1話「ノック」
霧が、すべてを飲み込んでいた。
馬車の窓から外を眺めていたメアリー・レノックスは、ヨークシャーの荒野がどこまでも続く灰色の闇に沈んでいくのを、ぼんやりと見つめていた。
十五歳。
両親を失って、まだ三週間しか経っていない。
馬車は事故で潰れた。正確には、霧の夜に制御を失い、崖下へ転落した。父も母も、翌朝には冷たくなっていた。メアリーだけが、なぜか座席の下に挟まって、かすり傷ひとつで生き残った。
なぜ自分だけが、と思わないといえば嘘になる。
でも泣いてばかりいても仕方がない。そういう性分だった。前を向く。とにかく前を向く。それがメアリーという人間の、生まれついての癖だった。
馬車が揺れるたびに、鞄の中で何かが小さくぶつかる音がした。母のブローチだ。形見として持ってきた、小さな銀の薔薇の飾り。
イギリス。ヨークシャー。
クレイブン伯爵の屋敷。
唯一の親族と言われても、メアリーはその名前を聞いたことすらなかった。父の兄だというが、家族の話題に一度も登場しなかった人物が、突然「引き取る」と言い出した。
理由はわからない。でも行くしかなかった。
馬車が速度を落とした。
御者が短く声を上げる。
「着きましたよ、お嬢さん」
メアリーは窓の外を見た。
そして息を飲んだ。
屋敷は、生きていた。
そうとしか言いようがなかった。
霧の中から浮かび上がったそれは、黒い石造りの巨大な建物で、縦に長く、窓が不規則に並んでいた。いくつかの窓には明かりがあり、いくつかは暗く、まるで目を開けたり閉じたりしているようだった。
塔が二本、空に向かって突き刺さっている。その先端は霧に隠れて見えない。
門は錆びた鉄製で、開け放たれていた。
馬車が砂利道をゆっくりと進む。左右に並ぶ木々は枝だけが剥き出しで、葉が一枚もなかった。まるで骨のようだ、とメアリーは思った。季節は秋の終わりとはいえ、これほど完全に葉が落ちているのは異様だった。
そして匂いがした。
甘い。
濃厚な、花の匂い。
この季節に?
メアリーは眉をひそめた。馬車の窓を少し開ける。冷たい霧の空気の中に、確かに漂っている。薔薇だ。間違いなく薔薇の香りだが、その奥にもう一つ、何か別の匂いが混じっていた。
金属のような。鉄のような。
血の匂いに似た何か。
馬車が止まった。
正面玄関の扉は、重厚な黒い木製だった。
メアリーは鞄を持って馬車を降り、石の階段を三段上がり、真鍮のドアノッカーを手に取った。冷たい。ひどく冷たい。まるで金属の温度ではなく、もっと深い場所から来る冷たさだった。
コン、コン、コン。
音が響いた。屋敷の中へ、遠く、深く、吸い込まれていくように。
静寂。
メアリーは待った。
三十秒。一分。
返事がない。
もう一度ノックしようと手を上げたとき、扉が動いた。音もなく、内側へ向かって、ゆっくりと開いていく。
メアリーは一歩踏み出して、中を覗き込んだ。
誰もいなかった。
広い玄関ホールが広がっているだけだ。石の床、高い天井、左右に伸びる廊下。壁には燭台が等間隔に並んでいて、炎が揺れている。人の姿はどこにも見えない。
扉は、なぜ開いたのか。
風圧、と思おうとした。でも外は無風だった。
「……こんにちは?」
メアリーは声をかけた。
エコーが返ってくるだけだ。
仕方なく中に入る。足音が石の床に響いた。鞄を右手に持ち直し、ホールを見渡す。
正面に階段がある。幅の広い、重厚な階段。そして踊り場に、大きな肖像画が飾られていた。
遠くてよく見えないが、人物画らしい。女性だろうか。
そのとき気づいた。
廊下の奥、左手の暗闇の中に、人影がある。
人の形をした、白い何かが、じっと立っていた。
メアリーは目を凝らした。
白い、フワッとしたシルエット。人の輪郭に似ているが、輪郭がはっきりしない。靄のような、煙のような。でも確かに、そこにある。
「……誰か、いますか」
声をかけた瞬間、白い影は消えた。
霧が晴れるように、すっと。
跡形もなく。
メアリーは数秒、その場所を見つめた。
気のせいだ、と思おうとした。
疲れているから。長旅だったから。悲しみで神経が参っているから。
理由はいくらでも並べられた。
だから前を向いた。
「あら、いらっしゃいましたか!」
明るい声と共に、廊下の右側から少女が駆けてきた。茶色い髪をひとつに束ね、白いエプロンを着けた、十八歳くらいの娘だ。頬が赤く、息が少し上がっている。
