10話「消えた使用人」
花びらを追った。
一枚、また一枚。廊下の石畳に点々と落ちた赤い花びらが、地下への扉へと続いていた。
メアリーは走らなかった。走りたい気持ちを抑えて、静かに、でも速く歩いた。伯爵に気づかれてはならない。足音を殺して花びらの道を辿ると、地下への扉の前に着いた。
白い影は消えていた。でも扉の前の床に、何かがあった。メアリーは膝をついてランプを近づけた。床の石に、文字が刻まれていた。ナイフか何か鋭いもので石を削って書いたような文字で、削りかすがまだ残っている。新しい。
『扉の左の壁。石が浮いている』
メアリーは立ち上がり、扉の左の壁を触った。石造りの壁、冷たい。一つ一つの石を押していくと、三つ目の石がわずかに動いた。浮いている。引っ張ると石が外れ、奥に小さな空間があった。
鍵が二本、置かれていた。
地下への二重鍵だ。メアリーは鍵を手に取った。重かった。古い鉄の鍵で、表面が錆びている。これは誰が隠したのか。エレナ夫人が、生前に隠した。そうとしか思えなかった。逃げる準備をしていた。でも間に合わなかった。
メアリーは鍵を握りしめた。今夜は使わない。エドワードと計画を立ててからだ。立ち去ろうと踵を返した瞬間、廊下の反対側から足音が来た。
コツ、コツ、コツ、ズッ。
伯爵だ。メアリーは鍵を服の内側に押し込んで、廊下の脇の小さな物置の扉を引いた。開いた。中に入り、扉を閉めた。暗い。狭い。モップと箒が体に当たっている。
息を止めた。
伯爵の足音が近づいてきて、ランタンの光が扉の隙間から見えた。伯爵が廊下を歩いてくる。足音が、扉の前で止まった。
メアリーは心臓が止まる気がした。気づかれた。そう思った。でも伯爵は花瓶を見ていた。廊下の壁龕に挿してあった薔薇が、一枚、花びらを落としていた。
伯爵がそれを拾い上げ、指の腹でそっと触れた。壊れ物を扱うように。それから花びらを握りしめると、潰れた花びらが指の間から赤く滲んだ。
伯爵は何も言わずに歩き去った。足音が遠くなり、消えた。
メアリーは物置を出た。床を見ると、伯爵が歩き去った先の床に、赤い染みが点々と続いていた。潰れた薔薇の赤い滴が、まるで血のように廊下に続いていて、メアリーは目を逸らした。
服の内側の鍵を確認した。あった。深呼吸して、急いでエドワードの部屋へ向かった。
エドワードの部屋のドアを叩いた。三回、素早く。すぐに開いて、エドワードが立っていた。服を着たままで、眠っていなかったらしい。
「伯爵が起きていた。地下の鍵に気づいたわ」
「鍵はどこだ」
メアリーは服の内側から鍵を出した。エドワードが受け取り、じっと見た。
「二本とも揃っている」
「壁の隠し場所にあった。エレナ夫人が隠したんだと思うの」
エドワードが鍵を手の中で転がした。その顔が、少し動いた。
「姉が」
「今夜、紙が来たわ」
メアリーはポケットから紙を出した。エドワードが読んだ。コリンを連れて逃げて、明日の夜儀式の準備が始まる、という言葉を、ゆっくりと読んだ。エドワードの目が細くなった。
「明日の夜」
「今夜中に動かないといけない」
「伯爵が起きている。今夜は無理だ」
「でも明日では遅いわ」
エドワードがメアリーを見た。考えている目だった。しばらく黙って、言った。
「夜明け前に動く。伯爵が眠った頃を狙う。コリンを部屋から出して、屋敷の外に出す。それから証拠を持って警察へ」
「伯爵の日記と、エレナ夫人の日記。それから」
「ルーシーのことも調べなければ」
ルーシー。先月いなくなった使用人だ。
「ただの失踪ではないはずだ」
エドワードが立ち上がり、窓の外を見た。
「明日の夜まで、普通に過ごせますか」
「できる」
「伯爵に鍵のことを気づかれました。動きが変わるかもしれません」
「わかってる。気をつける」
エドワードがメアリーを見た。
「今夜、足首を掴まれたか」
メアリーは目を丸くした。
「どうして知ってるの」
「昨夜も同じことが起きた。俺の部屋で。眠っていたら、布団の下から何かが足首を」
エドワードが少し止まった。
「冷たかった」
「私も同じよ。白い手だった」
「姉だと思う」
「私もそう思った。でも何を伝えたかったのかが」
「地下だろう」
エドワードが短く言った。
「地下に行けと言いたかったのか、行くなと言いたかったのか。どちらかはわからない」
「花びらが地下の扉に続いていました。壁に文字が刻んであって、鍵の隠し場所を教えてくれ。白い影が頷きました」
「つまり、行けということだ」
「そう解釈しました」
エドワードが少し黙った。
「夜明け前に、地下にも入る。コリンを逃がした後で」
「一緒に行く」
「危ない」
「わかっています」
