12
胸ぐらを掴む美咲の手は、まだ震えていた。
その手を振り払う事も、握り返す事も、俺にはできなかった。
ただ、掴まれたまま、美咲の顔を見ている事しかできない。
「まだ私……何も言ってないよ」
もう一度、美咲がそう言った。
さっきまでの叫ぶような声じゃない。
泣き過ぎて掠れて、低くて、それでいて妙にはっきりした声だった。
「春樹はさ」
「……ん」
「私の人生を壊したくない、って言ったよね」
「……ああ」
「私の未来を、背負わせたくないって」
頷く事しかできなかった。
美咲は、ゆっくりと胸ぐらから手を離した。
その手を、今度は自分の胸の前で握りしめる。
「あのね」
一度、息を吸う。
「春樹がいない人生の方が、よっぽど壊れてるよ」
風が吹いた。
少し青臭い草と川の匂いがした。
「私さ。物心ついた時には、もう隣に春樹がいたんだよ」
美咲は俯いて、笑った。
泣きながら、笑っていた。
「幼稚園も。小学校も。中学も。高校も。大学も」
「全部、隣に春樹がいたの」
「当たり前に、いたの」
ぽつり、ぽつりと、言葉を落としていく。
「だから私、知らないんだよ。春樹がいない私を」
その一言が、胸の奥に深く沈んだ。
「春樹は私の半分なの」
涙でぐしゃぐしゃのまま、それでも真っ直ぐに俺を見て、美咲は言った。
「半分が無くなった私に、残りの人生がどうとか言われても、困るんだよ」
俺は、何も言えなかった。
言えるわけがなかった。
だって美咲は、好きとは言わなかった。
愛してるとも、付き合ってとも、言わなかった。
ただ、半分だと言った。
それは、俺が美咲に対して抱いている、名前を付けられないこの感情と、多分同じ形をしていた。
恋なのか。
情なのか。
もっと別の、もっと古い、ずっと一緒に居過ぎて溶けてしまった何かなのか。
分からない。
美咲も、きっと分かっていない。
分からないまま、それでも、半分だと言い切れてしまう。
それくらい、俺達は長く一緒に居過ぎた。
……待たせては、いけない。
気付けば、俺の身体は動いていた。
震える腕を持ち上げて。
泣きじゃくる美咲の背中へそっと手を回す。
美咲の身体が、ピクリと小さく跳ねた。
肩越しに、息を呑む気配がした。
あと少し。
ほんの少し、腕に力を入れれば。
美咲を、抱き寄せる事ができる。
胸の中に閉じ込めて。
もう離さないと、言える。
たった、それだけの事だった。
――でも俺は、力を入れなかった。
背中に手を回し、彼女の背に触れるだけ。
抱きしめてしまえば、もう戻れない気がした。
それは、約束になってしまう。
守れない約束を、俺はこれ以上増やしたくなかった。
だから俺は、恋人にするみたいにじゃなく。
昔、美咲が転んで泣いた時みたいに。
その背中をゆっくりと撫でた。
よしよし、と。
その手つきの意味に、美咲も気付いたんだと思う。
……でも美咲は引いてくれなかった。
「……覚えてる?」
俺の肩口に額を押し当てたまま、美咲が言った。
「桜の木の下」
心臓が、跳ねた。
「春樹は、忘れちゃったかもしれないけど」
声が、震えていた。
「……私ね」
額が、ぐっと押し付けられる。
「一回も、忘れた事なかったよ」
「指切りも」
「手の甲のキスも」
「結婚ごっこも」
「……全部」
じわり、じわりと俺の肩が、美咲の温かい涙で濡れていく。
そして、美咲は続けた。
「私ね」
美咲が顔を上げる。
もう目と鼻の先に彼女の顔がある。涙と鼻水で滅茶苦茶になっていても、それでも彼女は笑っていた。
「お嫁さんに、なるつもりだったんだよ」
その瞬間。俺の中で何かが音を立てて壊れた。
ずっと。
ずっと、堪えてきたものだった。
病院でも。
検査結果を聞いた時も。
両親の前でも。
美咲の前でも。
全部、吐き出さずに飲み込んできた。
……なのに。
「……っ、う」
喉の奥から、知らない声が漏れた。
みっともない。
情けない。
二十歳にもなった男が何をやってるんだ。
それでも、止まらなかった。
「ぅ、あ……っ」
涙が、止まらない。
声が、止まらない。
俺は、子供みたいに泣いていた。
桜の木の下で、王子様とお姫様をやっていた、あの頃みたいに。
美咲が、俺の背中に腕を回そうとする。
今度は、美咲が俺を抱きしめようとする。
俺は――その腕を、そっと押し返した。
泣きながら。
みっともなく、嗚咽を漏らしながら。
それでも、俺は。
美咲を、抱きしめなかった。
美咲に、抱きしめさせもしなかった。
ここで抱き合ってしまえば。
俺は、もう二度と、この手を離せなくなる。
だから。
ごめん。
声にならない声で、そう謝った。
美咲は押し返され、行き場を失った腕をそのままに、俺の涙を見ていた。
そして、何かを察したようにゆっくりと、その腕を下ろした。
もう、無理に抱きしめようとは、しなかった。
ただ、隣に座って。
俺が泣き止むまで。
いつまでも、いつまでも、俺の隣に、いてくれた。
街灯の灯りの下で、俺達はただ黙って並んで座っていた。
恋人にも、ならず。
他人にも、なれず。
結局あの頃から、何一つ進めないまま。
俺はこの夜の事を、きっと一生忘れないんだと思った。




