第10話 自我と虚無
ネマネス・スエルスには際立った自我がなかった。
生まれはグリーンクロック時宝金糸の幹部の息子。
金で与えられるものは全て与えられ、物質的には何不自由なく成長した。
しかし、彼の心の中にはいつも虚無があった。
欲しいものが何もない。
なりたいものが何もない。
何をやっても満たされない。
何をやっても何かが違うという感覚だけがある。
金持ちになりたい、スポーツ選手になりたい、芸能人になりたい、そういった夢を見る願望は彼の中に存在しなかった。
あるいは、平和に暮らしたい、幸せな毎日を送りたい、夫婦円満に仲睦まじく生きていきたい、そういった小市民的な幸せを望む心も彼の中に存在しなかった。
一時的には満ちた感覚を覚えることもある。
肉体的な欲求を満たしたとき、面倒な仕事を片付けたとき、敵を殺したとき、一時的な満足感を彼は覚え、しかし、家に帰って少し息をつけば、途端に虚無が返ってくる。
彼は自身の自我が極めて薄いのだと自己分析をしていた。
欲求が薄く、飢えるような渇望を持たないがゆえに満ちた感覚もまた薄い。
水をコップに注ぐとき、そのコップが大きければ注ぐのに時間はかかるが、そのコップに満ちた水を飲むのにも時間がかかる。
逆にコップが小さければ、注ぐのに時間はいらないが、飲み干すのも一瞬だ。
欲求というのはそういうものだとネマネスは思っていた。
自分の欲求という名のコップが小さいから、すぐに満ち、すぐに飲み干してしまう。
瘦せた自我に小さな器。
薄っぺらく、満ちるのに満たされない自己。
そんな彼にとって唯一の欲求は金を集めるということだった。
集めた金で何を買うということもないが、ただ金を集める。
金が欲しいわけではないが、金を集めるという行為には執着できる。
それは一種のバロメーターだから。
金という分かりやすい数字は持っているだけで人より優れた気になれる。
人より薄いその自己を金という数字で上書きしようとしていた。
それでも、結局は虚無に満ちることになるのだが。
いくら札束を積み重ねようと、心は買えないし、欲求も買えない。
最終的には、虚無が全てを押し流していく。
だから、『自我』の上書きというブラックボックスを与えられたとき、ネマネスはその上書きは効果を発揮しないと思っていた。
薄い薄い自分の『自我』では、他の誰の欲望も上書きすることなんてできるわけがないと。
けれど、初めてそのカルマ・リライトを実行したとき、あっけなくそれは成功した。
ブラックボックスはその効果を遺憾なく発揮し、彼と全く同じ心を持った見た目の違う人間をそこに誕生させる。
初めて自分と話したネマネスは思った。
こいつ、金金金金うるせえなと。
金にがめつい守銭奴だなとしか思わなかった。
けれど、自我が薄いとか、欲求がないだとか、虚無に満ちているとか、そんなことは露ほども感じない。
意外と外から見れば自分の虚無感などそんなものなのかもしれないと思った。
第11セクター、白衣の町と呼ばれる区画を襲ったサイボーグ。
ネマネスの名を騙った襲撃者が現れたとき、彼は少し羨ましいなと思った。
人に化けて、人の名を騙ってまで果たしたいと思える強い願望があるのだろうなと。
そして、その襲撃者が門扉に刻んだというネマネスの名を騙ったメッセージを目にした。
『我が名はネマネス・スエルス。もっとも優れた一等級サイボーグである! ホワイトクロスさえも私の手にかかればこのように赤子の手をひねるようなものだ。他の六大企業たちよ、待っていろ! 一つ一つ貴様らの手足をもぎ、グリーンクロックが全てを支配してくれる!』
ああ、それいいなとネマネスは思った。
このメッセージのネマネス像は非常に欲深い。
傲岸不遜で、自信に満ちていて、支配欲がぎらぎらと光っている。
あまりにも自身とかけ離れた自己像だったが、だからこそネマネスはそれに憧れを覚えた。
こうなれたらいいなと思った。
こんなふうに欲深くあれれば、その欲が満ちたとき、自分はどれだけの満足感を得られるだろう。
