13話「追跡」
法による裁きがこの呪われた地に足を踏み入れたのは、朝の八時を回った頃であった。
霧の彼方から、石礫を弾く馬蹄の響きが断続的に聞こえてくる。居間のカーテンを指先で微かに押し広げ、外の様子を窺うと、鉄錆色の門をくぐり抜けてくる漆黒の馬車が視界に飛び込んできた。
「……来たわ」
デイコンが震える声で呟き、部屋に満ちていた窒息しそうな緊張が、一瞬だけ、深い溜息となって霧散した。
窓際に身を寄せたコリンは、これまで本の中にしか存在しなかった「外の世界の人間」を、剥製を見るような無機質な瞳で凝視している。
「あれが……警察というものなのかい」
「そうだ。インスペクター(警視)が、約束通りに動いてくれた」
エドワードの声には、安堵よりもむしろ、これから始まるであろう泥沼の戦いを見据えた冷徹な響きが宿っていた。
馬車からは、制服に身を包んだ四人の警官と、一人の長身の男が降り立った。男は厚手のコートの襟を立て、険しい表情で屋敷の正面を見上げている。
深い隈を刻んだ疲弊した顔立ちではあったが、その双眸だけは、獲物を逃さぬ猟犬のような鋭利な光を湛えていた。
「俺が出る。お前たちはここで待て」
エドワードが重い手つきで鍵を解錠し、廊下へと踏み出す。メアリーもその後を追い、影が薄れ始めた館の深部へと向かった。
昨夜、廊下を埋め尽くしていたあの粘りつくような黒いモヤは、朝日を浴びて形を失い、今はただの汚れのように隅にへばりついている。
正面玄関を押し開けると、冷たい秋の風がインスペクターの訪れと共に館内へと流れ込んできた。
「エドワード・ラッセル氏ですね」
「いかにも。遠路、ご苦労」
「デイコン・スーウォーカーから事情は聞き及んでいる。早急に現状の確認を。……あそこは、本当に存在しているのかね」
インスペクターの問いに、エドワードは感情を排して答えた。狂気に取り憑かれた伯爵の日記、地下に隠されたおぞましい実験施設、拉致されていたジュリア・ハーパーの惨状。
説明が進むにつれ、インスペクターの額に深い皺が刻まれ、地下施設の全貌を耳にした瞬間、彼の瞳には隠しきれない嫌悪と驚愕が走った。
「現在、伯爵はどこに」
「おそらく書斎だ。昨夜の狂乱ののち、閉じこもったきり気配がない」
「よし、確保しろ」
インスペクターが顎で指示を出すと、二人の警官が抜剣の準備を整え、伯爵の書斎へと走り去った。残された警官たちは石像のように玄関脇に立ち、屋敷の静寂を監視している。
廊下の彼方から、激しい怒号ではなく、不気味なほど穏やかな低い声が漏れ聞こえてきた。数分後、戻ってきたインスペクターの表情は、得体の知れないものを飲み込んだかのように歪んでいた。
「伯爵は書斎の椅子に座っていたよ。任意同行を求めたが、まるで予期していたかのような態度だった。施設を確認するための強制同行を告げると、彼は穏やかにこう言ったのだ」
「何と言ったの?」
メアリーが尋ねると、インスペクターは吐き捨てるように答えた。
「――『遅すぎた』と。そう笑ったそうだ」
一行は、地獄の入口である地下階段へと降り立った。
ランプの灯が石壁を舐めるように進む。インスペクターは最初の部屋に並ぶ、血肉の染み付いたノコギリや斧を眼にした途端、絶句した。
「……これは、狂気の産物だな」
「道具だけではない。奥を見れば、さらに正気を疑うことになるわ」
メアリーの言葉に導かれ、彼らはジュリアが囚われていた三番目の部屋を経て、最奥の『儀式の広間』へと辿り着いた。重い鉄の扉が軋みを上げ、その内部を曝け出す。
壁一面に書き殴られた呪詛のような文字列、床に広がる巨大な魔法陣、そしてテーブルの上に鎮座する赤黒い土の薔薇。
「中心が損なわれているな」
「昨日、私が消したの。魂を定着させるための核をね」
エドワードの説明を聞きながら、インスペクターは魔法陣の跡をじっと見つめていた。魂を薔薇へと変成させ、コリン少年をその器にしようとした伯爵の妄執。
「信じがたい……。だが、これだけの物的証拠、そして生存者の証言。ラッセル氏、我々が動くには十分すぎる。薔薇の庭園の調査も即座に行う」
地上へと戻ると、そこには既に警官に組み伏せられ、拘束された伯爵が立っていた。
数日前までメアリーの保護者であったはずの男は、今や冷たい鎖で繋がれた犯罪者に過ぎない。
しかし、その表情は崩れることなく、硝子のような瞳で真っ直ぐに廊下の先を見つめていた。その視線の先にあるのは、コリンが潜んでいる居間の扉である。
メアリーは咄嗟に伯爵の視線を遮るように立ちはだかった。エドワードもまた、無言で彼女の隣に並び、鉄の障壁となってコリンを守る。
