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誓いのキスは手の甲に  作者: 濃厚圧縮珈琲


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9

 俺の病気の事は、誰にも話していなかった。

 母さんと父さん以外には、まだ誰にも。


 美咲にも、悠斗にも。


 まだ何も……話せていなかった。


*   *   *


「春樹、おっはよー!」


 翌朝。


 駅前で聞こえたその声に、思わず足が止まる。

 振り向けば、美咲がいつものように駆け寄ってきていた。


 いつもと同じ笑顔。

 いつもと同じ声。

 いつもと同じ朝。


 それなのに、俺にとってはいつもとは違う朝なんだ。


「……おはよ」


 何とか笑って返す。

 ……ちゃんと笑えただろうか。


 正直、自信はなかった。



「……どうしたの?」


「え?」


「なんか元気ない」


 ぎくりとする。


 昨日も同じ事を言われた気がする。


 昔からそうだった。

 美咲は人の変化によく気付くから。


「寝不足」


「また?」


「また」


「ちゃんと寝なよー?」


 そう言って笑う。

 何も知らないから出来る笑顔だった。


 彼女に嘘をついた。

 これからも嘘をつき続けなければならないと考えたら、胃の中身が逆流してしまいそうなくらい、苦しかった。



*   *   *



 講義中、ノートを取る美咲を見つめる。


 綺麗な横顔だった。

 昔から知っている、隣にいる事が当たり前だった安心する横顔。


 幼稚園の頃から。

 小学校も。

 中学校も。

 高校も。

 ずっと隣にいた。


 だから。

 ずっと先も隣にいるんだと思っていた。


 社会人になって。

 結婚して。

 子供ができて。

 二人で同じ歳を取って。


 命尽きるまで、隣に居続けてくれる。

 それを疑った事なんて一度もなかった。


 

 ――スマホで見た検索結果が頭をよぎる。


 進行性。


 完治困難。


 介助。


 介護。


 呼吸器による延命。


 死。



 当たり前に描いていた未来が、音を立てて崩れていく。



「春樹?」


 声に顔を上げる。


 美咲が不思議そうにこちらを見ていた。


「もうチャイム鳴ってるよ?」


「あ」


 気付けば講義が終わっていた。


「珍しいね」


 美咲がくすりと笑う。


「ボーッとしてた?」


「……ちょっとな」


 誤魔化すように笑った。


*   *   *


 帰り道。

 いつものように三人で歩く。


 悠斗がくだらない話をして、美咲が笑って、俺も笑う。


 その光景を見ながら、ふと思ってしまった。



 もし、俺がいなくなったとして、この二人はどうなるんだろう。


 悠斗は優しい。

 誠実だ。

 美咲を大切にしてくれる。


 

 それは知っている。


 そして、悠斗は美咲を愛している。


 自覚するのが遅かった俺なんかより、ずっと前から。


「春樹?」


「ん?」


「聞いてる?」


「聞いてる聞いてる」


「絶対聞いてない」


 美咲が呆れたように言う。


 その横顔を見る。


 ――好きだと思った。


 どうしようもなく、好きだった。

 その手に触れたい。その髪に指を這わせたい。

 

 ……恋人として、彼女に触れたい。


 


 でも、考えてしまう。


 もしこの先、俺の身体が本当に動かなくなったら。


 美咲は……どうなるんだろう。


 俺は……美咲を縛り付けてしまうのでは?

 彼女の輝かしい人生を、俺の為に棒に振る事になってしまうのでは?



 そんな考えが初めて胸の奥に生まれた。


 その小さな不安は、これから先……少しずつ大きくなっていく事になる。



*   *   *



 その日の夜。


 何度もスマホを手にして、一番上に表示されている名前。『白石美咲』をタップする。


 通話ボタンへ指を伸ばしては、止まる。

 アプリ画面を閉じる。



 でも、また開く。

 また閉じる。


 そんな事を何度も繰り返していた。



 俺は、何を言えばいい?


 病気になった。


 身体が動かなくなるかもしれない。

 未来が無くなったかもしれない。


 それでも俺の傍にいてくれ?


 そんな言葉、どうやって伝えればいい?

 言えるわけがない。そんな自己中心的な事……ッ!



 気付けば時計の針は日付を跨いでいた。



 俺は深く息を吐く。

 そして、通話ボタンを押した。


 ……押して、しまった。



 数回の呼び出し音。


 『もしもし?』


 聞き慣れた声。それだけで、もう泣きそうになった。


『春樹? どうしたの? こんな時間に』


「……美咲」


 声が上手く出ない。

 舌が張り付いてしまったみたいに動いてくれない。


『うん?』


「今度さ」


 一度言葉が詰まるも、しっかり息を吸って続ける。


「……話したい事があるんだ」


 息を飲むような音の後、電話の向こうが静かになる。


『……珍しいね?』


 美咲が小さく笑った。


『分かった。ちゃんと聞くよ』


 その少し弾んだ優しい声に、俺はまた何も言えなくなった。



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