第八節「女神崇拝とリンピタ教」
いつの間にか寝ていたのか、ヴィヴィは貴賓室にあったベッドで目が覚めた。
一日を越えたのかは定かではない。
ここには時計もなければ、腹時計もろくに機能していない。もしかしたら、一日経っているかもしれないし、三日たっているかもしれない。ただわかるのは飢餓で死んでいないから一週間は経っていないということだろう。
そんな曖昧な感覚でヴィヴィは天井を見た。
寝ていても仕方がない。どうせすることもない、帰還のためにその方法を考えるべきだとは思うけれど、情報がない以上ヴィヴィは手詰まりだ。
どうすることもできないことが苦しかった。
ただでさえ苦しいのに、更にヴィヴィを苦しませる。
途方に暮れたままベッドから出て、一人用のソファーに腰を落とした。
何もできないことがもどかしくって一生懸命頭を回した。
元の水球で見た文献や様々な伝承、魔法魔術、黒魔術、あるいは錬金術。政治に関係のない事柄には覚えはないが、一度見た文章は覚えている。
異世界、異界、それに準ずるもの、それらをひたすら知識を掘り返すように探る。
けれど少ししてそれをやめた。
どれもこれも役に立たない。
ヴィヴィが望むような答えは出てこない。異界からの生還方法も、そもそも異世界という存在すら、どこかの宗教では冥界などが出てくるが、そう言った場所でないのはわかる。
絵本ぐらいならギリギリ名前を知っている程度。
そんな話もあったな、くらいにしか覚えていない。これだったら読書家のドゥースを見習うべきだったかと思い返す。そうだとしてもこんなこと想定することもできないのだから、そんな未来はあり得なかっただろう。
そうして思考の海に呑まれているとき、唐突に部屋の扉をノックする音がした。
配慮するようにコンコンコンと三回、しかし無配慮で返事をする前にガチャっと音が鳴る。
「お目覚めになったのですね!勇者様!」
「あーそうですね」
輝く目でヴィヴィを見るルルに、ヴィヴィは曖昧にぼかしながら頷いた。
それに満足したのか、ルルはニコニコと笑う。それに何が面白いのかわからないといった表情でルルを見るヴィヴィは、ルルの背後に沢山の列をなす侍女の姿に更に疑問を深めた。
「勇者様がよろしければ、一緒にご飯をと思いまして声をかけさせていただきました!」
聞くにしては、とヴィヴィは再度ルルの背後にいる侍女を見る。
よく見れば二人分の食器を持っている様子で、ヴィヴィは断ることに対して面倒くささを感じ、諦めたように頷けば、ルルはヴィヴィの対面にあるソファーに座る。
そうすれば侍女たちが机の上に食器を並べ始めた。
豆スープと目玉焼き、マスタードにソーセージ、そして半分に切った食パン。
なんとなく、なんとなくだが、生活水準が自国よりも高い気がする。
なんと言えばいいのか、近衛兵騎士の装備が凡そ500年前なような気がするのに、目の前に置かれるご飯はヴィヴィの時代よりももっと進んでいる気がする。
ルルがカトラリーに手をつけようとする間、並んだ食事の前でヴィヴィは手を組んで口を開いた。
「泉におられる聖なる主よ。
主に授かりし恵、知恵、循環する水、
それらすべては栄光の兆し、黎明の光。
日の出には未来を、日暮れには過去を、
今この時、現を生きる我が身に感謝を。──ソレ・リンピタ」
それは染み付いた日課でもあった。
リンピタ教は神聖ローブ帝国の国教である。
国で信仰しているのだから、もちろん宰相などといった地位を持つヴィヴィもある程度守っているふりを見せないといけない。
そこに本当の信仰心がなくても、とりあえずは形だけ。
信仰する民たちが不安を感じないように、そうやってヴィヴィはこの祈りを革命後から何度もするようになったのだ。
だからこれはただの癖である。
人が歯を磨くような、就寝時に目を瞑るような、そんな些細で意識外の習慣。だからそれに対して指摘されるとは考えてもいなかったのだ。
「それは?」
「リンピタ教のお祈りですよ」
「り、ぴ教のお祈り?」
女神信仰のみしかないこの辰星でその行動は目立っていた。
