2話「歓迎」
朝が来た。
メアリーは眠れなかったわけではない。
ただ、何度か目が覚めた。理由はわからない。物音がしたような気がするたびに、目を開けて天井を見つめ、また目を閉じた。
暖炉の火は夜明け前に落ちていて、部屋は冷えていた。
起き上がり、カーテンを開ける。
霧は薄くなっていた。
庭が見えた。
広い。思っていたよりずっと広い敷地だ。手入れされた芝、低い生け垣。
そして、薔薇。
薔薇。
薔薇。
薔薇。
どこを見ても薔薇だった。
この季節に、信じられないほど鮮やかに咲いている。赤、深紅、暗赤色。色の違いはあっても、すべてが赤系統で統一されていた。黄色も白もない。ただひたすらに赤い。
庭の奥、屋敷の裏手の方角に、高い煉瓦の塀が見えた。
扉があるようだが、遠くてよくわからない。塀の内側には、さらに濃い赤色が群生しているようだった。
あそこだけ、色が違う。
他より暗い、黒みがかった赤。
メアリーは目を細めた。
そのとき、庭に人影が見えた。
黒いコートを着た、背の高い男性。
庭師だろうか。塀の近くで立ち止まり、何かを見ている。
いや、違う。
その人影は庭の手入れをしているのではなく、ただ、立っていた。微動だにせず、塀の前で。その姿勢には何か異様なものがあった。背筋が伸びすぎている。人形のような静止の仕方。
メアリーが窓に手をかけた、その瞬間。
男性がこちらを向いた。
距離があって顔は見えない。でも確かに、屋敷の二階を、メアリーの部屋を、見上げている。
メアリーは思わず一歩下がった。
もう一度窓を見たとき、庭には誰もいなかった。
「おはようございます、お嬢様!」
廊下に出たとたん、明るい声が飛んできた。
振り返ると、少年が立っていた。
十五歳くらいだろう。日に焼けた肌、くせのある栗色の髪、屈託のない笑顔。使用人の格好をしているが、その笑顔はどこか野生的で、森で育ったような活気があった。
「デイコンといいます。マーサの弟です。よろしくお願いします」
「メアリーよ。よろしく」
メアリーも笑い返した。この笑顔は信用できる、と直感的に思った。
「屋敷の案内、しましょうか?ご飯の前に少し時間があります」
「ぜひ」
デイコンは嬉しそうに頷き、廊下を歩き始めた。メアリーが並ぶ。
「この屋敷、広いですよ。迷子になる人が多いくらいで。特に三階から先は、普段は使わないんで鍵がかかってます」
「どうして使わないの?」
デイコンは少し口を噤んだ。
「……昔は使ってたらしいんですけどね。今は閉めてあります」
「クレイブン卿の奥様が亡くなってから?」
デイコンがこちらを見た。少し驚いた顔だ。
「よくご存知ですね」
「昨日、マーサさんから肖像画の話を少し。亡くなった奥様の絵が階段にあるって」
「ああ……あれ、僕は正直苦手で」
デイコンが小声になった。
「なんか、見てる気がするじゃないですか、あの絵」
メアリーは昨夜の記憶を思い出した。赤い雫。涙のような。
「気がするどころか、見てるんじゃないかって思うこともあって」
デイコンは冗談めかして笑ったが、目は笑っていなかった。
屋敷は確かに広かった。
応接室、書斎、食堂、図書室。どれも重厚な調度品で揃えられていて、センスは悪くないのだが、どこかが変だった。
人の気配がない。
使用人が何人かいるはずなのに、廊下で誰かと行き違うことがほとんどない。時々遠くで足音が聞こえるが、角を曲がると消えている。
「使用人さんって、何人いるの?」
「表向きは六人です。ただ、最近一人減って……」
「減った?」
「先月、ルーシーさんという方がいなくなって。急に、ある日突然来なくなったんです」
デイコンの声のトーンが下がった。
「辞めたの?」
「そういうことになってます」
そういうことになっています、という言い方が引っかかった。メアリーは聞き返そうとしたが、デイコンが廊下の先を指差した。
「ここが図書室です。本が好きなら使ってください。カギはかかってないんで」
話を変えた。
メアリーの話を変えさせた。今は深追いしないでおこう、と思った。まだ昨日来たばかりだ。
図書室の扉を開けると、天井まで届く本棚が並んでいた。古い本の匂いがする。
その中央に、大きなテーブルがあり、窓から朝の光が差し込んでいた。
そして床に、何かが落ちていた。
白いハンカチだ。
メアリーが拾い上げると、マーサが廊下から声をかけた。
「あ、それ私のです。昨日落としたみたいで。ありがとうございます」
受け取ったマーサの顔を、メアリーはじっと見た。
なぜ図書室にマーサのハンカチが。昨日来たばかりで、図書室には案内されていない。
聞こうとして、やめた。
朝食の時間だ、とマーサが笑顔で促す。
メアリーは床をもう一度見た。
