12話「地下の扉」
長く、そしてあまりにも暗い夜が、ようやく終わりを告げようとしていた。
エドワードの部屋に差し込む朝の光は、救いというよりは、これから始まる決戦を冷徹に照らし出す合図のように思える。結局、昨夜は一睡もできぬまま、全員がこの一室で身を寄せ合って過ごした。
椅子で泥のように眠りこけるデイコン、壁に寄りかかり浅い呼吸を繰り返すマーサ。ベッドの端に腰を下ろしたコリンは、まるで魂をどこか遠くへ置き忘れたかのように、虚空を見つめて瞬きを繰り返している。
そして、エドワードだけは獣のような警戒心を一度も解くことなく、窓外の闇を凝視し続けていた。
メアリーはそっと窓際に歩み寄り、結露したガラス越しに庭園を見下ろす。廊下を這いずっていた不気味な影は、陽光に焼かれるようにしてその密度を失っていたが、完全に消滅したわけではない。
エドワードの予言通り、昼の光は影から「形」を奪うものの、屋敷の深層に根を張る呪いまでは断ち切れないのだ。
「……今日中に、すべてに決着をつけるぞ」
エドワードが硬質な声を出し、停滞していた室内の空気を切り裂く。
立ち上がった彼の瞳には、寝不足の疲労など微塵も感じさせない、鋭い殺気が宿っていた。
「陽光が我々の味方をしているうちに地下の証拠を確保し、脱出の筋道を立てる。昨夜のように影に退路を断たれる前に、こちらから仕掛けるんだ」
「影が弱まっている今なら、動けるはずね。行きましょう、エドワード」
メアリーが力強く同意すると、コリンもまた、震える手でベッドの縁を掴みながら立ち上がった。その頬は幽霊のように青白いが、瞳の奥には父親への恐怖を塗りつぶすほどの、切実な意志が灯っている。
「僕も……僕も行くよ。ここに一人で残されて、またあの影に連れて行かれるのを待つなんて、もう耐えられない。叔父さんと一緒がいいんだ」
真っ直ぐな少年の視線に圧されたのか、エドワードは短く溜息をつき、その細い肩に大きな手を置いた。
「わかった。だが、決して俺の側を離れるな。いいな」
「うん、約束する」
一同は厨房へと移動し、冷えたパンとスープで手早く朝食を済ませる。使用人の誰もいない静まり返った館は、まるで巨大な墓標のようだ。
「旦那様は早朝から書斎に籠もっておいでです。重い扉には内側から鍵がかけられていました」
デイコンの報告を聞き、エドワードの表情が一段と険しくなる。
「今夜の儀式に向けて、最終的な準備に入っているのだろう。エレナの手記にあった『明日の夜』という記述が、一昨日書かれたものだとすれば、刻限は今夜に他ならない」
今夜。その言葉が、破滅へのカウントダウンを告げる鐘のように、一同の胸に重く響き渡った。
「作戦を伝える。まず、私とメアリーで地下へ潜り、伯父の犯罪を証明する日記を奪う。その間、デイコン、お前は厩舎の馬で村の電報局へ走れ。どんな手を使ってでも警察を呼ぶんだ」
「承知しました。外の影が昼間の光に怯んでいる隙に、一気に駆け抜けます」
決死の覚悟を固めたデイコンを裏口から送り出し、エドワードは残った二人に厳命を下す。
「コリンとマーサは居間で待機だ。扉を閉ざし、内側から閂をかけ、何があっても開けるな。たとえ誰の声が聞こえてもだ。いいな」
エドワードとメアリーは、屋敷の最奥にある、地下へと続く禁忌の扉の前に辿り着いた。
メアリーは服の内側に隠し持っていた、古びた鉄の鍵を取り出す。昨夜のうちに、石壁の隠し場所から命がけで回収しておいたものだ。震える指先で上下二つの複雑な鍵穴に差し込み、ゆっくりと力を込める。
カチン、カチン――。
冷徹な金属音が静寂を切り裂き、重厚な扉がゆっくりと、飢えた怪物の顎のように口を開けた。
そこから漏れ出てくるのは、黴と湿り気、そして吐き気を催すような「血と薔薇」の混じり合った異様な死の臭気だ。
「先に行く。足元に気をつけろ」
「ええ、あなたこそ、背後には気をつけて」
エドワードがランプを掲げ、一段ずつ、冷たい石段を闇の底へと降りていく。メアリーもまた、その影を踏むようにして続いた。
地下の空間は、想像を絶する広さと禍々しさを湛えていた。
最初の部屋を覗くと、そこには農具とは到底呼べない、黒ずんだ染みのついた巨大なノコギリや斧が並んでいる。二番目の部屋には、何か重い肉塊を引きずったような生々しい跡が、石床にこびりついていた。
そして、三番目の部屋の前で足が止まる。
扉の向こうから、かすかな、だが確かな「人間の呼吸」が漏れ聞こえていた。
「誰か……そこにいるの?」
メアリーが扉を叩くと、長い沈黙ののち、消え入りそうな女の声が返ってきた。