エドワードがメアリーを見た。また、少し間があった。今度はエドワードが先に目を逸らした。
「わかった」
短く言った。
「デイコンを起こしてくる」
「俺が行く。お前は部屋に戻れ。伯爵が見回りをするかもしれない」
メアリーは頷いた。扉に向かった。エドワードが言った。
「メアリー」
名前を呼ばれたのは初めてだった。振り返った。
「今夜は部屋の扉に椅子を当てておけ。鍵だけでは足りない」
それだけだった。でもその言葉に、何かが込もっていた。心配している声だった。
「わかりました」
メアリーは言い、部屋に戻った。
部屋に戻り、椅子を扉の下に当てた。ベッドに腰を下ろした。足首の赤い跡がまだ残っていた。昨夜より少し薄くなっていたが、消えていなかった。
メアリーは天井を見た。明日の夜、コリンを連れて逃げる。証拠を持って警察へ行く。簡単ではない。伯爵が黙って見ているとは思えない。でも方法はある。三人で、いや四人で動けば。
目を閉じた。眠れないかと思ったが、疲れていた。少しずつ、意識が沈んでいった。その境目で、耳元で声がした。女の声で、かすれた、でも穏やかな声。
「ありがとう」
それだけだった。メアリーは目を開けなかった。開けたら、消えそうな気がして。そのまま、朝まで眠った。
朝が来た。メアリーは目を覚まし、窓を開けた。霧の朝だった。庭が白く霞んでいて、薔薇だけが霧の中でも赤かった。今日が最後だ、とメアリーは思った。今夜、終わらせる。
着替えて廊下に出ると、踊り場を通った。肖像画の前で足が止まった。エレナ夫人の肖像画が、今朝は目が動かなかった。涙も流れなかった。ただ、微笑んでいた。いつもの微笑みだったが、今朝は穏やかに見えた。安らいでいるように見えた。
まだ終わっていないとメアリーは心の中で言った。終わらせるから、必ず。肖像画の薔薇が、一瞬だけ揺れた気がした。風もないのに揺れて、また止まった。
食堂に入ると、マーサが青い顔をしていた。
「どうしたの」
マーサが振り返った。
「ベッティという使用人がいなくなりました。今朝、部屋が空で」
ベッティ。メアリーは知らない名前だった。まだ会ったことのない使用人だ。
「いつから?」
「昨夜から。夕食の後に部屋に戻ったきり、誰も見ていなくて」
デイコンが厨房の扉から顔を出した。メアリーと目が合った。デイコンの目が、床を指した。メアリーは食堂の床を見た。テーブルの脚の近く、小さな染みがあった。茶色い、乾いた染みで、血の色だった。
メアリーは目を逸らした。表情を動かさなかった。マーサに言った。
「そうなの。心配ね」
「クレイブン卿には報告したんですが、きっとどこかに出かけたのだろうと」
そう言うだろう。いつもそう言う。メアリーは紅茶を受け取った。カップを持つ手を、震わせないようにした。
ベッティ。また一人。伯爵の日記のリストに、また一つ名前が加わる。メアリーはカップを置いた。今夜だ。今夜、終わらせなければ。次の朝が来る前に。
午後、デイコンと庭に出て、人目を避けながら薔薇の株の陰で話した。
「昨夜、エドワードさんと話し合ったんですか」
「夜明け前に動く。コリンを連れて屋敷を出る」
デイコンが頷いた。
「マーサはどうしますか」
メアリーは少し考えた。
「連れていく。あなたの姉だもの。一緒に逃げて」
「でもマーサは夢遊状態で地下に行く。伯爵に何かされているかもしれない」
「だから連れていく。ここに残したら危ない」
デイコンが頷いた。
「わかりました」
「ベッティのことは知ってた?」
「少しだけ。おとなしい人で、料理が得意で。先週まで普通にいたのに」
デイコンの声が沈んだ。
「間に合わなかった」
「……うん」
「でも次は間に合わせる」
デイコンが顔を上げて、メアリーを見た。
「メアリーさんは、怖くないんですか」
メアリーは少し考えた。
「怖い」
「でも動ける」
「怖くても動けるのと、怖くないのは違う。ただ、動かないともっと怖いことになるから」
デイコンが少し笑った。疲れた笑い方だったが、笑った。
「……そうですね」
二人は薔薇の陰から空を見た。霧が薄くなり、弱い秋の日差しが出ていた。薔薇がその光を受けて赤く光り、きれいだとメアリーは思った。
そしてすぐに、その美しさの下に何があるかを思い出した。きれいなものの下に、醜いものがある。そういうことが、世の中にはある。でも今夜、その醜いものを、表に出す。
夕方、コリンの部屋に寄った。
「今夜遅く、部屋を出る。用意しておいて」
コリンが目を大きくした。
「逃げるのか」
「そう。一緒に来て」
「歩けるか、自分で確認してみる」
コリンがベッドの端に腰を移して、ゆっくりと足を床につけた。立ち上がると、ふらついて壁に手をついたが、それでも立った。
