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俺の病気の事は、誰にも話していなかった。
母さんと父さん以外には、まだ誰にも。
美咲にも、悠斗にも。
まだ何も……話せていなかった。
* * *
「春樹、おっはよー!」
翌朝。
駅前で聞こえたその声に、思わず足が止まる。
振り向けば、美咲がいつものように駆け寄ってきていた。
いつもと同じ笑顔。
いつもと同じ声。
いつもと同じ朝。
それなのに、俺にとってはいつもとは違う朝なんだ。
「……おはよ」
何とか笑って返す。
……ちゃんと笑えただろうか。
正直、自信はなかった。
「……どうしたの?」
「え?」
「なんか元気ない」
ぎくりとする。
昨日も同じ事を言われた気がする。
昔からそうだった。
美咲は人の変化によく気付くから。
「寝不足」
「また?」
「また」
「ちゃんと寝なよー?」
そう言って笑う。
何も知らないから出来る笑顔だった。
彼女に嘘をついた。
これからも嘘をつき続けなければならないと考えたら、胃の中身が逆流してしまいそうなくらい、苦しかった。
* * *
講義中、ノートを取る美咲を見つめる。
綺麗な横顔だった。
昔から知っている、隣にいる事が当たり前だった安心する横顔。
幼稚園の頃から。
小学校も。
中学校も。
高校も。
ずっと隣にいた。
だから。
ずっと先も隣にいるんだと思っていた。
社会人になって。
結婚して。
子供ができて。
二人で同じ歳を取って。
命尽きるまで、隣に居続けてくれる。
それを疑った事なんて一度もなかった。
――スマホで見た検索結果が頭をよぎる。
進行性。
完治困難。
介助。
介護。
呼吸器による延命。
死。
当たり前に描いていた未来が、音を立てて崩れていく。
「春樹?」
声に顔を上げる。
美咲が不思議そうにこちらを見ていた。
「もうチャイム鳴ってるよ?」
「あ」
気付けば講義が終わっていた。
「珍しいね」
美咲がくすりと笑う。
「ボーッとしてた?」
「……ちょっとな」
誤魔化すように笑った。
* * *
帰り道。
いつものように三人で歩く。
悠斗がくだらない話をして、美咲が笑って、俺も笑う。
その光景を見ながら、ふと思ってしまった。
もし、俺がいなくなったとして、この二人はどうなるんだろう。
悠斗は優しい。
誠実だ。
美咲を大切にしてくれる。
それは知っている。
そして、悠斗は美咲を愛している。
自覚するのが遅かった俺なんかより、ずっと前から。
「春樹?」
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「絶対聞いてない」
美咲が呆れたように言う。
その横顔を見る。
――好きだと思った。
どうしようもなく、好きだった。
その手に触れたい。その髪に指を這わせたい。
……恋人として、彼女に触れたい。
でも、考えてしまう。
もしこの先、俺の身体が本当に動かなくなったら。
美咲は……どうなるんだろう。
俺は……美咲を縛り付けてしまうのでは?
彼女の輝かしい人生を、俺の為に棒に振る事になってしまうのでは?
そんな考えが初めて胸の奥に生まれた。
その小さな不安は、これから先……少しずつ大きくなっていく事になる。
* * *
その日の夜。
何度もスマホを手にして、一番上に表示されている名前。『白石美咲』をタップする。
通話ボタンへ指を伸ばしては、止まる。
アプリ画面を閉じる。
でも、また開く。
また閉じる。
そんな事を何度も繰り返していた。
俺は、何を言えばいい?
病気になった。
身体が動かなくなるかもしれない。
未来が無くなったかもしれない。
それでも俺の傍にいてくれ?
そんな言葉、どうやって伝えればいい?
言えるわけがない。そんな自己中心的な事……ッ!
気付けば時計の針は日付を跨いでいた。
俺は深く息を吐く。
そして、通話ボタンを押した。
……押して、しまった。
数回の呼び出し音。
『もしもし?』
聞き慣れた声。それだけで、もう泣きそうになった。
『春樹? どうしたの? こんな時間に』
「……美咲」
声が上手く出ない。
舌が張り付いてしまったみたいに動いてくれない。
『うん?』
「今度さ」
一度言葉が詰まるも、しっかり息を吸って続ける。
「……話したい事があるんだ」
息を飲むような音の後、電話の向こうが静かになる。
『……珍しいね?』
美咲が小さく笑った。
『分かった。ちゃんと聞くよ』
その少し弾んだ優しい声に、俺はまた何も言えなくなった。