心底わからないといった顔でルルがヴィヴィを見る。もちろん、そんな理由を知らないヴィヴィはその顔に対して、そうさせた理由がわかっていなかった。
「勇者様は女神様に選ばれた方ですよ」
「はぁ、その様子ですね」
「それなのに、その、リン…えっと、他の人を?」
「何かおかしいですか?」
「えっと、だから勇者様は女神様に選ばれたのです」
ルルにとってその説明は難しいものだった。
そもそも異教徒という言葉が存在しない世界でヴィヴィの存在は異質。女神に祝福されているのに、女神に祈らず、別の何かに祈る姿はおかしく見えたのだ。
そしてヴィヴィもまさかこの世界に女神教以外が存在していないとは思っていなかった。
どうしても地域別に特色が出るものだと思っていたし、同じ神を信仰しても、その信仰の仕方が違ったりなど、そういった差異があるのが常識だと思った。
だから二人ともどこか噛み合わずに話が続く。
「それは知っています。そう言われたので」
「それなら、そのおかしいのでは?」
「おかしい?それはどういった?」
言葉を迷うようにルルは同じことを繰り返す。
それ以外での説得方法が見つからないからだ。
そしてヴィヴィはヴィヴィで今までの事実を何度も言われているようにしか感じていない。
だんだん苛立つようにヴィヴィは眉を顰めていく。
反対にルルは困ったように眉を顰めた。
「えっと、まずは勇者様は女神様によって召喚されたのですよね」
「はぁ、何度も言ってますがそうですね」
「それで、この世界に来たのですよね?」
「そうらしいですね」
肯定しているのに、ヴィヴィは理解していない顔をする。
それをルルはどうして説得に乗ってくれないのか不思議でたまらなかった。
「勇者様は勇者様ですよ?」
「その、なんですか、哲学的な話ですか?」
「だから、その、」
これ以上の続きの言葉を思いつかない。
ルルにとっては女神とは唯一の神聖な方で、勇者とは女神が遣わした使いの者だ。
だから女神に仕えて当たり前のもので、そして祝福を得ているのだから祈りは女神に対してのみに行うべき行為だと思っていた。
けれど現実はどうだろうか、ヴィヴィは女神の使いとしているはずなのに、それはとても神聖的ですごいことで、ルルにとっては女神の次に信仰するべき相手なのに。
「ええっと、だからなんですか?」
どうしてこの人は自分が仕える女神を軽視するような立ち回りをしているのだろうか。
そうだ。女神様を誰よりも信頼すべき存在が他のものに祈りを捧げているのがルルは許せなかったのだ。
「どうして女神様以外に祈りを捧げるのですか?」
「…何回か言ったはずですが、私はリンピタ教の信者です」
「ですが、あなたは勇者です」
今度こそルルははっきりと言った。
やっと自分の言いたいことを整理できたからこそ、迷いない目でヴィヴィを見て真意に訴えかけるように言葉を重ねる。
「女神様があなたを選びました」
「へぇ、そう、らしいですね?」
「だから、他の方に祈りを捧げるのはおかしいことではないでしょうか?」
言った、言い切った。
ルルはやっと整理できた言葉を言えてスッキリした。だからこそヴィヴィの顔がひどく歪んでいることに気がつかなかった。
言い切ったことに喜びを感じ、安堵したその間に何が起きているのか。
「それは私に改宗しろということでしょうか?」
「かい、しゅ、が何かわかりませんが、女神様の巫女として勇者様は女神様に祈りを捧げた方が、自然というか」
「信仰の自由さえ私にはないと?」
「え、自由とかそういう大きなものではなく」
「なるほど、今信じる神を捨てて、女神様とやらを信仰しろということですね?」
「すて、とかじゃなくって、こう、もっと根本的なところで」
納得してもらえると思ったのに、むしろ状況が悪化しているように感じられてルルは焦った。
何がダメなのか、それがルルにはわからない。前提知識としてなく、そして、勇者は女神が地上を救うために使した者であるという意識のせいで、ヴィヴィの信仰を侵害している意識がなかった。