ハンカチが落ちていた場所に、うっすらと、茶色い染みがあった。
古い血のような色の、染み。
小さかったので、見なかったことにした。
食堂は広すぎた。
長いテーブルの一方の端にメアリーが座らされ、料理が運ばれてくる。ポーチドエッグ、トースト、紅茶。質素だが悪くない。
テーブルの反対側の端には、椅子があったが、そこに座るはずの人物は現れなかった。
「クレイブン卿は?」
メアリーが聞くと、マーサが申し訳なさそうに答えた。
「今朝も少し体の具合が。午後にはお会いになれると思いますが……」
ということは、昨日の庭の人影はクレイブン卿ではないかもしれない。使用人でもなさそうだった。
誰だったのか。
紅茶を一口飲んだとき、廊下側の壁に視線を感じた。
食堂の壁には小さな窓がある。廊下と食堂を隔てる窓で、料理の受け渡しに使うものらしかった。
その窓の向こうに、目があった。
子供の目だ。
暗い廊下から、こちらを覗いている。
メアリーは真っ直ぐそちらを見ると
目がひっこんだ。
「……デイコン」
「はい?」
「廊下に、誰かいるの?」
デイコンとマーサが顔を見合わせた。
二人の間に、何かが通った。目線だけの、素早いやりとり。
「いないと思いますけど」
デイコンが立ち上がり、食堂の扉を開けて廊下を確認した。
「誰もいませんよ」
そう言って戻ってくる。
メアリーはさっきの窓をもう一度見た。
何もいない。
ただ、窓の桟に、小さな手の跡がついていた。
埃の積もった桟に、子供の手の形がくっきりと。
まるでつい今しがた、誰かがそこに触れたように。
午後になっても、クレイブン卿は姿を見せなかった。
メアリーは一人で屋敷内を探索することにした。デイコンは庭仕事に出ていて、マーサは洗濯で忙しそうだった。
二階の廊下を歩く。
この屋敷は廊下が多い。曲がり角が多くて、覚えるまで時間がかかりそうだった。
踊り場の前を通ると、肖像画の前に出た。
昨日より、近くで見る。
金色の髪、薄い微笑み。薔薇を持つ白い手。
確かに美しい絵だ。画家の腕もいいのだろう、非常に精緻に描かれている。
目が特に、リアルだった。
瞳の奥に光があって、まるで本当に光を宿しているように見える。
メアリーは目を逸らして歩き始めた。
廊下の奥へ進む。突き当たりに、扉がある。閉まっている。
どこへ続く扉だろう。試しに取っ手を引いてみると、鍵がかかっていた。
その扉の前に立って、メアリーは気づいた。
音がする。
扉の向こうから、かすかに。
コツ、コツ、コツ。
規則的な足音。
でも、リズムが少し変だ。引きずるような、不規則なアクセントが混じっている。
コツ、コツ、ズッ。
コツ、コツ、ズッ。
何かを引きずって、歩いている?
メアリーは扉に耳を押し当てた。
足音は続いている。遠ざかり、また近づく。部屋の中を行き来しているようだ。
そして音が止まった。
と思った瞬間、扉の向こうで、ドン、と重いものが床に落ちる音がした。
メアリーは思わず飛び退いた。
心臓が跳ね上がる。
扉を見つめたが何も起きない
音も止まった。
深呼吸。
大丈夫。
立ち去ろうと踵を返した瞬間、扉の下の隙間から、細い、白いものがスッと出てきた。
扉の隙間から、子供の指が四本、ゆっくりと這い出てきた。
メアリーは恐怖のあまり声をった。
次の瞬間、廊下の反対側から、マーサの声がした。
「お嬢様! こんなところにいらしたんですか、探しましたよ」
メアリーは床を見たが
指は消えていた。
扉の下の隙間には、何もなかったように見えた。
「……マーサさん、この扉の向こうは何ですか?」
マーサが表情を硬くした。また、あの一瞬の固まり方だ。
「物置でございます。長いこと使っていませんので、鍵がかかっております」
「さっき、音がしていたんですが」
「きっと、屋敷が古いせいで軋む音かと。このお屋敷、あちこちで音がするんですよ」
自然な説明だった。
でもその時、廊下の奥、暗がりの中に、何かが見えた気がした。
白い。
昨夜、玄関ホールで見たのと同じ、フワッとした白い人影。
今度はこちらを見ていない。
廊下の突き当たり、壁の前で、ただ立っている。
そしてゆっくりと、腕を上げた。
壁を指差している。
壁を。
「お嬢様?」
マーサの声でメアリーは我に返った。
廊下の奥には、何もなかった。白い影は消えていた。
「なんでもないです」
メアリーはそう答えた。
でも歩き出しながら、さっきの壁を見たが
壁に扉はない、ただの石壁だ。
でも。
どうして白い影は、あそこを指差していたのか。
あの壁の、向こうには。
何がある。
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