夏の味なら檸檬か薄荷
夕飯用の仕込で手を動かしながら外を見た。厨房の窓からは中庭の一部がのぞける。人形たちが手入れしてくれるおかげで雑草がはびこらない、シンプルな眺め。
春も終わりに近づき、そろそろ夏が近づいてくる。気温も上がってきた。
私がメイドになって半年……くらいだろうか。小姓としてついてた時期を通算させるかどうかで答えは変わる。どっちにしろ覚えていたいものじゃない。
感想を言えるなら、短いようで長かったとしか。
うん、もし私がこのまま歳を取れたら感慨も変わるかもしれない。っつか、そもそも論として年寄になるまで生きていけるかって疑問な。そこ大事。
日差しが強い中庭の照り返しに目を細める。あっちの隅には四阿なんてものまで設えてある。クルトは屋敷から出られないんだから不要な物なんだろうに、国にひとりしかいない機械技師には保つための面子もある。きっと。たぶん。
風がやさしく踊る。鼻孔を擽る、ふんわりとした煮込み料理の香りで柄にもない物思いから返る。気を取り直し、喋らない仕様にしてあるクルト製人形たちと楽しく一方的な会話の合間に夕飯準備を進めていると厨房出入り口付近から声がした。
「……どうして、ここにいる、イレーネ」
「すでに提出期限の過ぎた書類作成は終わりまし「ぱぁん!」……終わったか、クルト。ところで、なぁ、知ってるか」
「お前が天使だということ以外に何を知ればいい。堕天までの距離か」
すぐ隣で頭部を破壊された人形から滴ってきたとろみの強い液体はなんだろうか。くどくない甘さで実に美味しい。ぺろり、舌を伸ばしてみた。クルトから押しつけられる、問答無用で拘束と束縛の強い生活にはいつもながらに腹が立つ。いらいらの発散に挑発じゃもの足りなくて人形を引き寄せてみる。
いつかのときと同じように無機物の胸に舌を伸ばす。まさかの速度で砂になった。
「……いや、せっかくのおやつなんだ、味見くらい「ぱぁん!」っつか、堕天するのに距離っていう概念がすでにしておかしくないか。なんだな「ぱぁん!」クルト、そろそろ聞きたいがお前の中で天使ってもんは「ぱぁん!」堕ちるんだよな?」
「いま、すぐに、その、新しい人形から手を離せ。お前が手を伸ばしていいのは俺だけだ」
滴ってくるとろみで張りついた前髪をかきあげる。4体目の頭部から落ちてきた分で堪忍袋の緒が切れた。首筋を伝う液体で濡れそう……っはは、くそったれ、これは既にしてずぶぬれって言うんだ。メイド服のシャツ部分が透けてる。
これ以上クラッシュゼリーよりも柔らかいトロトロを浴びるとスカートから滴る。洗濯と着替えが確定した時点で報復まではワンセットだろ。
クルトへの嫌がらせでサイコーに効くのはどれだ。
目尻から指先で垂れた分を引っ張って、クルトの目の前で思わせぶりに自分の爪を舐める。ぴちゃぴちゃって音はどうやったら自分で出せるようになるんだろうか。コツが知りたい。
目線は絶対に外せない。
食い入るようなクルトの凝視にザマァと溜飲を下げつつ無言で手のひらまで舌先を伸ばす。無色透明なもんで予想が難しかったけど、手首のとこまで舐めてるうちにようやく今日のおやつがかなり柔らかめに作った葛餅だってわかった。目の端で隣を確認する。私には滴るだけ。だけど人形の方にはところどころに塊がくっついてる。クルトの妙な得意技で彼らが砂になる前にそちらを食べようと舌を伸ばすたび、さらりさらり、クルトの舌打ちと共に彼らは砂になる。
意味がわからない。
厨房にいた人形ぜんぶを破壊されてしまった。嫌がらせはここからが本番。身体の線を意識しながら脚を前に出す。クルトの傍に行くなり間髪入れずに腰を抱かれた。おいおい汚れるぞ雇い主よ、なんてゼッタイに忠告するもんか。
ブラウスは透けて艶めかしい肌色としかいいようがない。どこからどう見てもいやらしい。っつか、お前、私情入りまくりだろ、おやつのチョイス。白いブラウスに紫でも緑でも肌色と喧嘩するもんな。葛粉のいいところは透明ってとこ。洗うときに色落ちの面倒がない。
「クルト? 私、本当をいうとおやつは器から食べたい派なんだ」
「俺はお前を食べたい、イレーネ。首筋までのキスまでなら何度しても堕ちない。だったら他の場所にキスすればいいことに思い至った。もっとお前の肌の味を知りたい。色々な場所を試して、そうして」
「私は天使じゃない」
隙間なく抱きつかれてる脇腹を縫って手を伸ばした先、人形はやっぱり砂になった。頭部を破壊されなくても砂になるこの不思議さよ。仕掛けはコイツしか考えられないんだけど、舌打ちひとつで指向性まで持たせられるか?