こうなりたいと思った。
こんなふうに全てを見下し、野心をむき出しにし、声高に支配欲を叫ぶことができれば、どんなにか楽しいだろう。
こうなってやろうかと思った。
自分の名を騙られることなどどうでもいいが、この偽物がそんなふうにネマネスのことを見ているのならば、実際にそうなったっていいのではないだろうか。
なぜなら自分にはそれができる。
薄い薄い自分の『自我』であっても、人を塗り替え、人を上書きし、人を支配することは容易にできる。
ならばいっそのこと実際にやったっていい。
やれば何かが変わるかもしれない。
この虚無感が満たされるかもしれない。
「みんな、僕になれ」
『自我』の上書きに必要なブラックエネルギーは支配する人間のエネルギーの半分。
1に対して0.5、10に対して5、エネルギーを注入してやれば、その人間は全て『ネマネス』になる。
そして、『自我』の上書きはブラックボックス所有者に対しても効果がある。
二等級であろうが、一等級であろうが、支配は可能。
ただし、ブラックボックス所有者を支配するには、そのブラックボックスに内蔵されているエネルギーの半分を注入する必要がある。
三等級には500人分、二等級には2万5000人分、一等級には50万人分のブラックエネルギーが必要ということだ。
「ふむ。まあ、戦力は十分かな」
現在、『ネマネス』となった人間の数はおおよそ20万人。
首都コーラスクレイスを中心にイーリス全土に満遍なく『ネマネス』がいる。
その中にはブラックボックス所有者も含まれている。
三等級が100人。二等級が10人、そして、一等級が1人。
それに加えてグリーンクロックとしての戦力も動員することができる。
既にグリーンクロック上層部は上書き済みだ。
現場の指揮官も主だったものは全て支配済み。
これだけの戦力をそろえれば、偽物が残したメッセージのごとく、全てをグリーンクロックが支配することも夢ではない。
「願わくば、この虚無が満たされんことを!」
そして、全ての『ネマネス』たちは行動を開始した。
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※
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「おつかれー。みんな、よく頑張ったねー」
クリアは大体1000人の弟子たちに向けて労いの言葉をかけた。
大した音量ではなかったので、遠くにいる弟子たちには恐らく届いていないだろう。
それでも、訓練が終了したことは分かったのか、みんな三々五々散っていく。
近くにいるメリアやマミは頷きを返し、トメイトは「おつかれっす!」と元気よく返事をした。
ユリアは「クリアちゃんもおつかれさま!」とこちらに近づいてくる。
「すごいね、クリアちゃんは! こんなにたくさん同時に指導するなんて!」
「まあ、みんな結構習熟してきてるし、アドバイスがいる人は少ないからね。それに、大体カレンが処理してくれてるし。ボクは空飛びながら気になった人に声掛けてただけだよ」
アイアンガーデンで弟子たちを指導するというのは最近のルーティンになってきているが、その指導においてもカレンの尽力は大きい。
彼女の魔法に対する理解はクリアに比べて合理的なので、人に説明するのに向いているのだ。
またカレンの頭はとてもいいので、相手にどうしたら伝わるかということをよく理解している。
指導役としてはクリアよりも優れているかもしれない。
何なら模擬戦をしてもカレンの方が勝率がいいので、普通に戦闘面でも彼女の方が優れている。
「……なんかむかついてきたな」
クリアはカルマ・スライドで移動し、弟子の一人と話し込んでいるカレンの真後ろに出現した。
そのまま彼女の頭にチョップを食らわせようとする。
しかし、その手は瞬時に振り返ったカレンにがっしりと掴まれてしまった。
「……何をしてるんですか、姫様」
