第30話:最幸の地獄
魔界の城の深淵に位置する主寝室は、今日も不気味なほどに凪いでいた。
窓から差し込むのは、人間界の太陽のような暴力的な熱量ではなく、魂を優しく撫でるような紫紺の月光だけ。
天蓋付きの豪奢なベッドの上で、リリアーナは穏やかな寝息を立てていた。
かつてその身を焼いていた猛毒の残り香は、今や一片も残っていない。
彼女の肌は月の光を吸って白磁のように輝き、その表情はただ愛されている者だけが許される、無防備な平穏に満ちていた。
その傍らで、ゼパルは愛おしそうに彼女の頬を指先でなぞった。
「あぁ、リリアーナ。今夜のお前は、一段と芳醇な幸福を纏っているね」
ゼパルは彼女の額に、慈しみと独占欲を込めた口づけを落とした。
その瞬間、リリアーナの影から微かな紫色の光が溢れ出し、部屋の隅にある巨大な魔法の鏡へと吸い込まれていく。
ゼパルはゆっくりと視線を上げ、鏡の裏側の暗闇を射抜いた。
そこには、かつて太陽の王子と称えられた男の成れの果てがいた。
アリステアは、もはや叫ぶための喉も、怒るための理性も残っていない。
ただ、至近距離で見せつけられる「自分を完全に忘れた婚約者の幸福」という猛毒に当てられ、絶え間なく絶望の涙を流し続けるだけの機械と化していた。
アリステアと目が合うと、ゼパルは声に出さず、ただ唇の端を吊り上げて見せた。
お前の絶望がある限り、彼女は永遠に幸福だ。
その無言の宣告が、アリステアの魂をさらなる深淵へと突き落とす。
彼が流す悔恨の一滴が、彼が上げる声なき悲鳴のひと振りが、リリアーナの夢をより甘くし、彼女の肌をより瑞々しく磨き上げていく。
かつて彼女を搾取した男が、今は彼女に搾取されることでしか彼女のそばにいられないという、救いのない因果の円環。
「……ん、ゼパル様?」
微かな衣擦れの音とともに、リリアーナがゆっくりと目を開けた。
紫水晶の瞳がとろりと蕩け、目の前の悪魔を映し出す。
彼女は迷うことなくゼパルの首に腕を回し、その胸に顔を埋めた。
その視線の端に、巨大な銀鏡が映り込む。
だが、彼女にとってそれは、自分の美しさを確かめるための調度品でしかなかった。
鏡の奥で一人の男が精神を磨り潰されていることなど、彼女の純粋な世界には一分たりとも存在しない事象だ。
「おはよう、私のリリアーナ。いい夢を見ていたかな」
「はい……とても。なんだか、とても温かくて、悲しいくらいに甘い夢でしたわ」
リリアーナは幸せそうに目を細め、ゼパルの唇に自ら口づけを返した。
その至福の瞬間、鏡の向こうのアリステアは、嫉妬と絶望で肺が潰れるような衝撃を受け、さらなる純度の高い魔力結晶を精製する。
「貴方がいてくださるから、私はこんなに幸せなのですわ」
「あぁ、私もだよ。お前のこの笑顔を守るためなら、私はどんな苦労だって惜しまない」
ゼパルはリリアーナを抱き上げ、再び彼女を甘い愛の言葉で満たしていく。
その背後で、アリステア、公爵、そしてヘンリックの三人は、永遠に終わることのない最幸の地獄の中で、ただ絶望を奏で続ける。
リリアーナが目を覚ますたびに、一人の男の魂は死に、一人の女の幸福は完成する。
これが、彼女が選んだ、そして悪魔が用意した、最果ての愛の形。
絶望という名の土壌に、幸福という名の一輪の花が咲き誇る。
その美しさに一点の曇りもないまま、魔界の夜は永劫に続いていく。
(完)
─あとがき─
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