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誓いのキスは手の甲に  作者: 濃厚圧縮珈琲


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12/30

12

 胸ぐらを掴む美咲の手は、まだ震えていた。

 その手を振り払う事も、握り返す事も、俺にはできなかった。

 ただ、掴まれたまま、美咲の顔を見ている事しかできない。



「まだ私……何も言ってないよ」


 もう一度、美咲がそう言った。


 さっきまでの叫ぶような声じゃない。

 泣き過ぎて掠れて、低くて、それでいて妙にはっきりした声だった。


「春樹はさ」


「……ん」


「私の人生を壊したくない、って言ったよね」


「……ああ」


「私の未来を、背負わせたくないって」


 頷く事しかできなかった。




 美咲は、ゆっくりと胸ぐらから手を離した。


 その手を、今度は自分の胸の前で握りしめる。


「あのね」


 一度、息を吸う。


「春樹がいない人生の方が、よっぽど壊れてるよ」


 風が吹いた。

 少し青臭い草と川の匂いがした。


「私さ。物心ついた時には、もう隣に春樹がいたんだよ」


 美咲は俯いて、笑った。

 泣きながら、笑っていた。


「幼稚園も。小学校も。中学も。高校も。大学も」


「全部、隣に春樹がいたの」


「当たり前に、いたの」


 ぽつり、ぽつりと、言葉を落としていく。


「だから私、知らないんだよ。春樹がいない私を」


 その一言が、胸の奥に深く沈んだ。


「春樹は私の半分なの」


 涙でぐしゃぐしゃのまま、それでも真っ直ぐに俺を見て、美咲は言った。


「半分が無くなった私に、残りの人生がどうとか言われても、困るんだよ」



 俺は、何も言えなかった。

 言えるわけがなかった。


 だって美咲は、好きとは言わなかった。

 愛してるとも、付き合ってとも、言わなかった。


 ただ、半分だと言った。



 それは、俺が美咲に対して抱いている、名前を付けられないこの感情と、多分同じ形をしていた。



 恋なのか。

 情なのか。

 もっと別の、もっと古い、ずっと一緒に居過ぎて溶けてしまった何かなのか。



 分からない。

 美咲も、きっと分かっていない。


 分からないまま、それでも、半分だと言い切れてしまう。

 それくらい、俺達は長く一緒に居過ぎた。



 ……待たせては、いけない。


 気付けば、俺の身体は動いていた。



 震える腕を持ち上げて。

 泣きじゃくる美咲の背中へそっと手を回す。

 美咲の身体が、ピクリと小さく跳ねた。


 肩越しに、息を呑む気配がした。


 あと少し。

 ほんの少し、腕に力を入れれば。

 美咲を、抱き寄せる事ができる。




 胸の中に閉じ込めて。

 もう離さないと、言える。


 たった、それだけの事だった。



 ――でも俺は、力を入れなかった。



 背中に手を回し、彼女の背に触れるだけ。



 抱きしめてしまえば、もう戻れない気がした。

 それは、約束になってしまう。


 守れない約束を、俺はこれ以上増やしたくなかった。




 だから俺は、恋人にするみたいにじゃなく。

 昔、美咲が転んで泣いた時みたいに。

 その背中をゆっくりと撫でた。




 よしよし、と。


 その手つきの意味に、美咲も気付いたんだと思う。


 ……でも美咲は引いてくれなかった。


「……覚えてる?」


 俺の肩口に額を押し当てたまま、美咲が言った。


「桜の木の下」


 心臓が、跳ねた。


「春樹は、忘れちゃったかもしれないけど」


 声が、震えていた。


「……私ね」


 額が、ぐっと押し付けられる。


「一回も、忘れた事なかったよ」


「指切りも」


「手の甲のキスも」


「結婚ごっこも」


「……全部」



 じわり、じわりと俺の肩が、美咲の温かい涙で濡れていく。



 そして、美咲は続けた。


「私ね」



 美咲が顔を上げる。

 もう目と鼻の先に彼女の顔がある。涙と鼻水で滅茶苦茶になっていても、それでも彼女は笑っていた。



「お嫁さんに、なるつもりだったんだよ」



 その瞬間。俺の中で何かが音を立てて壊れた。




 

 ずっと。

 ずっと、堪えてきたものだった。

 

 病院でも。

 検査結果を聞いた時も。

 両親の前でも。

 美咲の前でも。


 全部、吐き出さずに飲み込んできた。



 ……なのに。


「……っ、う」


 喉の奥から、知らない声が漏れた。


 みっともない。

 情けない。

 二十歳にもなった男が何をやってるんだ。



 それでも、止まらなかった。



「ぅ、あ……っ」



 涙が、止まらない。

 声が、止まらない。


 俺は、子供みたいに泣いていた。


 桜の木の下で、王子様とお姫様をやっていた、あの頃みたいに。

 美咲が、俺の背中に腕を回そうとする。

 今度は、美咲が俺を抱きしめようとする。




 俺は――その腕を、そっと押し返した。


 泣きながら。

 みっともなく、嗚咽を漏らしながら。


 それでも、俺は。

 美咲を、抱きしめなかった。

 美咲に、抱きしめさせもしなかった。


 ここで抱き合ってしまえば。

 俺は、もう二度と、この手を離せなくなる。


 だから。


 ごめん。



 声にならない声で、そう謝った。



 美咲は押し返され、行き場を失った腕をそのままに、俺の涙を見ていた。


 そして、何かを察したようにゆっくりと、その腕を下ろした。


 もう、無理に抱きしめようとは、しなかった。


 ただ、隣に座って。

 俺が泣き止むまで。

 いつまでも、いつまでも、俺の隣に、いてくれた。





 街灯の灯りの下で、俺達はただ黙って並んで座っていた。


 恋人にも、ならず。

 他人にも、なれず。


 結局あの頃から、何一つ進めないまま。


 俺はこの夜の事を、きっと一生忘れないんだと思った。

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― 新着の感想 ―
うそでしょ。なにこれ。えっ。 言葉が、ごめんなさい……えっ。
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