どうやってんだ。
「死ね、イレーネ。苦しむことなく生まれ変われ」
「……おい待て。ちょ、…………クルト?」
あぁぁぁ?! なんかいま、チョーゼツ衝撃の事実って奴を落とされたよな? 爆弾級。
「おい、なぁ教えろ。もしかして、いままですっごい勘違いしてたっぽいから聞きたい。……お前、私が死ぬときは苦しくないと思ってないか」
「は? 天使が堕天するんだ、苦しみより知らなかった快楽に溺れて堕ちる、その悦楽の方が……ん。…………うん?」
クルトがパチパチと目を瞬かせる。視線の先で無意味に人形たちが順次で砂になった。こらこら入れ替わってるはしから壊すなっての。在庫がなくなるぞ馬鹿野郎。
や、いや、確かにああいう死に方なら楽だろうな。人にはたくさんの死に方がある。だけど死ねるならたったの一度だけで、だから私も深く考えてなかったけど。
「お前も考えてなかったんだ? 私が、その、つまりなんだな、クルトの見解として堕天するとしたら、さぁ?」
「俺の与えられる限りの快楽でを狂わせる。俺が触れてなければ息も出来ないほど依存させる。失神してからの目覚めの第一声でまだ強請るくらいの悦を与え続けて。天使でいられなくなるほど浅ましく俺を欲しがらせる」
「童貞が根拠のない自信に足を取られて死ぬ場面を見た。じゃなくて」
「イレーネが相手ならどれほどの時間でもかけられる。俺の望む状況になるまでイイところを追及するから、大言壮語じゃない」
「そういう話でもない」
うん? ……うん。叩き落としていいところだ。コイツいま、いったん寝台に連れ込んだら最後だって宣言したよな? コイツが童貞なことは私の命に賭けて証明できるけど、いやだってこの引きこもり具合で女性云々は無理ゲーすぎだろ。
待て。まてまてまてまて。
私も処女である以上、コイツのこの発言、血で血を争う長時間拘束の上でさらに耐久戦が約束されてないか? いやマジで大した価値もない初体験にどんだけ手間と時間かける気だ。
意味ありげに頭部破壊を免れた人形の砂から覗くおやつの袋を視線で示される。はっはぁ、あんなふうに収納されてたのか。だから飛び散るんだ。
とろり蕩けてる容れ物、あれみたいにされるって意味であってるだろうか。クルトに弄られ続け、ぐにゃぐにゃの袋みたいに骨もなく、芯も残らない、ってか。
後ろ髪を引かれ、のけぞった首筋をクルトは舐めた。
「甘い。イレーネ、お前と、この甘さを分かち合いたい」
「おやつの話なら普通に器から食べよう、ご主人さま。食卓の端と端で向かい合って、遠くから茶で乾杯。な?」
「お前の口から食べたい」
優雅に舌先があがってきて、喉のくぼみから顎を辿る。もちろん私だってぼうっとしてるわけじゃない。さっきから抵抗してる。
恐ろしく完璧な拘束をかましてくるクルトの野郎はあり得なくも体術まで極めてやがる。確実に一発で頭部破壊する銃の腕前、安定して大段平ふりまわす剣術、さらに機械師で体術まで修めてるとかどんな育ち方してんだコイツ。完璧人間は嫌われるぞ? それ以上に人格っつーかヒトとしてどうかと思う問題点だらけでイーブンか?
