第九節「慣れぬ異郷」
すでに慣れてしまった豪華な牢にヴィヴィはいた。
深いクマをこさえて、図書館から持ってきた本を山積みにして、何度もその文字を見るように目を動かしていた。最初の頃は話す言語は同じであったが、書かれる文字は違った。
それに苦労しつつも天気や絵のついた本から大体の基礎的だと思われる単語を収集。
神聖ローブ帝国で使われていた、ローブ語が話せるならとその文法を合わせてみてもどうにも解読はできない。
そこで苦労しながらもヴィヴィは出来る限り、この世界の人たちから教わらず独学で学ぶことを選んだ。
かつて神聖ローブ帝国には言語を話せるが書くことができなかった人間がそれを利用させられ、自身に不利な無茶振りを課されたのちそれが原因で処刑された歴史がある。
そんなことにならないためにも、ヴィヴィは書けないことを隠して独学でスラスラと読めるようにまでなった。
「いいでしょうか、勇者様。女神様はこの宇宙を創造し、この星を作り、そしてこの星に芽吹いた命を育んだのです」
「そうですか」
最初の一ヶ月は、言語をかけるようになることを目標とし、隣で懸命に説法をしてくるルルをあしらってこの地で自分の知らない間に不利なことにならないように勉学に励んだ。
「勇者様は女神様の使いなのです。地上に降りられない女神様の代わりにその意思を遂行する唯一無二の伝令者なのです」
「はいはい、そうですね」
二ヶ月目に入ってからヴィヴィに焦りが生まれてきた。
言語を習得しはしたが、勇者召喚についての記述は眉唾物で、抽象的にしか書かれていない本だったり、いかに勇者という存在が特別なのか、女神との関係性に対して言及されているものくらいしかなくそれらを見つけては、使えないと苛立ちを覚えた。
「この世界に唯一の勇者様は女神様によってその祝福を得て、そして勇者様が選び抜いた仲間と共に打破すべき悪である七つの大罪、黙示録の四騎士、そして魔王に立ち向かう、そんな崇高な存在なのです」
「そうかそうか」
三ヶ月目に入って、ヴィヴィは忌避した魔法に対してアプローチをかけた。
手に取るのも、それを見るのも正直なところヴィヴィはしたくなかったが、なんとか吐き気を堪えてヴィヴィは重々しい手を動かしてそれを見た。
「勇者様は女神様の繋がりが深く、勇者様自身も含めて世界の人々は女神様を信仰しているのです」
「…」
四ヶ月目になって、ヴィヴィは魔法の体系を理解できず苦しんでいた。
そもそもが初見の話、水球にはない文化文明、それに加えて無から生み出される有という現象にも元々あった知識が先行してか受けることが難しかった。
ギリギリ覚えられて属性のことくらい、それから召喚魔法なるものがある程度の認識、それ以外についてはまだヴィヴィの語学力と魔法への理解のなさが原因で読み解くことはできなかった。
「先代の勇者様が語ったようにこの世界は楽園とまで言われているところです。女神様の庇護がある世界に招かれた、これ以上の喜び、そして奇跡はあり得ない。それくらい、勇者様は幸運に愛されているのです」
五ヶ月目になったとき、ヴィヴィは憔悴し始めた。
やっと初級魔法の原理をそれなりに理解し始めたところだが、複雑な召喚魔法は理解を超えた。
魔法陣から使えるとか、魔法を使える人間は肉体の中で魔法陣を構成しているとか、結局のところ魔法陣と言われるものを関して魔法は行使されるとか、そういうものはわかったものの、召喚に関してそれらの魔法陣の応用がなされているようでまだ初級程度の知識がなかったヴィヴィには到底理解できなかった。
「勇者さ…」
「うるさい、どっかいっててくれ」
六ヶ月目になって半年となった。
その頃には既に説法するルルをあしらう気力もなくし、深いクマと青白い肌をそのままにのめり込むように召喚魔法を解読しようとした。
けれども、何も進まなかった。
行き詰まったのだ。
それ以上目新しい情報もなく、理解することも出来ず、もう、帰還は難しいのか、と心が折れそうになることが何度もあった。
それでも故郷への懇願に近い気持ちと、置いていってしまった、あるいはヴィヴィが置いていかれた仲間達、忠義を誓ったエクセプシオネル、きっとヴィヴィを待ち続けているであろう妻、ドゥースを思えば、弱音で心を折っている場合ではないと思えた。
だから今日もヴィヴィは同じ本のわからない場所を別の本で照らし合わせながら解読に勤しんでいる。
