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嵐の夜

 

 その夜、ヨークシャーに、地獄の蓋が開いたかのような嵐が訪れた。


 風は獣の咆哮となって屋敷を包囲し、庭の木々を狂ったように揺さぶった。


 そして、叩きつけるような雨が来た。

 それはもはや雨というより、空から降り注ぐつぶてだった。


 使用人たちは、嵐の気配を察して早々に自室へと引きこもっていた。


「こんな夜は、外を見てはいけない。ましてや、主人の部屋の近くを通るものではない」


 誰も口には出さなかったが、屋敷を支配する重苦しい沈黙が、全員の胸にそう告げていた。


 ただ一つ、クレイブン卿の書斎の扉だけが、固く、冷たく閉ざされていた。




 豪雨の轟音に紛れて、とぎれとぎれに微かな「声」が漏れ聞こえてきた。

 低く、湿った、押し殺したような怒り。それが、稲妻が光るたびに少しずつ、狂気を帯びて増していく。


「いつからだ」


 沈黙。雨音だけが、部屋の空気を削り取る。


「いつからだと聞いているッ!」


 突如として放たれた怒鳴り声が、雷鳴と重なった。激しい雷鳴が轟き、窓ガラスに二人のシルエットが鮮烈に浮かび上がる。

 屹立する男の影。そして、その前で肩を震わせ、崩れ落ちそうになっている女の影。


「三ヶ月――三ヶ月もの間、私を騙し続けていたのか! お前が通っていた場所も、会っていた男も、すべて……すべては嘘だったのか!」

「違うの、あなた、聞いて……」

「黙れッ!」


 何かが砕け散る乾いた音がした。

 高価な陶器が床に叩きつけられ、その破片が主人の怒りを具現化するように飛び散る。外の雨は、さらに勢いを増した。


「あんな男の、どこが良かった」


 声の色が変わった。野獣のような叫びではない。

 冷たく、静かで、底の知れない澱みを含んだ声。その静寂は、いかなる怒号よりも深く、聴く者の心臓を凍りつかせた。


「あんな……男の、どこが……」

「あなた……」

「答えろ」

「……ごめんなさい」

「答えろと言っているんだ!」

「あなた、お願い、落ち着いて……!」

「落ち着けだと? 妻が、私の妻が、他の男と睦み合っていたというのに! お前は私のものだ! 私が名を与え、地位を与えた、私の所有物だろうが!」


 雷光が窓を白く染める。

 男が一歩、獲物を追い詰めるように近づく。女は、絶望的な後退を繰り返す。


「私の何が、足りなかったというのだ」


 男の声に、怒りとは別の、湿り気を帯びた執着が混じり始める。


「何が不満だった。この壮麗な屋敷を与えた。不自由のない金を与えた。継嗣となるコリンも生まれた。お前の望むものは、すべてこの手の中にあったはずだ。何が、足りなかった!」

「あなたが――」


 女の声は、もはや掠れた悲鳴に近かった。


「あなたが、私を一度も見ていなかったからよ……!」

「何だと?」

「あなたはいつも薔薇のことばかり。書斎に閉じこもり、土と血の匂いをさせて……。私には話しかけもしなかった。あの子、コリンのことだって、一度でも抱き上げたことがある? 私は、寂しかったのよ!」


 女の声が、激しく震える。


「あなたの隣にいても、私はずっと一人だった。話しかけても振り向かず、指先が触れても石像のように反応しない。私はこの広い屋敷で、生きながら埋められているようだったのよ! 寂しかったの……!」

「黙れと言っている……!」

「寂しかったのよ!」


 乾いた、硬い音がした。

 それは、人の肌と肌が激突する音。頬を叩く衝撃が、一瞬の静寂を生んだ。

 続いて聞こえてきたのは、女の力ない、しかし深い絶望を湛えたすすり泣きだった。


 再び、天を引き裂くような雷光。

 窓ガラスに映し出されたのは、あまりにも残酷な光景だった。

 男が女の胸ぐらを掴み上げ、振り上げられた男の手。


「『寂しかった』、だと?」


 男の声は、もはや人のそれではなく、地の底から響く呪詛のようだった。


「お前の情欲の言い訳に、その言葉を使うのか。私は何もしていないというのか? 薔薇を育てたのは誰のためだ。お前のその白い肌に似合う、最高の色を作るためではなかったか。この屋敷の品位を守ってきたのは、誰だと思っている!」

