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9話「薬」

 

 強く、一瞬で体が床に引き寄せられる感覚があった。メアリーは反射的に声を上げそうになり、喉の奥で止めた。代わりに、ランプを下に向けた。


 ベッドの下に光を差し込むと、手が見えた。白い手、細い指。でも次の瞬間、手は離れた。するりと、引き抜かれるように。暗がりに消えた。


 メアリーは後退って壁に背をつけた。心臓が激しく打っている。足首が冷たかった。掴まれた場所が、氷を当てたように冷えていた。


 息を整えた。一回。二回。三回。


 ランプをもう一度ベッドの下に向けた。何もない。埃と床板だけだ。手は消えていた。


 立ち上がり、壁に背をつけたまましばらく動かなかった。足首の冷たさが、なかなか消えない。白い手だった。黒い影の手ではない。白い、細い、女の手のように見えた。


 翌朝、足首を見ると、うっすらと赤い跡が残っていた。五本の指の形に、皮膚が赤くなっていた。気のせいではなかった。あれは確かに、何かがいた。


 メアリーは長袖を着て、跡を隠してから食堂に向かった。デイコンに会ったら話す。今は伯爵に気づかれないように、普通にしていなければ。

 朝食の席で、マーサが薬の瓶を持ってきた。


「コリン坊ちゃまのお薬でございます。毎朝お部屋にお届けするんですが、今日はジャッドが体調を崩しまして。お嬢様、お届けいただけますか」


 渡りに船だ。


「もちろん」


 メアリーは薬の瓶を受け取って、マーサが行ってから光に透かして見た。暗い赤茶色の液体が入っていた。匂いを嗅ぐと、苦い薬草の匂いの奥に、何か別のものが混じっている。

 デイコンが厨房から出てきた。メアリーは瓶を見せた。


「コリンの薬。成分、わかる?」


 デイコンが瓶を受け取って匂いを嗅ぎ、眉をひそめた。


「……草の匂いがする。でも普通の薬草じゃない気がします」

「どういう薬草?」

「ちょっと待ってください」


 デイコンが厨房に戻り、すぐ戻ってきた。手にぼろぼろになった薬草の本を持っている。母が持たせてくれたヨークシャーの野草と薬草が載っている本だと言いながら、もう一度瓶の匂いを嗅いでからページをめくった。


「これかもしれない」


 メアリーが覗き込むと、植物の絵が描かれたページがあった。細い茎に白い花、複雑に絡んだ根。デイコンが読み上げた。


「ホワイト・ドロウジー。ヨークシャー北部に自生する野草。根を煎じると強い鎮静効果がある。少量では眠気と倦怠感を引き起こし、長期摂取では筋力の低下、免疫の衰弱、慢性的な体力消耗を引き起こす」


 二人は顔を見合わせた。


「毒じゃないけど、飲み続けたら弱っていく」

「長期摂取で免疫の衰弱……コリンはずっとこれを飲まされてたのか」


 デイコンが声を落とした。


「わざと弱らせているのね」

「処方じゃない。伯爵が意図的に」


 メアリーは瓶を握りしめた。静かな、冷たい怒りが来ていた。


「この薬、中身を入れ替えましょう。色が似た別のものを入れて、コリンに渡す。ジャッドが確認しに来ても気づかれないように」

「何を入れますか」

「薄めた紅茶で色が近いわ」


 デイコンが頷いて、二人で厨房に入った。瓶の中身を薄い紅茶に替えると、色がほぼ同じになった。匂いが少し違うが、遠目では気づかれない。

 コリンの部屋に行くと、昨日より少し早く返事が来た。


「入れ」


 昨日より声に張りがある。扉を開けると、コリンが上体を起こしてベッドに座っていた。


「また来た」

「薬を持ってきたわ。ジャッドが体調を崩したから」

「そうか」


 コリンが手を出した。メアリーは瓶を渡した。コリンが瓶を見た。


「中身が違う」


 鋭い。


「わかった?」

「匂いが違う。毎日飲まされてたから、匂いくらい覚えている」

「飲まなくていいから。色を似せた別のものに替えた」


 コリンが瓶を見た。少し間があった。


「……ありがとう」


 短い言葉だったが、昨日より素直な声だった。


「ジャッドが確認に来たら、飲んだふりをして」

「言われなくてもわかる」

「コリンは賢いから」

「お世辞は要らない」

「お世辞じゃない」


 コリンが少し口元を動かした。笑いとも言えない、わずかな動きだったが。


「エドワード叔父さんに会えるのはいつだ」

「今夜、状況によって。昨日からここにいる人だから、あなたのことを伝えたら会いたいと言っていたよ」


 コリンが窓の方を向いた。閉じたカーテンを見た。


「叔父さんに似てるか、俺は。母に似てるか」

「会ったことがないから比べられない。でも目が、お母さまに似てるかもしれない」

「見たことがあるのか、母を」

「肖像画で」


 コリンが頷いた。それから少し黙って、言った。


「母の夢を見る。毎晩」


 メアリーは黙って聞いていた。


「薔薇園にいる夢だ。母が薔薇の中に立っていて、こちらを見ている。でも顔がない。輪郭だけで、顔がない」


 白い影だ、とメアリーは思った。コリンには白い影が夢として現れる。


「呼んでいる気がするんだ。声は聞こえないのに、呼ばれている気がする」

「お母さまが?」

「そう思う。でも怖い。怖くて、近づけない夢だ」


 メアリーは足首の赤い跡を思い出した。昨夜のベッドの下の手を。白い、冷たい手を。あれも、エレナ夫人だろうか。


 でも夢の中の輪郭と、足首を掴む手では、意味が違う。夢の方は、呼んでいる。足首を掴む手は、何をしようとしていたのか。引き込もうとしていたのか、あるいは何かを伝えようとしていたのか。


