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11話「鏡」

 

  エドワードの自室の扉を、親の敵を討つような勢いで三度叩いた。即座に開かれた扉から現れた彼は、すでに外套を羽織り、片手に鈍く光る真鍮のランプを提げている。


 その硬質な瞳は、一睡もしていないことを物語っていた。


「影が出たわ。庭に十以上、廊下にも三つ」



 私の短い報告に対し、エドワードの眼光が鋭く研ぎ澄まされる。


「コリンのところへ行くぞ」

「マーサは私の部屋に。夢遊状態で彷徨っていたけれど、今は落ち着いているわ」

「デイコンは」

「まだよ。先にコリンを」

「……行くぞ」


  エドワードが先頭に立ち、私はその背を追うように三階へと急いだ。あんなに騒がしかった影の気配は、霧が晴れるように消え失せている。だが、その不自然な静寂こそが、心臓の鼓動を不気味に増幅させた。


 石造りの廊下には、私たちの軍靴と編み上げ靴の音だけが乾いたリズムを刻んでいる。


  三階の突き当たり、コリンの部屋の前に辿り着いたとき、エドワードの足がぴたりと止まった。


 扉が、わずかに開いている。

 内側から押し開けられたようなその隙間に、エドワードが私を促すような視線を向けた。私は小さく首を振る。私が開けたのではない。


 彼は慎重に、重い木製の扉を押し込んだ。不吉な軋み音が静寂を切り裂き、ランプの光が闇を押し広げていく。


 照らし出されたベッドは無惨なほどに、もぬけの殻だった。


  駆け寄り、リネンに触れる。掌にはまだ、少年の細い体温が残っていた。つい数分前まで、彼はここにいたのだ。


「コリン……?」


 喉の奥で押し殺した声に、返る言葉はない。クローゼットの中も、カーテンの裏も、冷ややかな空気が溜まっているだけだ。


「どこへ消えた」


 エドワードの低い呟きに応えるように、私は床の埃を見つめた。薄く積もった灰色の層に、小さな、頼りない裸足の跡が刻まれている。それは部屋を出て、廊下の奥へとふらふらと続いていた。


 「追うわよ」


 足跡を辿り、廊下の行き止まりまで来たとき、私たちは再び足を止めた。


 足跡は、窓も扉もない「壁」の前で唐突に途絶えているのだ。エドワードが壁の石目を執拗に叩き、私もまた隠し扉の隙間を探したが、そこにあるのは冷徹な石の拒絶だけだった。