たとえこの半年の殆どが徒労であっても、徒労であるとは認めたくなかった。
何かしら物事が進んでいる。
自分はちゃんと帰還のために一歩、一歩ちゃんと前に進めていると、そう思いたかった。それでも心の内のどこかで、ヴィヴィを悪意が突き放す。
今やっていることは無意味だと。
それをやっても帰れないと。
だから、
だから、
だから、諦めろと。
そう思った瞬間、ヴィヴィは毎回胸を殴った。
強く強く殴って、そう思った自分を責め立てるように排除するように、頭の中でその考えを嬲って、もう同じことを考えさせないために殺した。
それでもその悪意は何度も甦る。
寝ている時、起きた時、ご飯を食べる時、祈りを捧げる時、本を捲る時、決まって唐突にヴィヴィを苦しめるようにその考えを渡してくるのだ。
何回目か、そう考える自分を殺した夜。
ヴィヴィは自分の死体が山積みになっている夢を見た。自分の手は真っ赤で、無感情に山を見つめている。手には馴染み深いサーベルが握られており、山積みになった死体の中で、首をあり得ない方向にぐるりと向けて嘲笑うようにヴィヴィを嗤う。
同じ顔なのにまるで別人のように顔を歪ませて嗤う死体は「キシシシ」としゃがれた喉を無理やり動かした不協和音が聞こえる。
『どうせ、帰れはしない』
それに対して、ヴィヴィは歩みを進め、その不快な死体の前に立ち冷酷な瞳でそれを見下ろした。
そこには一切の感情が入っておらず、そして慣れたように抜き身のサーベルを振り上げその勢いのままその肉を裂いた。
何度も何度も、それが肉塊になるまで振り下ろす。その最中でも笑い続ける死体に対して、また何度も何度も振り下ろす。
それが一切喋れなくなるまで、虐殺する。それこそ、神聖ローブ帝国のフォーヴの再来。
一切の慈悲もなく、救いも躊躇もなく、どこまでも機械的に、どこまでも単調にヴィヴィはその死体を何度も殺す。
何が帰れないだ。
ヴィヴィは怒りをあらわにすることなく、そう心のうちで吐いた。
何が戻れないだ。
ヴィヴィはそんなこと一切思ったことはない、と自分に言い聞かせるようにサーベルを振るう。
何が、何が、何が。
雨が降っていた。
サーベルを握る手にポタポタと生暖かい水滴がいくつも降ってくる。
それは一切止まない、それが鬱陶しくってたまらなかった。サーベルを出鱈目に振るって雨を凌ごうとした。けれどそれはできなかった。
頬から流れる雨を止める術などないのだ。
叫びや悲観や激しい感情の流動はなかった。人は何か心を動かせるものがなくっても泣けるのだな、そんな他人事のようにヴィヴィはその涙を見えないふりをした。
だが死体から流れる血が、それが作り上げた血溜まりが反射して無表情で涙を流すヴィヴィを映した。
ああ、もう無理だ。
ヴィヴィはすぐにその思考に辿り着いた。
別に帰還したい心がなくなったわけでも、諦めたわけでもない。ただただ、少しだけ、そう、本当に少しだけ休みたくなったのだ。何も考えない時間が欲しいのだ。
ほんのちょっとだけ、一秒だけでも目を瞑りたかった。
そう思った瞬間、ヴィヴィはまた自分の胸を殴った。
半分寝ていたらしい。ヴィヴィは一瞬よぎった考えを殺して、それから目の前にある本をめくった。
一般的な初級魔法の座学に使われているものらしい。
ヴィヴィが何度も読んだせいでページは変な風に曲がり、そしてところどころで折られた形跡が見えている。
それを更に広げてヴィヴィはその文字を読み込む。
何度も何度も何度も、狂ったようにその文字を目で追う。
ヴィヴィはここ最近寝ていなかった。
寝る間も惜しんでずっと本と向きあっていた。
そうでもしなければヴィヴィは生きていけなかった。
朧げで今でも思い出せない人々と再会するために、再開という救いに縋るためには、例え体調が崩れようとも帰還方法を求めると言う行為をしなければならなかった。
そうでなければ、ヴィヴィは正気を保つことができなかったから。
知っているだろうか。
故郷の仲間は、縋るものがなければ生きていけない人間がいると。
知っているだろうか。
故郷の妻は、一定の感情に囚われなければ生きていけない人間がいるということを。
知っているだろうか。
故郷にいる忠義を誓ったあの人は、あなたがいなければ人生という道で迷子になってしまうことを。
知っているだろうか。
ヴィヴィはもう壊れてしまっていることを。
ヴィヴィの手から初級魔法の教本が滑り落ちる。それは床に落ちて虚しい音を響かせた。
