19
次の日。
俺は久しぶりに大学へ向かった。
二週間ぶりの外の世界は、日差しがやけに眩しかった。
ふらつく足取りでも、怖くない。
何故なら……隣には、悠斗がいる。
昨日、あれだけ泣いて。
散々、語り合って。
その流れで、悠斗が言ったのだ。
「明日、大学行くぞ。送ってってやるから」と。
* * *
キャンパスの、いつもの中庭。
その手前で俺の足が止まった。
……向こうに、美咲がいる。
ベンチに座り、ぼんやりと空を見上げている。
その横顔はどこか寂しそうだった。
「……行ってこいよ」
悠斗が、俺の背中を、軽く叩く。
「ほら。あんだけ練習しただろ」
「……は? いつ練習したんだよ」
「昨日の夜、缶コーヒー飲みながら」
「してねぇよ、そんなの」
「いいから! 行ってこいっ!」
悠斗が、俺の背中を、どんっと押した。
よろけながら数歩、前へ出る。
振り返ると、悠斗はニッと笑って親指を立てていた。
……まったく。
あいつには、敵わないな。
俺はゆっくりと深呼吸をして、美咲の方へ歩き出した。
「……美咲」
声をかけると、美咲がはっと顔を上げた。
俺を見て、目を丸くする。
「……春樹?」
思わず笑顔が浮かびかけるが、すぐに気まずそうに視線を逸らした。
「……大学、来れたんだ」
「……うん」
「もう、平気なの?」
「……まあ、ぼちぼちかな」
ぎこちない、会話だった。
あんなに、何でも話せた相手なのに。
今は一言一言が重い。
「……隣、いい?」
「う、うん!」
俺は美咲の隣にゆっくりと腰を下ろした。
少しだけ、距離を空けて。
しばらく、二人とも、黙っていた。
中庭の木々が、風に揺れている。
……言わなきゃ。
ここに来たのは、その為なんだから。
「美咲。あのさ」
「……うん」
「この前は、ごめん」
美咲がこちらを見る。
「ドアの前で、あんな態度取って。連絡も無視して。……美咲の事、散々、突き放して」
「……」
「全部、俺が、悪かった」
美咲は、何も言わなかった。
ただ、俺の言葉を待っている。
――謝ってほしいんじゃない。
分かってる。
だから、俺は続けた。
今まで、言えなかった事を。
「俺さ。ずっと、一人で抱えようとしてたんだ。病気の事も。これから、できなくなる事も。……全部、一人で」
「美咲に迷惑かけたくなくて。美咲の人生を、巻き込みたくなくて……。だから、突き放した」
「美咲が優しくしてくれる度に怖くなって。……撥ね除けたんだ」
言いながら、自分の、情けなさが、込み上げてくる。
「でも昨日さ。悠斗にめちゃくちゃ怒られて……。一人で抱えるなって。俺達がいるだろって」
「……それで、やっと、分かったんだ」
俺は、美咲の方を、向いた。
「俺一人じゃ、もう無理だって」
情けない、告白だった。
でも、嘘偽りのない本心だった。
美咲の目から、ぽろりと、涙が零れた。
でも、今度は悲しみの涙ではなかった気がする。
「……やっと、言ってくれた」
美咲が、笑った。
泣きながら、笑っていた。
「私、ずっと、待ってたんだよ」
「春樹が、頼ってくれるの。……ずっと」
その笑顔を見て、俺は、胸が締め付けられた。
ああ、彼女は。
こんなにも、俺の事を。
……でも。
だからこそ、言わなきゃいけない事が、あった。
ずるい、お願いを。
「美咲。あのさ。……一個だけ、ずるい事、言ってもいいか」
「……何?」
俺は、息を吸った。
「俺は、美咲と恋人にはなれない」
美咲の笑顔が固まる。
「こんな身体だし。これからもっと動かなくなる。……美咲にその人生を背負わせるわけにはいかない」
「それだけは、変えられない。……変えたくないんだ。……ごめん」
美咲が、俯く。
「でも」
俺は、続けた。
「それでも、そばに、いてほしい。恋人としてじゃなくて。……幼馴染みとして、親友として。俺のそばにいて、支えてほしい」
「……」
「……勝手だよな。突き放したり、そばにいてくれって言ったり。……最低だよ。我ながら」
言い切って、俺は俯いた。
虫のいい話だ。
恋人にはなれない、でもそばにいてくれなんて。
断られても、仕方ない。
「……ふふっ」
美咲が小さく笑った。
「何だよ」
「ううん。……春樹らしいなって」
美咲は涙を拭い、まっすぐに俺を見た。
「いいよ」
ほっとした。
断られなくて、良かった。
虫のいいお願いを、美咲は、受け入れてくれた。
……そう、思った時だった。
「でもさ、春樹」
美咲がふっと笑っている。
さっきまでの泣き笑いじゃない。
もっと、不敵な……どこか悪戯っぽい笑みだった。
「私、諦めたわけじゃないからね」
「……は?」
「恋人にはなれない、でしょ? ……今はね」
顔を近付けてくる。
「私、ずっとそばにいる。支える。我儘も聞く。……でも、その代わり」
「いつか、春樹のその『なれない』を、ひっくり返してやるから」
その目は潤んでいたけど、まっすぐで強い。
……俺の知っている、美咲の目だった。
「だから、覚悟しといてよね」
俺は言葉を失った。
……敵わない。
本当に、美咲には敵わない。
俺がどれだけ理屈を並べても。
どれだけ、線を引いても。
美咲はその線の上を平気で歩いてくる。
断られても、引かない。
諦めろと言っても、諦めない。
……ずるいのは、俺だけじゃなかったらしい。
「……勝手にしろよ」
「うん、勝手にする!」
そう言って、彼女はニッと笑った。
いつもの男の子みたいなその笑顔で。
俺達は、恋人にはならなかった。
でも、他人にも戻らなかった。
名前のない、新しい距離で。
ただし——片方はその距離を縮める気満々だが。
何にせよ、俺達はもう一度隣に並ぶ事が出来た。
中庭を、風が抜けていく。
遠くで見守っていた悠斗が、こっちを見て手で〇のサインを作った。
俺は苦笑して、親指を立てて返す。
……まだ、何も、解決していない。
病気は、進んでいく。
俺の身体は、動かなくなっていく。
そして美咲は諦めてくれない。
厄介な事ばかりだ。
それでも今だけは――
この穏やかな時間を、信じてみたいと思った。