  行き止まりの違和感に、私はふと顔を上げた。

 廊下の片隅に、時代から取り残されたような長大な姿見が置かれている。昼間は単なる古い家具だと思っていたそれが、今はひどく異質な存在感を放っていた。


 吸い寄せられるように、私は鏡の前へと歩み寄る。

 鏡面には、ランプを手にした私と、背後に立つエドワードが映し出されていた。


 しかし、何かがおかしい。鏡の奥の暗闇が、現実のそれよりも遥かに深く、底知れないのだ。まるで鏡の向こう側に、もう一つの「屋敷」が広がっているような錯覚。


 「エドワード、この鏡を見て」

「……ああ、注視している」


 二人の姿が並んで映る。右手にランプ、左手は下ろしたまま。鏡の中の私も同じ構図だ。


 エドワードが木枠の継ぎ目に指を這わせる間、私は鏡の中の自分と視線を合わせた。何も変わらない。顔も、髪も、背後の風景も。


 確認のため、私は右手のランプを左手に持ち替えた。


 その瞬間、背筋に氷を流し込まれた。

 鏡の中の私は、一秒の間を置いて、遅れてランプを動かしたのだ。


  左右が逆になるという鏡の法則ではない。時間そのものが、鏡の向こう側で歪んでいる。


 身動きの取れない私を嘲笑うように、鏡の中の「私」がゆっくりと口角を吊り上げた。


 私は、笑ってなどいないのに。


 鏡の中のメアリーは目を細め、慈しむような、それでいて残酷な笑みを浮かべ、音もなく指を差した。


 私たちの背後を。

  弾かれたように振り返る。

 そこには、いつの間にかコリンが立っていた。


 パジャマ姿で立ち尽くす彼の瞳には、焦点というものがない。マーサと同じ、魂をどこか別の場所に置いてきたような夢遊の瞳。


「コリン!」


 エドワードが駆け寄るより早く、コリンは機械的な動作で踵を返し、廊下を歩き始めた。その足取りには迷いがない。一階へ、さらにその下へと向かう彼を見て、私は直感した。


 地下への重い扉「薔薇の実験場」へと彼は導かれている。


 「止めなければ。このままでは伯爵の思う壺よ」


 エドワードがコリンの前に回り込み、その細い肩を力強く掴んだ。


「コリン、目を覚ませ!」


 ピタリと足が止まる。少年の首がゆっくりと持ち上がり、エドワードの顔を捉えた。一度、二度と瞬きを繰り返すごとに、濁っていた瞳に知性の光が戻っていく。


「……叔父さん……?」


 掠れた声が零れ落ちた。


「俺だ。約束通り、来たぞ」


 エドワードの声から、刺すような鋭さが消えた。それは、この屋敷に来てから私が初めて聞く、血の通った柔らかな響きだった。


「母さんから、夢の中で聞いていたんだ。叔父さんが助けに来てくれるって」

「ああ、そうだ。もう大丈夫だ」


 エドワードはコリンの頭にそっと手を置いた。その瞬間、コリンの目から堰を切ったように涙が溢れ出す。声を上げる力さえないほどに、彼は衰弱し、そして孤独だったのだ。


  私たちは一階の暗い廊下で、しばし立ち尽くした。壁に寄りかかり、荒い息をつくコリンを見て、エドワードが決然と計画を告げる。


「今夜、ここを発つ。デイコンに馬を回させ、証拠の日記と共に警察へ向かう。今夜こそ、この地獄を終わらせるんだ」

「僕も……僕も行く。ここで薔薇になるのは嫌だ」


 震える声で訴えるコリンを、エドワードは頷いて支えた。

  だが、脱出への希望を抱いた刹那、廊下の端から「闇」が奔流となって押し寄せた。


 一つや二つではない。

 壁から、天井から、隙間という隙間から、無数の黒い影が滲み出してきたのだ。それは粘り気のある沈黙を伴い、廊下を埋め尽くしていく。


 影の中に灯る、不規則で無数な瞳が、冷ややかに私たちを見据えている。


「……動くな。刺激するんじゃない」


 エドワードの声には、かつてない焦燥が滲んでいた。影たちは襲ってくるわけではなく、ただ物理的な壁となって玄関への道を、そして全ての逃げ道を完全に封鎖していた。


 「囲まれているわ。どこにも行かせないつもりなのよ」

「今夜は……出られない。屋敷が、僕たちを離さないんだ」


 コリンの絶望的な予言が、冷え切った空気に重く沈み込む。


 私たちは敗北感を抱えたまま、エドワードの部屋へと引き返すしかなかった。影は追ってこない。ただ、私たちが外へ一歩も出られないことを確認するように、廊下の奥で蠢いている。


  部屋に集まった面々は、誰もが幽霊のような顔をしていた。


「影がここまで組織的に動くのは初めてだわ。なぜ、今夜なの?」


 私の問いに、エドワードが日記の頁を指し示す。


「明晩、儀式が始まる。伯爵にとって、コリンという『器』を今夜失うわけにはいかないんだろう。屋敷そのものが、伯爵の狂気に同調している」

「僕は……お母さんの代わりにされるために、閉じ込められているんだね」


 膝を抱えて呟くコリンの言葉に、誰も返事ができなかった。今はただ、朝を待つしかない。影が日光を嫌い、その力が弱まる昼間まで。


  沈黙の中、一時間が過ぎた。

 外はあまりにも静かだ。風の音さえ聞こえないことが、かえって恐怖を煽る。


「叔父さん」


 コリンが、縋るようにエドワードを見上げた。


「僕は、母さんに似ているかな」

「……ああ、その瞳は、私の姉の面影がある」

「母さんが夢に出るんだ。顔のない姿で、薔薇園の中に立って僕を呼んでいる。あれは母さんの幽霊なのかな」

「幽霊ではない。彼女の魂の欠片が、あそこに繋ぎ止められているんだ。だからこそ、助け出さなければならない」


  その時、窓の外を確認していたデイコンが、短い悲鳴を上げた。


「メアリーさん窓を、見てください」


 全員の視線が、結露した窓ガラスに注がれる。

 ガラスの外側。そこには、誰かが指先でなぞったような跡が、くっきりと残されていた。


 描かれていたのは、一輪の薔薇。


 そしてその下には、震えるような筆致で、たった一言だけ文字が記されていた。


 『待て』

 「エレナ夫人……?」


 私は窓に駆け寄った。外からのメッセージ。彼女は、今夜の脱出が罠であることを、あるいは今動くことが破滅を招くことを知らせようとしているのか。


「姉さんが……待てと言っているのか」


 エドワードが文字を見つめる。その言葉は、冷たい警告であると同時に、微かな慈悲のようにも感じられた。


「わかったわ。今夜はここで耐えましょう。彼女を信じるのよ」


  それから夜明けまで、私たちは一睡もせずに寄り添い続けた。


 交代で監視に立ち、廊下から影が侵入してこないか、あるいは誰かが再び夢遊を始めないかを見守る。影たちは部屋の中までは入ってこなかった。ただ扉の向こう側で、衣擦れのような不気味な音を立て続けていた。


  やがて、東の空が白み始めると、窓ガラスの「薔薇」と「待て」の文字は、朝露に溶けるように消え去った。


 廊下の影も、夜明けの光に焼かれるように密度を減らしていく。


「夜が明けたわ、エドワード」

「ああ。影が引いていく。……勝負は、今日だ」


 扉を細く開けると、そこには昨夜の地獄が嘘のような、静かな廊下が続いていた。


 コリンが窓の外を見つめる。朝光を浴びて輝く庭の薔薇は、恐ろしいほどに赤く、美しい。その足元に、どれほどの悲劇が埋まっているかを知りながらも、彼はその美しさから目を逸らせなかった。


 「昨夜は逃げられなかった。でも」


 コリンが小さく、だが確かな意志を込めて言った。


「僕たちには、今日があるんだね」


 メアリーはその横顔を見つめ、静かに頷いた。一人では立ち向かえない闇も、この部屋に集まった者たちが手を取り合えば、光を掴めるかもしれない。


 屋敷の朝が、また始まる。


 それは決戦へのカウントダウンでもあった。




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