フリーになった手でヴィヴィは自分の目を覆った。
涙が無条件に流れる目を抑えて、それから口角を上げて高く笑った。これまで一度もしたことがないような、乾いた何もこもっていない大笑いを。
「ハハハ」
喉から一度でた声は拍車がかかるように更に大きくなっていく。
「アハハハハハハハハハハ!!!!!」
お腹が痛かった。
声を大きく出したのが久しぶりすぎて喉も痛みを訴え始めた。引き攣る口角が更に痛みを訴えて、体全体が引き攣るようなそんな感覚に襲われる。
楽しくもないのにでてくる笑いのせいで、殆ど過呼吸のような状態にヴィヴィは陥った。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハ、ひー、ふふ、あはははは!!ふふ、あは、うっ、アーハハ!!ハハハハハ!!!!」
響く響く、虚しいだけの部屋に虚しいだけの声が、ヴィヴィの部屋の前で待機している近衛兵が薄気味悪い感情を抱くほどに、ヴィヴィの笑い声は数分の間、続いたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
場所は魔領域。魔王城。
天井は丸く高さを出しており、その中央には荘厳なシャンデリアがあった。大理石で作られた壁。
それを支える黒色の柱には、白を基調とした旗が差さっており、それは開かれた窓から吹き込む風によって揺らされていた。
大理石で作られた床には黒いカーペットが敷かれており、中央には重圧な雰囲気を醸し出す黒石から出来たであろう円卓の机があった。
そしてそこに十人の人影がいる。
その中で九人の視線はたった一人に向けられ、それを向けられる一人は何処か冷徹な瞳を携えてから、九人の顔を見渡してゆっくりと口角を上げた。
「諸君、諸君、素晴らしい働きだ。ここには二名ほど足りないが…ゆくゆくは彼らも合流するだろう」
重圧な男の声が静寂な空間に響く。
それは楽しそうでもあり、しかしどこか威圧的な声色をしていた。
最初に反応したのは、琥珀のツーブロックにした髪型、スーツのような服をきっちりと着た男だった。
彼は糸目で弧を描く。
まるで楽しそうにしているのにも関わらず、その声はどこまでも平坦であった。
「思ったよりも早いなぁ」
それに対してソフトモヒカンの黒髪の男は一切聞き耳を持たず、サーベルをチャキチャキと音を鳴らしながら弄る。
その表情からも好戦的な色が見えて、珍しい白色の瞳の瞳孔は開ききっていた。
「んでぇ、どうやって始めるの?」
カタカタと音を鳴らしながら椅子を体で揺らすウルフカットの銀髪を持つ少年は無邪気にニコニコと楽しそうに、それこそ待ちに待ったというようにウキウキという。
「なぁなぁ、もうあっちの大陸に向かっていいの?いいよね?」
胡桃色のサブリムマッシュの髪型。
臙脂色の瞳。
若草色のベストを着た男は脱線した話を戻すように適当に棒読みの言葉を投げ打つ。
「で、どうするよアイツら」
白髪をツインテールにし、片目を隠した少女は元気よく椅子の上に立ち上がり、その両手を「はいはい!」というように挙げた。
「え〜そんなの一択、殺すしか無いんじゃーん!」
酷いクマが目立つ白髪ショートの青年が待ったをかける。
好戦的な一部と違って理性的なその翡翠色の瞳は気怠げに向けられていた。
「まぁまぁ、先行部隊の情報を待ちましょう」
それに同意するように腕を組んだ墨緑色の髪を持つ男は、厳しいような瞳をしてから頷く。
「正直、もうちょっと準備が欲しいところだけどな」
衣服を着崩した浅葱色のナチュラルカールの男は、つまらなそうに椅子の下で足をふらふらと揺らす。
「十分待っただろう」
それに対して墨色のコンマヘアの男は悪そうな笑みを浮かべながら、視線を正面にいる男に向けた。
「俺も十分だと思うよ。そこのところどうよ『魔王サマ』」
それらの意見を得て、男は眉ひとつ動かすことなく手前にあったチェスの盤面を動かす。
クイーンは排除した、ナイトは回収した、残るはキング、それを自軍である白のナイトでトドメをさした。
「さて、有意義な会議を始めよう。殲滅にせよ、壊滅にせよ、蹂躙にせよ、まずは戦略会議とでも行こうじゃないか」
先ほどまでバラバラの意見を出していた九人の瞳が怪しく光る。
その口元は全てを嘲笑するように口角を上げていた。
『全ては、崇高なる御身のために』
異口同音。
綺麗に揃ったその言葉を前に、その言葉を捧げられた男は楽しげに嗤った。




