかった。

 きれいな絵だった。精緻に描かれた、美しい女性の肖像。目の周りに赤い染みも、涙の跡も、何もない。やっぱり気のせいだったのだ。そう思って、ランプを下ろしかけたとき。


 肖像画の目が、動いた。

 瞳が、左へ。メアリーを追うように。

 メアリーは石のように固まった。絵の目がこちらを見ている。瞳だけが動いて、頭も体も動かないまま、視線だけがメアリーを追っている。


 夢だ。夢に決まっている。でも手のひらのランプの取っ手が冷たくて、足の裏に石の床の硬さがあって、これは現実の感触だった。


 目が、もう一度動いた。今度は下へ。肖像画の女性の視線が、絵の自分の手元に向かった。薔薇を持つ白い手へ。


 その薔薇の花びらが、一枚、音もなく落ちた。

 絵の具で描かれた花びらが、現実の空間に落ちるはずがない。

 でも確かに、床の上に赤い花びらが一枚、落ちていた。メアリーは膝を曲げ、拾い上げようとした。指先が触れる寸前に、花びらは消えた。跡形もなく。


 立ち上がり、もう一度肖像画を見た。薔薇は完全な状態で、花びらは一枚も欠けていない。女性は微笑んでいた。


 その目から、赤い雫が流れた。

 一筋、二筋。血のような赤が、白い頬を伝っていった。メアリーは声が出なかった。出せなかった。喉が締まったように、声が来ない。目を逸らせない。


 肖像画の女性が泣いている。血で、泣いていた。

 泣きながら、口が動いた。音はない。でも唇の形で、読めた。


 た、す、け、て。

 助けて。


「——っ」


 メアリーは後退った。踵が何かに当たり、反射的に振り返ったが、誰もいなかった。ランプを持つ手が震えていて、炎が揺れ、壁の影が不規則に動いていた。


 もう一度肖像画を見た。何もなかった。微笑む女性、完全な薔薇、乾いた頬。唇は動いていない。静止した絵だ。


 メアリーは深呼吸を三回した。手の震えが少し収まった。気のせいだ。疲れているから。そう思おうとした、その瞬間。


 肖像画の後ろから、音がした。壁の向こうから、かすかに。


 ドン、ドン、ドン。


 規則的に、何かを叩く音。三回で止まった。

 メアリーは動けなかった。炎だけが揺れていた。

 翌朝、メアリーはデイコンに聞いた。


「踊り場の肖像画の後ろ、壁の向こうは何があるの?」


 デイコンが朝食の片付けをしながら少し考えた。


「踊り場の後ろ……階段の裏手ですよね。確か使わない小部屋があると聞いたことがあります。でも鍵がかかっていて、入ったことはないですね」

「誰が使ってたの?」

「昔は奥様の部屋だったって、古い使用人から聞きました」


 クレイブン卿の奥様の部屋が、肖像画の真後ろにある。メアリーはその事実を頭の中で転がした。


「なあ、デイコン」

「はい」

「この屋敷で、変なことが起きたことはある?」


 デイコンの手が止まった。皿を持ったまま、少しの間動かなかった。


「変なこと、というのは」

「音がするとか。見えないはずのものが見えるとか」


 デイコンはゆっくりと皿をテーブルに置いて、メアリーを見た。真剣な目だった。


「メアリーさんは、何か見ましたか」


 聞き方が変わっていた。敬称がついた。


「肖像画の目が動いた。それだけよ」


 デイコンが少し考えてから、椅子を引いてメアリーの向かいに座った。行儀が悪いのかもしれないが、メアリーは気にしなかった。


「正直に言います」


 デイコンが小声になった。


「この屋敷、おかしいんです。ずっと前からそうなんですけど、ここ最近、特に。夜中に物音がする。使用人が一人いなくなった。それから廊下に、誰かいるんです。見えない誰かが」

「足音が聞こえる。でも誰もいない。それが毎晩で」

「白い影を見たことは?」


 デイコンの目が大きくなった。


「見えるんですか、メアリーさんにも」


 二人は黙って、互いを見た。同じものを見ている。その事実が、不思議と少し恐怖を薄めた。自分だけではないとわかることで、正気を確認できる。でも同時に、恐怖も確かになる。二人が見ているなら、それは現実だ。