「すみません、お出迎えが遅れてしまって。私はマーサと申します。お嬢様のお世話をさせていただく者です」
マーサは深くお辞儀をした。
「メアリーです。メアリー・レノックス」
「はい、伺っております。遠いところをよくいらっしゃいました」
マーサは人懐こい笑顔だった。その笑顔が、少しだけメアリーの緊張を解いた。
「さ、お部屋へご案内します。お荷物をお持ちしますね」
「ありがとう。あの……」
メアリーは廊下の奥を振り返った。
「さっき、あちらに誰かいた気がしたんですけど」
マーサは一瞬、表情が固まった。ほんのわずか、一瞬だけ。すぐに笑顔に戻ったが、その一瞬をメアリーは見逃さなかった。
「さようですか。使用人が通ったのかもしれません。この屋敷は廊下が多うございますから」
そう言って、さっさと階段へ向かう。
メアリーは続いた。
踊り場の肖像画が、近づくにつれて大きくなった。
金色の髪。整った顔立ち。白い首。薔薇を一輪、手に持っている。
美しい女性だった。三十代だろうか。唇が薄く微笑んでいる。
「この絵は誰ですか?」
「……先代の奥様でございます」
マーサの声が、わずかに低くなった。
「クレイブン卿の、奥様」
メアリーは絵を見上げた。
金色の髪の女性が、静かに微笑んでいる。
その目が。
その目が、じっとメアリーを見ていた。
描かれた瞳が、こちらを追いかけているような、そんな錯覚。
そして。
メアリーは目を疑った。
肖像画の目尻から、赤い雫が、一筋流れた。
血のような色の、涙が。
「お嬢様?」
マーサが振り返る。
メアリーは肖像画を見た。
何もなかった。
穏やかな微笑みだけが、そこにある。涙の跡など、どこにも。
「……なんでもありません」
メアリーは続きの階段を上った。
背後で、燭台の炎が一斉に揺れた。
風などなかったのに。
案内された部屋は、思ったより温かかった。
暖炉に火が入っていて、ベッドは清潔なリネンで整えられている。窓際に花瓶があり、赤い薔薇が一輪差してあった。この季節に、鮮やかすぎるほど赤い薔薇が。
「伯父さまには、いつ会えますか?」
「クレイブン卿は……今日は少し、体の具合が優れないとのことで。明日の朝食の席でお会いになると思います」
「そうですか」
「何かご入り用のものがあれば、遠慮なく」
マーサは優しく言い、部屋を出ようとした。
「マーサさん」
メアリーは呼び止めた。
「この屋敷、ずっとこんなに静かなんですか」
マーサは扉に手をかけたまま、少しの間黙った。
「……静かな屋敷でございます」
それだけ言って、出ていった。
扉が閉まる。
メアリーは一人になった。
暖炉の火が、ぱちぱちと弾けている。
窓から外を見た。霧はさらに濃くなっていた。庭らしき場所が下に広がっているが、何も見えない。ただ、白い霧の中に、真っ赤な色が点々と滲んでいるのがわかった。
薔薇だ。
この霧の中でも、薔薇は赤い。
異様なほど、赤い。
メアリーはカーテンを引いた。
ベッドに腰を下ろし、母のブローチを手のひらに乗せた。銀の薔薇。
「お母さん」
声に出してみた。
返事はない。当然だ。
目を閉じ、深呼吸をする。
大丈夫。前を向く。
そう決めた瞬間だった。
背後で、音がした。
コツ、と。
靴底が床を叩くような、一歩分の足音。
でもメアリーはベッドに座っていて、背後は壁のはずで、誰もいないはずで。
ゆっくりと振り返った。
壁があった。
誰もいない。
当然だ。
でも。
首筋に、息がかかった。
確かに。
息が。
誰かの、吐息が。
メアリーは弾かれたように立ち上がり、振り返った。
何もいない。
暖炉の火が揺れている。
部屋の隅まで見渡した。ベッドの下も。カーテンの裏も。
何もいない。
心臓が速く打っていた。
だってそんなはずはない。窓は閉まっている。扉も閉まっている。誰かが入れる場所など。
視線が、花瓶に止まった。
薔薇が、一輪。
さっきまで確かに赤かった。
その花びらの先端が。
黒く、変色していた。
まるで腐り始めているように。
メアリーは唇を噛んだ。
気のせいだ。
そう思うことにした。
でも眠りにつくまでの間、ずっと。
首筋の感触が、消えなかった。
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