「……貴公が、エレナの弟か」
伯爵が囁くような声で言った。
「姉に似ているな。その、憐れみを知らぬ瞳が」
「黙れ。貴様に姉の名を呼ぶ資格はない」
エドワードの返答は、吹雪のように冷え切っていた。伯爵はそれ以上言葉を重ねず、最後にもう一度だけ居間の扉を見遣り、警官たちに促されるまま館の外へと連れ去られていった。
伯爵の影が消えた玄関の扉が閉まると同時に、メアリーは居間へと駆け込んだ。
扉のすぐ後ろで、コリンが今にも崩れ落ちそうな足取りで立っている。
「……父上は、行ったのかい」
「ええ、もう二度と戻らない場所へ」
「廊下の声、全部聞こえていた。僕に会いたいと言っていたのも……」
コリンは力なくソファに沈み込み、自身の細い指を見つめた。
「僕は、父上に会いたかったのだろうか。憎んでいたはずなのに、一瞬だけ、胸が締め付けられるような気がしたんだ。これは、間違いなのかな」
「どちらも本当の気持ちだ。憎しみも、縋りたい気持ちもな。それを否定する必要はない」
エドワードの言葉に、コリンは小さく頷き、膝の上で新しい日記帳を開いた。今この瞬間に溢れ出した、混濁した感情を書き留めるために。
庭園の捜査が始まった。
警官がスコップを薔薇の根元に突き立てると、土の中から次々と白い布の破片や、あまりにも小さな骨の欠片が露わになった。インスペクターの顔から血の気が引いていく。
「これ以上は専門の鑑識を待たねばならん。だが、この薔薇園は……巨大な墓地だ」
メアリーは、朝の光の中で異様に輝く紅い薔薇を凝視していた。その根が、土の下で微かに身悶えするように動いたのを見たからだ。
「メアリー、離れろ!」
エドワードの鋭い声に現実に引き戻され、彼女は一歩後退した。美しいものの下に隠された、おぞましい真実。薔薇は今も、地中の栄養を貪欲に吸い上げている。
封鎖された秘密の庭園の扉が打ち破られ、一行が中へ入ると、そこはさらに濃密な死の香りが充満していた。風もないのに、暗赤色の薔薇たちが一斉に同じリズムで揺れている。
まるで、そこに閉じ込められた魂たちが合唱しているかのような光景に、警官たちは恐怖に顔を引き攣らせた。
「……今日はここまでだ。全員、屋敷に戻れ!」
インスペクターの叫びと共に、庭園の扉は再び固く閉ざされた。
屋敷の居間には、救出されたジュリア、付き添うマーサ、そしてコリンたちが集まっていた。
インスペクターは証拠品として二冊の日記――エレナのものと伯爵のものを受け取ると、それを厳重に封印した。
「今日のところは引き上げる。だが、これは長い戦いの始まりに過ぎない。皆さんも、ロンドンでの証言をお願いすることになるでしょう」
警官たちが去り、屋敷に本当の静寂が訪れた。しかし、それはかつての恐怖に満ちた静寂とは異なり、どこか空っぽで、解放感のあるものだった。
「終わったのかい、叔父さん」
「ああ、終わり始めたんだ。もうすぐ、ここを出る」
エドワードはコリンに向き直り、静かに告げた。
「俺の家へ来い。テムズ川の流れる、広い空の下で暮らすんだ。お前は、俺の誇り高い甥なのだから」
初めて聞く『甥』という響きに、コリンの瞳に微かな戸惑いと、それ以上の熱が灯る。
出発の準備が整い、全員が玄関に集まった。エドワードは最後、伯爵の書斎から一枚の小ぶりな肖像画を持ち出してきた。それは、まだ呪われる前の、若き日のエレナが描かれた絵であった。
「これを、お前に」
コリンがその絵を手に取ると、そこには母の、見たこともないような穏やかな微笑みがあった。
「ありがとう……叔父さん」
コリンが少しだけ、本当に少しだけ笑った。
玄関の扉を開け放つと、昼前の眩い黄金色の光が一行を包み込んだ。
コリンが初めて、館の外にその足を置く。石畳の上で彼は立ち止まり、深く、冷たい秋の空気を肺に満たした。
「……空が、こんなに大きかったなんて」
頭上に広がる遮るもののない蒼穹。メアリーもまた、その広大さに目を細めた。窓越しの空とは違う、自由という名の眩しさがそこにはあった。
馬車が動き出し、ミセルスウェイト屋敷が遠ざかっていく。赤黒い薔薇の生い茂る塀も、呪われた石造りの巨躯も、やがて視界の端に小さくなっていく。
コリンは一度も後ろを振り返らず、ただ前方の地平線を見つめていた。
メアリーだけが、最後にもう一度だけ振り返った。
屋敷の踊り場の窓に、一瞬だけ、純白の光が灯ったように見えた。
そこにはもう、涙を流す肖像画の姿はない。ただ、愛する人々を見送る、穏やかな慈母の眼差しがそこにあるだけだった。
長く暗い夜は、今度こそ、完全に明け去ったのである。