「あなた……やめて、お願い、離して……!」

「お前は私の妻だ。そういう『契約』を交わしたはずだ。お前の魂も、肉体も、すべては私の管理下にある!」

「ごめんなさい……! 苦しい、放して!」


 鈍い音が響いた。

 今度は頬ではない。肉と骨がぶつかり合う、重く、沈んだ音。

 何かが倒れる音が続く。椅子が跳ね飛ばされ、人が床に叩きつけられる音。


「許さん」


 男は、囁くように言った。


「許さん。お前を絶対に、許しはしない」


 雨は狂ったように屋根を叩き、廊下まで届くはずの叫び声を残らず塗り潰していく。


「助けて……」


 女が、這いずりながら喘いだ。


「誰か……誰か、助けて……!」

「助けを呼ぶ相手なら、もうこの世にはいない」


 男が冷酷に告げる。


「あの男を呼ぶか? 呼んでみろ。来るはずがなかろう。お前は私の妻だ。逃げられる場所など、どこにもないのだ」

「ごめんなさい……苦しい……息が……」

「尻軽女め。私の名誉を汚した罪、その命で贖ってもらうぞ」


 雷鳴が二人の声をかき消した。

 激しい衝撃音。木材が割れるような、あるいは骨が軋むような、嫌な音が書斎に響いた。

 女の叫びは、不自然に途切れた。


 雷光が、断続的に部屋を照らし出す。


 女は、苦悶の表情のまま仰け反っていた。

 男の両手は、その細い首に、蛇のように絡みついている。


 強く、強く。


 女の手が、男の腕を必死に掻きむしり、引き剥がそうとするが、鉄のように固まった男の腕は微動だにしない。


 窓の向こうでは、雨が牙を剥くように叩きつけていた。


 雷が再び光る。

 女の手が、男の腕から力なく離れた。

 命の灯火が消えた指先が、だらりと床に向かって垂れ下がる。


 稲妻が止み、一時の暗闇が戻った。

 すると、あんなに激しかった雨が、嘘のように止んだ。

 嵐が去った後の不気味な静寂の中、屋根から水滴が滴る音だけが、規則正しく時を刻む。


 しかし、空の怒りはまだ収まってはいなかった。

 音のない稲妻が、雲の奥で明滅し続け、窓ガラスを断続的に照らし出す。


 そこには、床に屈み込んだ男のシルエットがあった。

 男は、足元に横たわる死体の髪を、その根元から乱暴に掴み上げた。


 女の、自慢だった長い金髪が、男の拳の中で無残に握り潰される。

 男はそのまま、遺体を引きずり始めた。

 ずるずると。ずるずると。

 床に散らばった陶器の破片を、、物言わぬ肉体が削りながら進む。


 扉が開く。

 廊下の石床に、何かが引きずられる音が響き渡る。

 ずるずると。

 階段を降りていく、規則的な重い足音と、引きずられる音。


 その音は地下へ、あるいはあの忌まわしい薔薇園へと向かい――やがて、聞こえなくなった。


 誰もいなくなった書斎には、惨劇の痕跡だけが残されていた。

 割れた陶器。なぎ倒された椅子。

 窓ガラスに残った雨の跡が、まるで涙のように幾筋も流れている。


 不意に、今日一番の稲妻が閃いた。

 その青白い光が、扉へと続く「道」を冷徹に照らし出す。

 赤い染みが、黒い糸のように、扉の向こうの闇へと続いていた。

 引きずられた跡が、生々しい傷跡のように床に刻まれている。


 雷光が消え、深い、深い暗闇が屋敷を包み込んだ。

 ヨークシャーの嵐の夜は、こうして静かに、しかし永遠の呪いを残して終わりを告げた。

 



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