「コリン」

「何」

「昨夜、変な音はしなかった?」


 コリンが少し考えた。


「地下から音がした。最近、たまにする。引きずるような、重い音」

「何時ごろ」

「夜中の一時か二時。いつもその時間帯だ」


 メアリーは頭の中で整理した。夜中の薔薇園。夜中の地下の音。マーサの夢遊。伯爵は夜に動く。


「コリン、一つお願いがあるの」

「何だ」

「地下の音がしたら、教えてほしい。翌朝でいいから」


 コリンがメアリーを見た。


「何をするつもりだ」

「確かめたいことがあるの」

「地下は危ない」


 コリンが言った。断定した言い方だった。


「なぜ?」

「前に一度、地下の扉の前を通ったことがある。音がしていた。機械のような、ギコギコとした音と、それから人の声がした。泣いているような声。女の人の声だと思う。でも父に見つかって、引き返させられた。それから地下の扉には、二重の鍵がかかっている」


 人の声。泣いている声。メアリーの背筋が冷えた。


「その声は、まだ聞こえることがある?」

「ある。夜中に。壁越しに聞こえる。かすかだけど」


 二人の間に、重い沈黙が落ちた。地下に、まだ誰かいる可能性がある。生きているのか、死んでいるのか、わからない。でも確かめなければならない。


 昼間、廊下を歩いていた時、メアリーは物音に気づいた。地下への扉だ。一階の廊下の端、厚い扉がある。コリンが言っていた、二重鍵の扉だ。その扉の前で、伯爵が立っていた。鍵を使って、扉を開けるところだった。


 メアリーは廊下の角で止まって、覗いた。

 伯爵の背後に、誰かがいた。女性だ。見たことのない女性で、若い、二十代くらいだった。足元が覚束なく、壁に手をついている。服が乱れていた。旅の途中のような格好で、荷物を持っていた。旅人だ。


 でも目が、うつろだった。焦点が合っていない。まるで眠っているような、それでいて立っているような、そういう目だ。

 伯爵が扉を開けた。地下への扉を。


「こちらへ」


 伯爵が女性に言った。静かな、優しいとも言える声だった。でもその声の奥に、メアリーは何かを感じた。女性が扉の中に入り、伯爵が続いた。扉が閉まって、二重の鍵がかかる音がした。カチン、カチン、と。


 メアリーは廊下に立ち尽くした。女性が入っていった。でも地下から出てくるのは、伯爵だけだ。今まで、そうだった。ルーシーという使用人も、いなくなった。土が盛り上がった薔薇の根元、血の染みのある道具が地下にある可能性、全部が繋がっていく。


 メアリーは走った。デイコンを探して。

 デイコンに話すと、デイコンの顔が青くなった。


「今、地下に……」

「入っていった。伯爵と一緒に」

「助けに行かないと」

「二重鍵がかかっている。開けられる?」

「時間がかかる。あの型の鍵は難しい」


 メアリーは考えた。


「エドワードに伝える。彼の方が早いかもしれない」

「でもどこにいるか」

「わからない。でも見つけなければ」


 二人で屋敷内を探した。使われていない部屋を順番に確認して、三階の奥の部屋の前でデイコンが止まった。


「ここ、扉の下に明かりが見える」


 ノックしたが返事がなかった。デイコンが小声で言った。


「エドワードさん、いますか」


 沈黙。それからかすかな気配があって、扉が少し開き、エドワードが覗いた。目に警戒がある。


「何だ」

「今、地下に人が連れ込まれた。女の人が」


 エドワードの目が変わった。


「いつ」

「十分前」


 エドワードが扉を開けた。部屋の中は最低限の荷物だけがあった。毛布、小さなランプ、本が数冊。エドワードがコートを着ながら足早に歩いた。


「鍵は開けられますか?」

「やってみる」

「行こう」


 地下への扉の前に立った。エドワードが鍵穴を見た。二重鍵だ。上下に鍵穴が並んでいる。エドワードがポケットから道具を取り出した。細い金属の棒が数本ある。


 上の鍵穴に差し込んで、慎重に動かすと、三十秒でカチッと音がした。下の鍵穴に取りかかって、一分ほどで、またカチッと音がした。扉が動いた。


 エドワードが扉を引くと、暗い階段が続いていた。石の段が濡れていて、黴と鉄と薔薇が混ざった匂いが流れ出してきた。でも今日は別の匂いも混じっていた。焦げたような、煙のような匂いだ。

