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誓いのキスは手の甲に  作者: 濃厚圧縮珈琲


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 動物園から帰った夜。

 俺はベッドの上でずっと天井を見ていた。

 

 胸に刺さった棘は、抜けないままだった。

 目を閉じると、あの光景が浮かぶ。

 肩車をされた男の子。

 手を繋いだ女の子。

 そしてそれを静かに目で追っていた、美咲。

 ……あの一瞬の横顔が、頭から離れなかった。


 美咲は何も言わない。

 夢の事も。

 子供の事も。

 ……普通の家庭の事も。

 全部飲み込んで俺のそばで笑っている。

 


 保育士の夢を追いながら、介護の勉強もしてくれている。

 「自分で決めた事だから」と、言いながら。


 ……でも、俺は知っている。

 美咲が、本当に欲しいものを。

 美咲が、本当はどんな未来を思い描いていたかを。


 幼稚園の先生になって。

 いつか、お母さんになって。

 子供達に囲まれて。

 そういう当たり前の幸せを、本当は求めていたはず。


 ……そんな幸せを、俺が奪っている事を、俺は……知っている。


*   *   *



 考えれば考えるほど、答えは一つしかなかった。

 

 美咲から、離れるべきだと。


 そばにいてほしいと頼んだのは、俺だ。

 諦めなくていいと、その手を握らせたのは、俺だ。

 

 でも、それが間違いだった。


 俺がそばにいる限り、美咲は夢を諦める。

 俺がそばにいる限り、美咲は普通の幸せを掴めない。

 ……あいつの優しさが、あいつの人生を潰していく。

 

 そんなの……駄目だ。

 絶対に駄目だ。



 でも――と、俺は思う。

 どうやって離れればいい?

 

 美咲は諦めない。

 俺が離れてくれと言ったって、あの子は引かないだろう。

 ……あの日みたいに。

 

 諦めないよと笑って、離してくれないだろう。

 俺が退けば退くほど、美咲は踏み込んでくる。

 

 俺も……そんな美咲を、拒めない。離したくない。


 ……一人じゃ、無理だ。

 

 俺一人の力じゃ、美咲を本当の意味で幸せには出来ない。



 美咲を、幸せにできる誰かが要る。

 美咲の夢を応援できて。

 美咲の隣をずっと一緒に歩いてくれる人。


 美咲を心から……大事にできる、誰か。

 

 ……やはり、またあいつの顔が浮かんだ。


 コンビニの前で、困ったように笑って「美咲が好きなんだ」と、打ち明けてくれたあの夜の顔。

 俺を殴ってくれたら良かったのに、自分の腹を殴って「気付けなかった馬鹿な俺を殴った」と泣いた、あの夜の悠斗の顔だった。



*   *   *



 ……ずるい、と思う。

 自分でも、最低だと思う。

 美咲を離したくない、渡したくないと言いながら、その先をもう考えている。

 親友に美咲を託そうとしている。

 

 ……でも、悠斗なら。

 あいつなら、美咲を幸せにできる。


 俺があげられないもの、全部を。

 普通の日々を。

 子供のいる家庭を。


 ……普通の幸せを。


 俺はゆっくりと目を閉じ、吸い込んだ息を深く深く吐き出した。

 

 美咲を自由にしてあげよう。

 そして、悠斗に託そう。

 それが、俺にできる最後の――。



 ……愛だと、思った。

 



 その言葉を、心の中で初めて認めた瞬間……涙が零れた。

 

 手放すと、ようやく決めた途端に……認めてしまった。

 

 俺は、やっぱり美咲が好きなんだと。

 どうしようもなく、好きなんだと。

 

 ……でも、もう、決めた。


 好きだから、諦める。

 好きだから、誰よりも幸せにしてくれる男に、託す。


 ……こんな愛し方しか、俺にはできなかった。 


 溢れ出て止まらぬ涙で濡れた頬を、動かない手で拭おうとして……やっぱり上手く、拭えなかった。

 


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