「白い影は、昨日廊下の壁を指差してた。それから踊り場の後ろの壁でも、音がした」

「壁の後ろに、隠し部屋があるかもしれない」

「探したい」

「一緒に探します」


 即答だった。


 午前中、二人は踊り場に向かった。肖像画を正面から確認したが、昼間の光の中ではやはり何も変わったところはなかった。美しい女性の肖像画だ。


「この絵、ずっとここにあったの?」

「僕がここに来た時からあります。五年前から」


 デイコンが肖像画の横の壁を叩いた。コン、コン。硬い音がする。石の壁だ。肖像画の裏側の縁の向こうの壁も叩いた。コン、コン。同じ音。


 メアリーが少し右へ移動して、壁を叩いた。コン、コン。そしてもう少し右。


 コン。


 音が変わった。低い、空洞のある音だった。


「ここ」


 メアリーはその場所をもう一度叩いた。確かに、向こうに空間がある。


「やっぱり」


 デイコンが壁を手で探り始めた。壁紙の継ぎ目、装飾の凹凸、木枠の端。古い屋敷には隠し扉がよくある。

 五分ほどして、デイコンの指が止まった。


「これ……」


 壁の装飾の一部、蔦の模様を象った木彫りのレリーフの中の一つ、薔薇の形をした突起だった。デイコンがそれを押すと、カチッと音がして、壁の一部が数センチ内側に引っ込んだ。


「開いた」


 指を入れて引くと、重い木製の扉が軋みながら開いていった。黴と埃の匂いが流れ出して、その奥に薔薇の香りが混じっていた。


「ランプ、持ってきます」


 デイコンが走って取りに行き、メアリーは開いた扉の前に立って暗い内部を覗いた。狭い通路が奥へ続いている。五歩ほどで別の空間に出られそうだった。


 黴の匂いの奥に、甘い薔薇の匂いが漂っていた。この閉じた空間の奥から、薔薇の香りが来る。なぜここから薔薇の匂いがするのか。

 デイコンがランプを持って戻ってきた。


「行きますか?」

「行く」


 メアリーが先に暗い通路に踏み込んだ。

 通路は短く、五歩ほどで六畳ほどの小さな部屋に出た。窓は外側から何かで塞がれているらしく、光が入らない。ランプを掲げると、部屋の全体が見えた。


 埃が積もっていた。長いこと誰も入っていなかった様子で、床にも棚にも白い埃が均一に積もっていた。

 でも一つだけ、埃がついていないものがあった。部屋の中央に置かれた椅子の座面だけが、埃がなかった。最近、誰かが座っていた。


 椅子の正面には窓がある。塞がれた窓。でもその窓に向かって座れば、ちょうど踊り場が見える。肖像画が見える。誰かがここから、肖像画を見ていた。


 棚には古い小物が置かれ、全部に埃が積もっていた。でも棚の一番下の段に、一輪だけ生きた薔薇が置かれていた。赤く、鮮やかな、まだ開ききっていない蕾が。今日、今朝、誰かがここに置いた。それ以外に考えられなかった。


 メアリーが薔薇に手を伸ばした瞬間、背後で扉が閉まった。隠し扉が、内側から閉まった。

 暗闇になった。ランプの炎だけが揺れていた。


「デイコン!」

「いる、ここにいます」


 デイコンが扉に飛びついて押し引きしたが、開かなかった。メアリーも手をかけたが、動かなかった。


 その時、部屋の隅に気づいた。ランプの炎に照らされた壁際に、影があった。人の形の、黒い影が壁に貼りついていた。でも壁際に人はいない。光源はランプ一つで、その位置からではこんな場所に影は生まれない。


 影が、動いた。ゆっくりと壁を這うように、こちらへ向かってきた。


「開いた!」


 デイコンが叫んで、扉が開いた。二人は通路に飛び出し、踊り場に出てデイコンが扉を閉めた。カチッと音がして、壁に戻った。

 二人とも壁に背をつけて呼吸を整えた。


「今の部屋の隅の影、見えた?」

「見えた」


 短い答えだった。二人はしばらく沈黙した。

 白い影は助けてくれる。壁を指差したのは、この隠し部屋を教えるためだったのだ。でも黒い影は違う。部屋に閉じ込めようとした。


 隠し部屋に誰かが来ていた。生きた薔薇を置いた誰かが。そして肖像画は血の涙を流して、助けてと言った。すべてが繋がっているはずだ。でもまだ何も、わからなかった。


 踊り場の肖像画が、メアリーを見ていた。今は動かない。ただの絵だ。でもその目の奥に、確かに何かが宿っているような気がして、メアリーは視線を逸らせなかった。


 その夜、メアリーが部屋に戻ると、枕の上に何かが置かれていた。薔薇の花びらが一枚。窓は閉まっていて、扉には内側から鍵をかけておいたはずなのに、花びらは確かにそこにあった。


 つまみ上げると、花びらの裏に文字が書かれていた。細い、震えるような筆跡で。


『地下に来るな』




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