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誓いのキスは手の甲に  作者: 濃厚圧縮珈琲


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 大学三年の後期授業が始まって少しした頃。


 美咲が幼稚園へ実習に行く事になった。

 大学の保育課程の一環で二週間の間、美咲は毎日実習先の幼稚園へ通うらしい。



 実習初日の朝。

 美咲は幼稚園へ行く前に、俺の家にまで来て顔を見せてくれた。

 

 普段の私服と違い、スーツ姿の美咲は大人っぽくてとても綺麗だった。


「じゃあ、いってきます! 応援しててねっ!」

 

 緊張と、それ以上の高揚を隠しきれない顔で美咲は出発していった。


「頑張れよ」


「うんっ!」


 俺は遠ざかっていくその背中を見送る。

 

 ……美咲は、楽しそうだった。

 本当に、楽しそうだった。




*   *   *




 美咲が実習に行っている間も、俺は変わらず大学に通っていた。

 通い慣れた、見慣れた道。見慣れたキャンパス。

 

 悠斗はいるが、美咲がいないと……何だか静かに感じた。


「美咲は今日も実習だっけ?」

 

 悠斗が、隣で焼きそばパンを齧りながら訊く。


「ああ、毎日楽しいってさ」


「だろうなぁ。帰ってきてもめっちゃ元気だもんな」


「……だな」


 悠斗は遠くを見るような目をした。


「向いてんだろうな、ああいうの」


 何気ないその一言に、俺は何も返せなかった。



 美咲は子供が好きで、明るくて、面倒見が良くて。

 すぐに人気者になって、子供達に囲まれて笑っている姿は容易に想像できた。

 


*   *   *



 美咲の実習も後半に差し掛かったある日の事。

 

 この日は悠斗も居らず、俺は一人で家へ帰る途中だった。

 

 駅のホームへ続く階段。……いつもなら、手すりを使ってゆっくり降りる所だが、この日は少し……急いでいた。


 別に大した理由じゃない。

 ……雨が、降りそうだったから。

 


 一段。

 二段。

 ――三段目で足がもつれた。

 


 ヤバいと思った時には、もう身体が傾いていた。

 手すりに手を伸ばすが……届かない。

 

 次の瞬間、俺の身体は階段を転がり落ちていた。




*   *   *




 気付いた時には、病院のベッドの上だった。

 幸い骨折はしていなかったらしい。

 運の良い事に、打撲と擦り傷だけ。

 

 だが、医者の話を聞いて、俺は悟ってしまった。

 もう自分の足で歩くのは、限界が近いのだと。


「車椅子を、検討した方がいいでしょう」


 医者は淡々と告げた。

 

 ……覚悟はしていたつもりだった。

 でも、いざその言葉を聞くと頭がサァッと冷えていった。


 歩けなくなる。

 ……ついに、ここまで来てしまったか。



*   *   *



 頭部も打っている為、念の為一日だけ入院する事になり、病室でぼんやりしているとバタバタと廊下を走ってくる足音が聞こえてきた。

 

「誰だ……病院だぞ……?」


 一体どこの患者の見舞客だと鼻で笑っていると、勢いよく俺の病室のドアが開いた。


「春樹!」


 ……俺の見舞客の美咲だった。 



 息を切らし、髪を振り乱して実習着の上にコートだけ羽織って駆けつけてくれたらしい。


「春樹大丈夫!? 怪我は!?  どこか痛いところは!?」


「……落ち着けって。打撲だけだから」


「打撲だけって……!  階段から落ちたんでしょ!?」

 

 美咲は半泣きだった。

 俺の手をぎゅっと握ってくれたその手は、震えていた。

 

 ……悪い事をしてしまったと思った。

 実習を抜け出してきてしまったのだろうか。

 

 また……心配をかけてしまった。





 美咲が少し落ち着いてから、俺はなるべく明るい声で訊いた。


「そういえば。実習、どうだった?」

 

「……え?」


「実習だよ。楽しいか?」


 美咲は少しの間黙っていた。

 何でそんな事を聞くんだとばかりに眉を顰めるも、ぎこちなく笑った。


「……うん。楽しい、よ」


 その「楽しい」の言い方で、俺には、分かってしまった。


 美咲は本当に楽しかったんだろう。

 子供達に囲まれて。

 先生達に、褒められて。

 きっと、毎日が充実していたのだろう。


 ……でも、今はそれを素直に言えずにいる。

 

 なぜなら、彼女が俺から目を離した、離れていた時間に俺が階段から落ちて。しかも車椅子になろうとしているから。



「楽しいなら、良かったよ」


 俺は彼女の心配を笑い飛ばすように、わざとらしく明るく言った。



 美咲が向いている事をやって、楽しんでいる。

 それは、嬉しい事のはずだった。

  

 ……なのに美咲は、嬉しそうな顔をしなかった。



 俺が車椅子になるその報せと、自分が夢に近づいて輝いている事。

 その二つが同じ日に重なってしまったから。

 


 握られた手の温もりの中で、俺は静かに思考を巡らせていた。

 

 ……俺は、やっぱり美咲から奪ってしかいないのだろう。

 楽しい時間さえ、楽しいと言えなくさせて。


 

 俺は……。



 窓の外ではとうとう雨が降り始めた。

 その音だけが、静かな病室に響いていた。

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