「……立てる」
「歩ける?」
コリンが一歩踏み出した。足が震えていたが、動いた。二歩、三歩。壁を伝いながらも、確かに歩いていた。
「歩ける」
その声が、かすかに震えていた。感情からではなく、体力からだ。でも目が違った。生きようとしている目だ。
「エドワード叔父さんも来るのか」
「来ます」
コリンが頷いた。それから窓のカーテンを、自分で少し開けた。外の光が細く差し込んで、コリンがその光の中に立った。青白い顔に、弱い秋の光が当たった。目を細めて、まぶしそうにした。初めて外の光を浴びるように。
メアリーは何も言わなかった。ただ、見ていた。
夜になって屋敷が静まり返り、メアリーは部屋で待った。椅子を扉に当て、窓の外を見た。庭は暗く、薔薇が闇に沈んでいた。その庭の奥に明かりが見えた。
伯爵のランタンだ。夜の薔薇園に伯爵が出ていて、閉鎖された庭園の扉を開けて中に入っていった。
その光が消えるのを待った。何分経っただろう。光が出てきた。伯爵が庭園から出て、扉を閉めて屋敷に戻っていく。
時計を見た。夜中の十二時を回っていた。あと二時間。夜明けの二時に動く。
メアリーは椅子に座って待った。目を閉じないようにした。眠ってはいけない。でも静寂の中で、廊下から音がした。足音だが、伯爵の足音ではない。リズムがない。ゆっくりとした、規則のない足音。マーサだ。デイコンが言っていた夢遊状態の歩き方だ。
メアリーは椅子を扉から外して廊下に出た。マーサが廊下を歩いていた。目が開いていたが、焦点がない。眠ったまま歩いている目だ。メアリーはマーサの前に立った。
「マーサ」
返事がなかった。
「マーサ、止まって」
マーサは止まらなかった。まっすぐ歩き続けようとしたので、メアリーはマーサの肩を掴んだ。マーサが止まった。目が動いた。焦点が戻った。マーサがメアリーを見て、混乱した目で言った。
「お嬢様……? 私、どうして」
「廊下を歩いてた。眠ったまま」
マーサが周囲を見渡した。
「覚えていません。部屋で寝ていたはずで」
「大丈夫。部屋に戻って」
マーサが首を横に振った。
「また来るかもしれない。自分で止められない。どこへ向かっているのかも」
地下だ、とメアリーは思った。でも今は言えない。
「今夜は私の部屋で休んで。一人にしたくない」
マーサが頷いた。混乱した顔のまま、でも素直に頷いた。二人で部屋に戻り、マーサをベッドに座らせて毛布を渡した。マーサがメアリーを見た。
「お嬢様、この屋敷は」
「知ってる」
「ご存知だったんですか」
「少しずつ、わかってきた」
マーサが唇を噛んだ。
「私、怖くて。ずっと怖くて。でも誰にも言えなくて。デイコンに心配かけたくなくて」
「今夜、全部終わらせる。一緒に逃げよう」
マーサの目に、涙が浮かんだ。
「本当に、逃げられますか」
「逃げられる」
断言した。根拠はなかったが、断言した。マーサが頷き、やがて眠った。疲れていたのだろう。すぐに深い眠りに落ちた。
メアリーは窓の外を見た。時計を見た。一時を回っていた。あと一時間。
その時だった。窓の外に、影が見えた。黒い影が、一つ。二つ。庭に、黒い影が増えていた。薔薇の間から影が這い出してくるのが見えた。一つがまた一つになり、気づけば庭に十を超える黒い影があった。全部が屋敷を見ていて、全部の目がメアリーの部屋の窓を見ていた。
そして影が、動いた。一斉に、屋敷に向かって動き始めた。音もなく、滑るように。
メアリーは窓から離れた。エドワードを起こさなければ。今すぐ。今夜中に動かなければ。扉を開けて廊下に飛び出した。
そして廊下で足が止まった。
廊下の床に、影があった。自分の影だけではなかった。ランプの光の中に、影が数えると一つ、二つ、三つ、四つ。自分の影以外に、三つ。三つの影が、別々の動きをしていた。不規則に、ゆっくりと、床を這うように動いていて、そして影が立ち上がった。
床から人の形に盛り上がり、輪郭が生まれ、目が開いた。三対の目が、暗い廊下に浮かんだ。全部がメアリーを見ていた。
メアリーはランプを握りしめた。逃げなかった。一歩、前に出た。影が揺れた。驚いたように揺れた。
「どきなさい」
声が震えなかった。自分でも驚くほど、声が平らだった。影が揺れて、ゆっくりと左右に割れた。廊下の両側の壁に張りついた。道ができた。
メアリーは歩いた。影の間を、真っ直ぐに。背後で影が動く気配がしたが、振り返らなかった。
エドワードの部屋まで、一度も立ち止まらなかった。
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