逃げようと全力を尽くして抵抗してるのに届かない。焦らない薄い唇に覆われる。クルトの、色も厚みも薄い唇は私の口をすっぽりと覆い、生き物みたく口中に滑り込んでくる。びっくりするほど熱い舌。
やっすい挑発したくて自分で指を舐めた時にはどうしても出なかったぴちゃぴちゃ音を軽く叩きだして私を舐る。
殴ろう蹴ろう殺そうと脳が指令を出すより早く、私はクルトの胸板をそっと押した。
いままでの攻防は何だってんだってくらい呆気なく国いちばんの機械師さまは離れてく。途方に暮れたような私の顔がクルトの虹彩に映ってた。ゆっくりと透明な黒が目蓋に隠されて、また現れる。
呼吸がしづらい。吸いこまれそうに潤んだ極小の鏡がまた近づいてくる。無言のまま唇がつけられた。二回目。深いキスは私の息が続かなくなってオシマイにされる。三回目のキスは最初のときと同じように私が押したことで止められた。
泣きそうな私に無表情のクルト。
「明日のゼリーは薄青色がいい。薄荷の味。爽やかで初夏らしいトロトロをお前に滴らせ、イレーネ、綺麗に舐め取りたい」
「私は天使じゃない。だから死ぬときはきっと苦しむ。クルト、それより聞けよ」
私は、一度しか死ねない。
季節外れで例えるならしんしんと降る雪のように。
かちこちのパンがじわじわスープを吸ってぐんにゃりしていくときのように。
ぐっすり寝入っている暗殺対象の首をそっと掻き切るときのように密やかに。
事実だけは壊れ物のように扱わないといけない。クルトに告げるのなら、なおさら。
忙しなく瞬くだけで無言の頭脳が辿りつく結論を待つ。こいつは馬鹿げて優秀だから間違わない。クルトの喉が鋭く鳴った。ひゅって。
一度しか死ねないのは生き物の特権で恩恵。嘘も誤魔化しも多い私の言葉の、どこをどう受け取られたかクルトは私が人間であるという事実を知った。
はくり、はくりと飲み込んだ言葉はなんだろうか。
「イレーネ」
「人形に疑似心臓はつけられる。だからクルトは心音を知ってる。人形の性格はプログラムで作り上げられる。だからお前は心を疑う。私が、本当に天使だったら良かったのにな、クルト。お前に作られたモノだったら何を言われても苦しくないのに。こんなにお前に執着されなかったら、きっと双方が幸せに生きられてたんだ」
「お前がいないと息ができない」
「ンなこたぁ知ったこっちゃねぇんだよ」
いきなり抑え込まれる力が弱くなる。クルトは実際の人間の脆さを知ってるんだろうか。知らないかもしれない。なのに込められた握力は的確なまでに減った。
ぼろぼろと零れる涙を吸ったクルトが身じろぐ。焦ったように両手が私の身体から離れたのに、それでもしつこく舌先だけを伸ばし涙を舐めながら唾液と味を比べてる。
涙の味を教えたのはいつだったか。体温は。肌の味は。
何もかも私で知っていくクルトに『私が』執着を覚えたのはいつだ。
私が人形ではなく生きていると知ってほしくなったのは、くそったれ、くそ野郎。
「今夜と明日の休暇を寄越せ。私に立ちなおしの時間をくれ。お前にもやる」
「長すぎる。ゆっくりじっくり考えるし検討する。だけどそんなに離れられない」
「知るかボケ。死ね」
べしょべしょのメイド服で私は厨房から外に出ていく。初めて無防備にクルトへと背中を向けた。追って来ない。その確信があった。
クルトは館から外に出られない。
私は悠々と、ここに来てから初めて焦らずに敷地を出た。雇い主の元に帰ってくるか自体が賭けで、憂さ晴らしから生きて帰ってくるかも賭け。別に誰にも強要されていないのに勝手に背負ってる事情に押しつぶされそう。
ちらり、後ろを向くとガラス越しにクルトと目が合う。苦しそうなクルトはガラスに手を当てては何度も弾かれたように握り込む。アイツ、マジで病んでるからな。
そんでもって病んでる程度なら私も一緒。
夏色のおやつは、私ならサイダーがいい。