17
それから俺は、大学へ行くのをやめた。
最初は、一日だけのつもりだった。
なんとなく身体がだるくて、講義に出る気になれなくて。
一日くらい、いいだろう。
そう思って、休んだ。
次の日も、休んだ。
その次の日も。
気付けば、もう丸々一週間、大学に行っていなかった。
* * *
部屋の中で、俺は一日の大半を、ベッドの上で過ごすようになった。
カーテンを閉めたまま。
電気も点けないまま。
スマホには、美咲と悠斗からの連絡が、何件も溜まっている。
『大丈夫?』
『今日も休み?』
『春樹、何かあった?』
既読を付ける気にも、ならなかった。
返事にしたって、何を言えばいい?
身体がだるいから休んでる――なんて、そんなの、嘘だ。
本当は、ただ二人に会うのが……怖いだけなんだから。
* * *
茶碗を落とした。
味噌汁の椀も、落とした。
箸を何度も取り落とした。
……また、だ。
最近、物を落としてばかりだ。
昨日より、確実に、増えている気がする。
いや。
気がする、じゃない。
増えているんだ。
手が、言う事を聞かない。
握ったつもりでも、力が入らない。
指の先から、俺の身体が、少しずつ、俺じゃなくなっていく。
……本当に、そうなのか?
もしかしたら、そんなに増えていないのかもしれない。
ただ、意識しすぎて、そう思い込んでいるだけかもしれない。
でも、もう分からなかった。
一度気になり始めたら、何もかもが、進行の証拠に見えた。
箸を落とす度に。
ペンを落とす度に。
俺の中で、何かがガリガリと削れていった。
* * *
夜中に、ふと目が覚めた。
喉が渇いて、水を飲もうとコップに手を伸ばす。
……掴めない。
指が、上手く曲がらない。
何度もやり直してようやく掴んだコップを、そろそろと口元へ運ぶ。
ぐらり、と傾いて、ばしゃりと水がこぼれた。
来ていたパジャマがびっしょり濡れる。
……冷たい。
……悔しい。
たった、水を飲むだけの事が、できない。
俺は、濡れた床の上で、自分の手を見つめた。
暗闇の中で、ぼんやりと浮かぶ、自分の手。
昔は、何だってできた手だ。
ボールを投げて。
ペンを握って。
美咲と、手を繋いで。
それが今は、コップ一つ、満足に持てない。
「……っ、ふざけんな」
声が、漏れた。
「ふざけんなよ……」
誰にともなく、呟く。
動け。
動けよ!
俺の手なんだろ?
俺の身体なんだろ!?
なんで、言う事を聞かないんだ。
なんで、俺を、こんな目に遭わせるんだ。
濡れたパジャマを絞ろうと握り締めるも、その手にすら、上手く力が入らなかった。
* * *
それから、何日が経ったのか。
ある日の昼下がり。
両親が出かけて不在にしている中、部屋のインターホンが、鳴った。
無視しようとした。
でも、もう一度、鳴る。
しつこく、何度も。
仕方なく、のろのろと玄関へ向かって、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、美咲だった。
「……春樹」
美咲は、俺の顔を見て、息を呑んだ。
無理もない。
ろくに風呂も入らず、髭も剃らず、髪もぼさぼさで。
……相当、ひどい顔をしていたと思う。
「……なんだよ」
我ながら、突き放すような声だった。
「連絡、つかないから……心配で……」
「……平気だよ。ちょっと、大学休んでるだけ」
「ッ……! ちょっとって……もう、二週間だよ?」
二週間。
そんなに経っていたのか。
「……春樹」
美咲が、一歩、踏み出そうとする。
部屋に、入ろうとする。
その瞬間、俺の身体が、勝手に動いた。
ドアを、半分、閉めた。
美咲が、入ってこられないように。
……あ。
しまった、と思った時には、もう遅かった。
美咲が、固まっている。
半分閉じたドアの、その隙間で。
俺と美咲は、見つめ合ったまま、動けなかった。
俺は、何か言おうとした。
ごめん、とか。
違うんだ、とか。
でも、何も、言葉にならなかった。
美咲は、しばらく、俺を見ていた。
――そして。
つう、と。その頬に一筋の涙が伝った。
さっきまでの、心配そうな顔のまま。
怒るでもなく。
叫ぶでもなく。
ただ、静かに。
悲しそうに、泣いていた。
「……ごめんね」
美咲が、小さく言った。
なんで、美咲が謝るんだ。
そう思ったけど、訊けなかった。
美咲はくるりと背を向け、走り出した。
俺から、逃げるみたいに。
……いや。
俺を、置いていくみたいに。
遠ざかっていく背中を、俺は半開きのドアからただ見ていた。
追いかけられない。
追いかける、資格もない。
ドアを、ゆっくりと閉める。
部屋の中が、また、暗くなった。
……これで、いい。
これで、いいんだ。
美咲が、俺から離れていく。
それは、俺が、ずっと願っていた事のはずだった。
俺がいなくなれば、二人は楽になる。
その第一歩を、美咲が、踏み出してくれた。
……それなのに。
なんで、こんなに……胸が、痛いんだろう。
暗い部屋の中で、俺はその場に座り込んだ。
もう、立ち上がる気力も、残っていなかった。




