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誓いのキスは手の甲に  作者: 濃厚圧縮珈琲


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8/15

8

 予約した診察の日。俺は母親と一緒に病院へ訪れていた。

 

 待合室には、いつもと変わらない空気が流れていた。

 受付の声。

 子供の泣き声。

 呼び出しのアナウンス。


 ――なのに、俺にはすべてが遠く聞こえた。



 重たい空気を感じていたのは、きっと俺だけだ。

 母さんは普段通りだった。


 病院へ向かう車の中でも「終わったらお昼でも食べて帰ろうか」なんて話をしていたくらいだ。

 

 だから俺も適当に相槌を打っていた。


 きっと大丈夫だろう。

 きっと大した事じゃない。


 そう思いたかったから。


*   *   *


「神谷さん」


 名前を呼ばれる。


 母さんと二人で診察室へ入った。


 担当医はパソコンの画面を確認しながら、静かに口を開いた。


「検査結果についてお話します」


 その表情は、冗談の入り込む余地がないほど真剣だった。

 

 そこで初めて、俺は悟った。

 ――嫌な予感は当たっていたのだ。


「まず結論から申し上げます」


 医師は淡々と続けた。


「神谷さんは、(きん)萎縮性(いしゅくせい)側索硬化症(そくさくこうかしょう)――ALSと呼ばれる病気である可能性が極めて高いと考えられます」


 ……聞いた事のない病名だった。

 それは母さんも同じだったらしい。


「ALS……ですか?」


「はい」


 医師が頷き、机の上に置かれた資料をこちらへ向けた。


 神経の図と筋肉の図。

 つらつらと難しい言葉が並んでいる。


 ……全然頭に入ってこない。


「どういう病気なんですか?」


 自分でも驚くほど冷静な声だった。


 医師は言葉を選ぶように続けた。


「身体を動かす神経が少しずつ機能を失っていく病気です」


「……」


「手や足の筋力低下から始まり、徐々に身体が動かしにくくなります」


 身体が、動かなくなる。


 その言葉だけが妙に耳に残った。


「治るんですか?」


 母さんが震えた声で尋ねると、医師は目を伏せて続けた。


「現在の医学では、完治は難しい病気です」


 静かにそう言った。



 診察室の空気がシン……と凍り付いた気がした。

 

 続けて医師が何か説明していた気がする。


 薬の話だとか、進行を遅らせる治療の話だとか、リハビリの話とか。


 でも俺はそのほとんどを覚えていない。

 何故なら、ずっと頭の中で同じ言葉だけが何度も繰り返されていたからだ。



 完治は難しい。




 ――完治は難しい。




 ――——完治は難しい。



*   *   *



 病院からの帰り道、車の中は静かだった。


 母さんは何も言わず、俺も何も言えない。


 信号待ちで窓の外を見る。

 いつも通りの街並みだった。


 学生が歩いている。

 会社員が歩いている。

 子供が笑っている。


 当たり前の光景だ。

 世界は何も変わっていない。


 なのに――俺だけが置いていかれた気がした。



*   *   *



 夜、ベッドへ寝転びながら、スマホの検索欄へ文字を打ち込む。



 筋萎縮性側索硬化症 症状


 ALS 治る


 余命




 検索結果が並び、記事を開く。

 また別の記事を開く。

 さらに開く。



 読めば読むほど呼吸が苦しくなった。


 身体が指先から冷えていく。


 指先が震える。



 並ぶ検索結果には、俺が望む言葉や未来なんて、一つも書かれていなかった。



 失われていくものの話ばかりだった。


 歩けなくなる。


 箸が持てなくなる。


 服が着られなくなる。


 身体が動かなくなる。


 そして――。


「……嘘だろ」


 思わず声が漏れてしまう。

 スマホを握る手が震える。


 違う。

 何かの間違いだ。


 だって俺はまだ大学生だ。

 二十歳だぞ?


 昨日まで普通に生活していた。


 友達と笑っていた。


 美咲と話していた。


 悠斗と馬鹿やっていた。


 ……なのに。


 なんで。


 なんで俺なんだ?

 なんで……よりにもよって、俺なんだ?




 視界が滲み、頬を熱いものが伝った。


 そこで初めて気付いた。

 俺は泣いていた。

 いつから泣いていたのかも分からない。



 ただいたずらにスマホの画面だけが妙に明るかった。




 その白い光の中で。


 俺は自分の未来が壊れた事を知った。


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