「何ってチョップだよ。何でもできすぎる完璧な従者への嫌がらせ」
「そういうのを世間では何て言うか知ってますか?」
「パワハラだよね」
「分かってるならやらないでくれますか?」
「ざーんねん。ボクはカレンに給料払ってないから、上司じゃないんですー。だから、パワハラにはなりませーん。むしろお金もらってるのはボクですー」
「より悪いじゃないですか……」
呆れ顔のカレンを放置し、再びカルマ・スライドでユリアの元へ移動する。
「うわ! クリアちゃん、消えたり現れたり、びっくりするからやめてよー、もう!」
「ごめにょ」
「全然謝る気ないよ、この子!」
「あー、そうだ! メリトマミ来て」
ちょっと離れたところで話しているメリアとトメイトとマミを呼びつける。
「その呼び方、俺の成分だけ薄くないっすか? メリとマミって二人しか呼んでないように聞こえるんすけど」
「そんなことないよ。でも、トマト君が気にするなら、今度からメリーマミーって呼ぶことにするね」
「俺の成分、完全に消えたんすけど!」
クリアはポイント・リライトでクリアボックスを引き寄せると、ユリアとメリアとトメイトとマミ、四人にそれぞれ一つずつ渡す。
「みんなにこれあげるね」
「これってもしかしてカレンさんが使ってるやつ!?」
「その通り。クリアボックス。ボクの魔力を込めたものだよ」
明らかにテンションが上がったユリアに頷きを返す。
それもこれはただのクリアボックスじゃない。
「みんなは自前の魔力があるから、いらないっちゃいらないんだけど、特に本土に暮らす君たちには身を守る術があった方がいいかと思って作ってみた。ボクのカルマ・クラフトが込めてあるよ」
「それっていわゆる箱持ちって奴と同じ力が使えるってことすか!」
「そだよー」
「すげえ! やった!」
弟子たちには既に黒腐やブラックボックスの情報は共有してあった。
だからこそ、トメイトはクリアボックスを抱えて大げさに喜んでいるわけだ。
ユリアも飛び跳ねて喜んでいるし、メリアも「これがクリアさんの魔力……うへへ」とつぶやきながら危ない顔でクリアボックスを見つめている。
マミだけはわずかに微笑みを浮かべているだけだが、嬉しそうなのは伝わってくる。
「あ、ごめん。電話だ」
そのタイミングでシャープフォンが震えて、みんなから距離を取る。
着信相手はミミだった。
たびたびメッセージでやりとりはしているが、電話をかけてくるのは珍しいなと思いつつ、応答する。
「もしもし、ミミちゃん、元気?」
「……電話取って開口一番それかよ。まあ、元気だよ……じゃなくて、緊急事態なんだよ。必要ないかと思ったけど、お前にも一応、知らせとく」
「緊急事態?」
ミミの口調に焦ったところはないが、一等級サイボーグがわざわざクリアに知らせるということは相当大きなことなのかもしれない。
その予想は見事に正解だった。
「グリーンクロックを中心としてイーリス各地で暴動が起きてる。それも10万人単位のとんでもない数で。五大企業の施設が次々と襲撃されてる。それだけじゃなく、五大企業の中からも裏切り者が出た。BB持ちのサイボーグでね」
「……え?」
さしものクリアもその内容に絶句した。
言っていることがすぐには頭に入ってこない。
「暴動ってか、もはや内乱だね。戦争だよ。お前が変に首突っ込んでさらに混沌とした状態になるのも面倒だからさ、一応、忠告しとく。余計な手出しはしないでね、じゃ」
「あ、待って!」
ミミはそれで電話を切ってしまった。
かなりやばい状況のようだから、彼女の方も忙しいのだろう。
それにしたって、全てがあまりにも突然だった。
グリーンクロックということはネマネスも動いているということだろう。
どこまでが彼の思惑か分からないが、クリアが散々ネマネスの悪評を広めたことは関係しているのだろうか。
それで自暴自棄になってこうした行動に出たという。
「まさかね」
クリアはそんな思考を否定しながら、自分はこれからどうするべきかを考え始めた。