逆にヴィヴィはデリケートな問題への干渉にいい気分はしなかった。
それほどの信仰心はない。
それが全てだと思っていないし、敬虔な信者のような生活をしているわけではない。けれど、だからといって「はい、改宗してください」と言われて信仰を捨てるほど小さなものではない。
結局、ヴィヴィ自身がそれほど信仰していないと言いつつも、それなりの信仰心を持っていたということだ。
正直なところ、ルルにそう言われて不快に思っていることにヴィヴィは驚いていた。
それだけ、身近だったから、そう言って自分の中でその信仰心を誤魔化した。
「これ以上のお話はお互いやめましょう。美味しいご飯もまずくなりますよ」
「そんなことありません!」
それぞれの信仰は理解できたから、ちょうどいい距離感で接していこうというヴィヴィの発言は、ルルの大声で拒絶された。
「これがどれほど重要なことか勇者様は分かっていません」
話を蒸し返すのか、そのことに口角を引き攣らせたヴィヴィは一旦配給してきた侍女を見た。
何かいう権利は持っていないかもしれないが、これを回収してくれないか、という言った目で助けを求めようとした。
しかし、ルルのように信じられないものを見るような目でヴィヴィを見る姿にヴィヴィは心の内で大きくため息をついた。
「女神様がどれほどの方なのか、それをよく知らないから勇者様はそれほど頑ななのですか?」
もしかしたら、そんな気持ちで投げられた言葉に頭が痛いというように眉間を抑えるヴィヴィは「あー」とこれをどう短時間で収めるかを思考する。
「じゃあ、わかりました。シンジテマスシンジテマス」
「心から!」
「はぁ、正直に言いましょう。何を信仰しようが個人の自由でしょう。なぜそこまでこだわるのですか?勇者だからでしょうか?であれば、期待しないでください。残念ですがあなたが夢見た勇者は、他の神を信じて、女神を邪神だと思っている異端者で異教徒です。はい、諦めてください」
「なっ!じゃ、邪神なんて!なんでそこまで…」
「信じる神が違うからですよ」
そこまで言わないとわからないのか、そういうようにヴィヴィは言った。
「私が信じる神は一柱だけ、それ以外は神を名乗る邪な存在。それがリンピタ教の教義です。今まで女神に対して言及しなかったのは、宗教間の問題を起こさないためであって、私が信じるからではないです」
「女神を信じない勇者が居ていいというのですか?」
「勇者として召喚されたからといって、それを必ず喜ぶとは限らないのですよ。現に私は女神に対して反対的です」
ルルはショックを受けたように顔を歪めた。
その瞳にはうっすらと水の膜が張っているように見える。それを見て見ぬふりをしてヴィヴィはカトラリーを手に取った。
黙々と流し込むようにさっさと胃の中に乱暴に入れて、食べ終えた後にショックを受けて呆然とするルルを一瞥した後、ヴィヴィは「それでは」と言って席をたった。ルルはそれを止めることも出来ず、その背中を追うことしか出来なかった。
ヴィヴィは暖炉の近くにある椅子に座り、早くルルが出ていくのを待つ。
しばらくしてカトラリーを握り直して、ルルはすぐに食べるのをやめた。今はこの部屋からすぐに出て、大神殿に行って女神様に祈りを捧げたいと思ったから。そうしないと、心にできた蟠りをどうにも消費できない気がして。
食欲が失せた。
食事を作ってくれた方には申し訳ないと思う。けれども、そんなことを考えられるほどの余裕はなかった。
強い力で扉が閉められる。
それを見送って、ヴィヴィは天井を見上げてから深く、深くため息を吐いた。
国の価値観も違ければ、王族の意識も違う、宗教観だってずっとすれ違っている。たったそれだけなのに、ヴィヴィには重くのしかかっている。自分のする行動全てにすれ違いが起こり、ギャップがあり、一人で抱えるには手一杯だった。
ああ、そもそも、この世界に召喚されたこと自体、まだヴィヴィは抱えきれていないのだ。
祖国が恋しい。そんなヴィヴィの声は誰かに届くことなく溶けて消えていった。