「……助けて……ここから出して……」
エドワードが手早く解錠し、扉を押し開ける。そこには、数日前から行方不明になっていた旅人の女性、ジュリア・ハーパーがうずくまっていた。彼女は伯爵に「道を教える」と騙されてこの館へ連れ込まれ、薬で意識を奪われていたのだ。
部屋の隅にある無機質なテーブルの上には、一冊の黒い革手帳が置かれていた。メアリーがそれを手に取り、頁をめくる。そこには、伯爵の端正な筆致で、身の毛もよだつような記録が綴られていた。
『美しいものは、永遠でなければならない。腐敗は愛への反逆である』
その歪んだ理想に続くのは、過去に犠牲となった十名以上の女性たちのリスト。そして最後の頁には、今日の日付と共に、震えるような文字で「コリン」の名が書き加えられていた。
「これが証拠よ。これさえあれば、あの男を監獄へ送れる」
メアリーは日記を懐に深くしまい込み、さらに奥へと進む。そこには、オレンジ色の怪しい光を放つ、巨大な鉄の扉がそびえ立っていた。
扉を開いた先は、地下とは思えないほど天井の高い、広大な円形の広間であった。
壁に沿って並ぶ無数の燭台にはすでに火が灯り、中央の石テーブルには、赤黒く濡れた土に覆われた薔薇の苗木が、まるで心臓のように脈打っている。そして、四方の壁には狂気的な呪文がびっしりと書き殴られていた。
『魂は花に宿り、美は永遠に咲き誇る。肉体を捨て、色に溶け込め』
床には炭と血で巨大な魔法陣が描かれ、その中心に置かれた薔薇が、今夜の惨劇を待ちわびるように妖しく揺れている。
「これこそが儀式の祭壇。伯父はここで、コリンの魂を薔薇へと移し替えるつもりなのよ」
「ならば、その理を壊すまでだ。この図形が完成せねば、儀式は成立せん」
メアリーは近くに落ちていた古布を掴み、中心にある最も重要な円を全力で擦り消した。
その瞬間、地下室の空気が一変し、燭台の炎が一斉に暴れ出す。闇の隅々から、図形を守ろうとする影たちが霧のように滲み出してきたが、中心を失った魔法陣はもはやその力を維持できない。
床から響く音のない振動と共に、影たちは悲鳴のような風を巻き起こし、天井の隙間へと霧散していった。
「止まった……。ひとまず、今夜の惨劇は防げたはずよ」
地上へと戻ると、村から全速力で駆け戻ったデイコンが、肩で息をしながら待っていた。
「連絡はつきました! 警察は明日の朝、必ずここへ応援を派遣すると約束してくれました!」
「明日の朝か……。それまで、あの狂った伯父の手から、コリンを守り抜かねばならんのだな」
エドワードの言葉通り、今夜が本当の、そして最後の正念場となるのだ。
夕刻、全員が居間に集まり、暖炉の火を最大に強めた。
夜が深まるにつれ、廊下から「あの音」が近づいてくる。
コツ、コツ、コツ、ズッ――。
右足を引きずるような、伯爵特有の不吉な足音が、居間の前でぴたりと止まった。
生唾を飲み込む音さえ聞こえそうな沈黙の中、扉が三回、静かに、執拗に叩かれる。
「コリン、そこにいるのだろう? 隠れても無駄だよ。お前の『居場所』は、もう決まっているのだから」
その穏やかな、慈愛さえ感じさせる声が、かえって毛骨を沈ませる。扉の取っ手がガタガタと激しく動いたが、堅牢に施錠された扉は開かない。やがて、諦めたような溜息と共に、足音は闇の奥へと遠ざかっていった。
夜明け前。
微睡みの中にいたメアリーは、テーブルに置いたエレナ夫人の日記が、淡い光を放った気がして目を開けた。
最後の頁、余白のあった場所に、新しい文字が浮かび上がっている。
『ありがとう。あとは、あなたたちを信じているわ』
その筆致は、これまでになく安定しており、まるで一人の女性としての尊厳を取り戻したかのようだった。
「エドワード、見て……伯母様が」
日記を差し出されたエドワードは、長い間、姉の最期の言葉を指先でなぞっていた。その強靭な瞳から、一筋の涙が静かに頬を伝い落るのを、メアリーは黙って見守った。
「朝が来るぞ。すべてを終わらせる朝だ」
エドワードが窓の厚いカーテンを一気に開け放つ。
差し込む黄金色の光に、コリンが眩しそうに目を細め、細い手を伸ばした。
「外の光……。冷たい霧の向こうには、こんなに温かな太陽があったんだね」
庭の薔薇は、昨夜の狂乱をあざ笑うかのように赤々と咲き誇っているが、遠くからこちらへ向かう馬蹄の音が、確かに響き始めていた。
屋敷を包んでいた長く暗い夜が、今、真実の光によって明けようとしていた。
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