2
あの日の事は、今でもよく覚えている。
季節は春だった。
空は青くて、風は暖かくて。
幼稚園の園庭には、満開の桜が咲いていた。
花びらがひらひらと舞い、地面に淡い桃色の影を落としていた。
幼馴染みだった俺と美咲は、よくその桜の木の下で遊んでいた。
もっとも、遊びと言っても、砂場でも鬼ごっこでもない。
俺達が夢中になっていたのは――結婚ごっこだった。
* * *
「はーるくんっ!」
背後から元気いっぱいの声が飛んでくる。
振り向けば、満面の笑みを浮かべた女の子が両手を広げて駆けてきた。
しらいしみさきちゃん。
幼稚園に入園してから、ずっと一緒に遊んでいる女の子。
遅れてきたのに、全く悪びれる事なくぼくの前に立った。
「おまたせ!」
「おそいぞ、みーちゃん」
「おひめさまは、おしごとでいそがしいの!」
「そうなの?」
「そうなの!」
えっへん、と胸を張るみーちゃん。
あまりに堂々とした振る舞いに、ぼくは吹き出しながら拍手して彼女を讃えていた。
「じゃあ、はじめるか!」
「うん!」
そうやっていつも俺達は手を繋いで、桜の木の下へ向かう。
そこが俺達の王国だった。
ジャングルジムがお城。
滑り台が見張り台。
そして、桜の木の下が結婚式場。
子供らしい想像力で作り上げた世界。
でも、その頃の俺達にとっては本物の王国だった。
「はるくんはおうじさまね!」
「みーちゃんはおひめさま」
「それでね、それでね! おひめさまとおうじさまは、けっこんするの!」
「うん! けっこんしよう!」
テレビやえほんで見た、ぼんやりと知っているだけの結婚式を思い浮かべて、桜の木のコブを聖書に見立てて、二人で手を重ねた。
「えーっと。わたしはおうじさまとけっこんすることを、ちかいます!」
「じゃあぼくは、おひめさまとけっこんすることを、ちかいます!」
「じゃあ、ちかいのキス!」
みーちゃんがそう言って、ぼくたちはしばらく見つめ合う。
顔が熱い。よく分からないけど恥ずかしい。
「「……むり!」」
声が綺麗に重なって、どちらからともなく吹き出した。
「はるくん、へんなかお!」
「みーちゃんも!」
笑い転げるぼくたちを見て、近くで見守っていた先生まで笑っている。
しばらくして、みーちゃんが何かを思いついたように目を輝かせた。
「あ!」
「どうしたの?」
「おうじさまってね!」
みーちゃんがぼくの右手を持ち上げる。
「てに、ちゅーするんだよ!」
「てに?」
「てに!」
小さな唇が、ぼくの手の甲にそっと触れた。
ちゅっ。
本当に小さな音。
だけど、その瞬間だけ世界が止まった気がした。
みーちゃんは顔を真っ赤にしていた。
きっとぼくも同じだったと思う。
「これならへいき!」
「……うん」
「じゃあ、はるくんも!」
「えっ!?」
「はーやーく!」
急かされるまま、ぼくはみーちゃんの手を取った。
白くて小さくて、柔らかい手。
えほんのおうじさまみたいに、片方のひざをつく。
そして、そっと顔を寄せ、手の甲へ口付ける。
ちゅっ。
みーちゃんがくすぐったそうに笑った。
「えへへ」
「へへ」
二人して照れ臭く笑う。
それから毎日。俺達は飽きずに結婚ごっこをしていた。
次第に誓う相手がおうじさまとおひめさまから、はるきとみさきに変わっていた。
そして、最後は必ず、誓いのキスを手の甲に落とすのだ。
今思えば、本当に子供だった。
結婚の意味なんて何一つ分かっていなかった。
それでも、あの時の俺達は、本気だった。
「ね、はるくん! ゆびきりしよう!」
みーちゃんが小指を差し出す。
「おおきくなったら、けっこんするって!」
「うんっ!」
小指を絡めて、きゅっと強く結ぶ。
「ぜったい?」
「ぜったい!」
「やくそくだよ?」
「やくそく!」
「「ゆびきりげんまん! うっそついたらはりせんぼんのーますっ!」」
「「ゆびきったっ!!!」」
小さな小指は、すぐに離れた。
だが、その約束はずっと胸の中に残り続けることになる。
いつか大人になったら、俺と美咲は結婚するんだと。
そうなるのが当たり前なんだと。
この時は疑いもしなかった。




