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誓いのキスは手の甲に  作者: 濃厚圧縮珈琲


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 それから俺は、大学へ行くのをやめた。


 最初は、一日だけのつもりだった。



 なんとなく身体がだるくて、講義に出る気になれなくて。

 一日くらい、いいだろう。


 そう思って、休んだ。



 次の日も、休んだ。

 その次の日も。




 気付けば、もう丸々一週間、大学に行っていなかった。




*   *   *




 部屋の中で、俺は一日の大半を、ベッドの上で過ごすようになった。


 カーテンを閉めたまま。

 電気も点けないまま。

 スマホには、美咲と悠斗からの連絡が、何件も溜まっている。


『大丈夫?』


『今日も休み?』


『春樹、何かあった?』



 既読を付ける気にも、ならなかった。

 返事にしたって、何を言えばいい?


 身体がだるいから休んでる――なんて、そんなの、嘘だ。


 本当は、ただ二人に会うのが……怖いだけなんだから。




*   *   *




 茶碗を落とした。

 味噌汁の椀も、落とした。


 箸を何度も取り落とした。


 ……また、だ。



 最近、物を落としてばかりだ。

 昨日より、確実に、増えている気がする。


 いや。

 気がする、じゃない。

 

 増えているんだ。




 手が、言う事を聞かない。

 握ったつもりでも、力が入らない。


 指の先から、俺の身体が、少しずつ、俺じゃなくなっていく。

 ……本当に、そうなのか?


 もしかしたら、そんなに増えていないのかもしれない。

 ただ、意識しすぎて、そう思い込んでいるだけかもしれない。


 でも、もう分からなかった。

 一度気になり始めたら、何もかもが、進行の証拠に見えた。




 箸を落とす度に。

 ペンを落とす度に。


 俺の中で、何かがガリガリと削れていった。




*   *   *




 夜中に、ふと目が覚めた。


 喉が渇いて、水を飲もうとコップに手を伸ばす。

 ……掴めない。


 指が、上手く曲がらない。


 何度もやり直してようやく掴んだコップを、そろそろと口元へ運ぶ。


 ぐらり、と傾いて、ばしゃりと水がこぼれた。


 来ていたパジャマがびっしょり濡れる。


 ……冷たい。

 ……悔しい。


 たった、水を飲むだけの事が、できない。


 俺は、濡れた床の上で、自分の手を見つめた。


 暗闇の中で、ぼんやりと浮かぶ、自分の手。


 昔は、何だってできた手だ。


 ボールを投げて。

 ペンを握って。

 美咲と、手を繋いで。



 それが今は、コップ一つ、満足に持てない。



「……っ、ふざけんな」


 声が、漏れた。


「ふざけんなよ……」


 誰にともなく、呟く。



 動け。

 動けよ!

 俺の手なんだろ?

 俺の身体なんだろ!?


 なんで、言う事を聞かないんだ。

 なんで、俺を、こんな目に遭わせるんだ。


 濡れたパジャマを絞ろうと握り締めるも、その手にすら、上手く力が入らなかった。




*   *   *




 それから、何日が経ったのか。


 ある日の昼下がり。

 両親が出かけて不在にしている中、部屋のインターホンが、鳴った。


 無視しようとした。


 でも、もう一度、鳴る。

 しつこく、何度も。


 仕方なく、のろのろと玄関へ向かって、ドアを開ける。


 そこに立っていたのは、美咲だった。


「……春樹」


 美咲は、俺の顔を見て、息を呑んだ。



 無理もない。


 ろくに風呂も入らず、髭も剃らず、髪もぼさぼさで。

 ……相当、ひどい顔をしていたと思う。


「……なんだよ」


 我ながら、突き放すような声だった。


「連絡、つかないから……心配で……」


「……平気だよ。ちょっと、大学休んでるだけ」


「ッ……! ちょっとって……もう、二週間だよ?」




 二週間。


 そんなに経っていたのか。


「……春樹」


 美咲が、一歩、踏み出そうとする。

 部屋に、入ろうとする。



その瞬間、俺の身体が、勝手に動いた。



 ドアを、半分、閉めた。


 美咲が、入ってこられないように。



 ……あ。


 しまった、と思った時には、もう遅かった。


 美咲が、固まっている。


 半分閉じたドアの、その隙間で。

 俺と美咲は、見つめ合ったまま、動けなかった。



 俺は、何か言おうとした。



 ごめん、とか。

 違うんだ、とか。


 でも、何も、言葉にならなかった。


 美咲は、しばらく、俺を見ていた。



 ――そして。

 

 つう、と。その頬に一筋の涙が伝った。


 さっきまでの、心配そうな顔のまま。


 怒るでもなく。

 叫ぶでもなく。


 ただ、静かに。


 悲しそうに、泣いていた。


「……ごめんね」



 美咲が、小さく言った。

 なんで、美咲が謝るんだ。


 そう思ったけど、訊けなかった。




 美咲はくるりと背を向け、走り出した。

 俺から、逃げるみたいに。



 ……いや。

 俺を、置いていくみたいに。



 遠ざかっていく背中を、俺は半開きのドアからただ見ていた。


 追いかけられない。

 追いかける、資格もない。


 ドアを、ゆっくりと閉める。


 部屋の中が、また、暗くなった。



 ……これで、いい。

 これで、いいんだ。


 美咲が、俺から離れていく。

 それは、俺が、ずっと願っていた事のはずだった。


 俺がいなくなれば、二人は楽になる。


 その第一歩を、美咲が、踏み出してくれた。


 ……それなのに。

 なんで、こんなに……胸が、痛いんだろう。




 暗い部屋の中で、俺はその場に座り込んだ。


 もう、立ち上がる気力も、残っていなかった。

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