 エドワードが先頭に立った。


「俺が先に行く」

「一緒に行く」

「危険だ」

「あなただけだともっと危険でしょう」


 エドワードが少し間を置いて、頷いた。デイコンがランプを持った。三人で階段を降りた。


 地下は広かった。天井が低く、石の壁に囲まれていた。湿気が高く、壁が濡れていた。ランプの光が届く範囲に、部屋がいくつか並んでいた。


 最初の部屋に、農具のような道具が置かれていたが、農具ではなかった。壁にかけられていたのはノコギリで、刃が錆びた大きなノコギリだった。その隣に斧。どちらの刃にも、黒ずんだ染みがあった。


 デイコンの息が乱れた。メアリーは目を逸らさなかった。


 次の部屋は空だったが、床に引きずった跡があった。何かを引きずった跡が、石の床に残っていた。三番目の部屋に向かった。扉が閉まっていた。


 エドワードが耳を当てて首を横に振った。音がしない。でもメアリーには聞こえた。かすかに、息をしている音が。


「いますか」


 扉を叩いた。声はない。でも息の音が変わった。


「助けに来た。怖くないから、返事をして」


 沈黙。それから。


「……ここ」


 かすれた声がした。女の声だ。エドワードが扉を調べて、十五秒で開けた。


 暗い部屋の隅に、女性が座っていた。さっき廊下で見た、旅人の女性だ。目の焦点が戻っていて、怯えた目で三人を見ていた。


「大丈夫。伯爵じゃない」


 メアリーが言った。


「あの人、おかしい。道案内をすると言って、ここへ連れてきて、閉じ込めた。薬を飲まされた。眠たくて、頭がぼうっとして」

「立てる?」

「たぶん……」


 エドワードが手を差し出した。女性がそれを掴んで立ち上がった。メアリーは部屋の中を見渡した。部屋の中央にテーブルがあって、その上に日記帳があった。黒い革の、小さな手帳だ。エレナ夫人の日記とは別の手帳で、表紙に文字はない。


 メアリーは手に取って開いた。伯爵の筆跡だ。整った、細い筆跡。最初のページの一行目に、こう書かれていた。


 『美しいものは、永遠でなければならない』


 次のページ。名前が並んでいた。女性の名前が、十人以上。それぞれに日付がある。最後の名前の隣の日付は、三週間前だった。その下に、今日の日付と、名前が一つ書きかけてあった。


 メアリーは日記を閉じた。胸が冷えていた。名前のリスト、日付、薔薇の根元の盛り上がった土。全部が一本の線で繋がった。


「持って帰る」


 エドワードが頷いた。四人で階段を上がった。地上に出た。扉を閉め、鍵を元の状態に戻した。女性をマーサに預けた。マーサは何も聞かずに女性を温かい部屋に案内した。その顔が、わずかに青かった。


 その夜、メアリー、デイコン、エドワードの三人で伯爵の日記を読んだ。エドワードが淡々と読み上げた。内容は薔薇の研究だった。でもその方法が、通常の肥料ではなかった。ページが進むにつれて、文章が変わっていった。


 妻を埋めた。薔薇が三倍の速さで成長した。色が変わった。美しくなった。他でも試した。同じ結果が出た。


 美しいものは永遠でなければならない。薔薇に変えることで、人は永遠に美しく存在できる。これは愛だ、と書かれていた。


 最後のページ。


 『妻を完全に取り戻す方法がある。魂は薔薇の中にある。器に移すことができれば。器は血縁が望ましい。息子が最も適している』


 エドワードが読む声が止まった。コリン。器。三人は何も言えなかった。ランプの炎が、大きく揺れた。窓も扉も閉まっているのに揺れていた。


 メアリーは日記を閉じた。手が震えていたが、頭は冷えていた。冷たく、冴えていた。コリンを守らなければ。それだけが、頭の中にあった。


 その夜遅く、メアリーがベッドに入ろうとした時、扉の下に、また紙が滑り込んできた。


 拾い上げると、エドワードの筆跡ではなかった。震えた、細い筆跡で、エレナ夫人の筆跡と同じだった。


『コリンを連れて逃げて。明日の夜、儀式の準備が始まる』


 メアリーは立ち上がった。扉を開けて廊下を見たが、誰もいない。足音も聞こえない。エドワードを起こしに行かなければ。今夜中に、計画を立てなければ。


 廊下を走った。角を曲がった。そして止まった。

 廊下の床に、薔薇の花びらが一枚落ちていた。赤い花びら。その先にもう一枚。また一枚。花びらが廊下に点々と続いていた。エドワードの部屋がある方向とは、逆に。地下への扉の方向に。


 メアリーは花びらを見た。白い影が導くのか、それとも罠なのか。判断できなかった。でも廊下の奥、地下への扉の前に、白い光が見えた。白い影が立っていた。今夜は今まで一番はっきりと見えた。輪郭がくっきりしていて、長い金色の髪が見えた。


 白い影がこちらを見た。そして頷いた。人間が頷くように、確かに頷いた。


 メアリーは花びらを追った。




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