11
二人の間には、痛いほど沈黙が続いた。
川の流れる音と、遠くからの車が行き交う音。時々通り過ぎる人々の楽し気に話す声が聞こえては消えて行く。
夕陽はもうほとんど沈みかけていた。
俺は何も言えない。
美咲も何も言わない。
ただ涙だけが流れて行く。
「……ねぇ」
先に口を開いたのは美咲だった。
泣き過ぎて少し鼻にかかり、その声は掠れていた。
「いつから、なの?」
「……少し前」
「少し前って?」
「そうじゃなくて!! 症状が出始めたのは……?」
思えば、突然ペンを落としたり、物が手からすり抜ける事が増えたのは……。
「多分……今年に入ってからだと思う」
「そう……。病院に行ったのは……?」
「……二週間前くらい」
美咲が俯き、またふるふると肩が震えている。
泣いているのかと思ったけど……違った。
彼女は怒っていた。
「じゃあ」
震える声。
「ずっと一人で抱えてたの?」
「……」
「私にも言わないで?」
「……」
「悠斗にも言わないで?」
答えられない。
答えられなかった。
「なんで?」
美咲が顔を上げる。
彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃで、化粧もすっかり落ちて酷い有様になっていた。
でもそんな事、微塵も気にせずに、美咲は真っ直ぐに俺を見ていた。
「なんで相談してくれなかったの?」
「それは……」
「なんで?」
最早それは、悲鳴みたいな声だった。
「私、そんなに頼りなかった?」
胸が痛んだ。
「違う……」
即座に否定する。
「じゃあなんでよっ!?」
ぐいっと美咲に胸倉を掴まれ、引き寄せられる。
視界が涙で滲むも、美咲だけで満たされている。
「病気なのは春樹でしょ!?」
「苦しいのも春樹でしょ!?」
「怖いのも春樹でしょ!?」
美咲はもう、ほとんど叫んでいた。
周りの目も何も気にせずに、ただ俺の為に叫んでくれている。
「だったら!」
美咲が拳を握り、トン……と軽く胸を叩いた。
「だったら、私を頼ってよ……」
声が崩れた。
「頼ってくれなきゃ嫌だよ……」
ぼろぼろ涙を零しながら。
それでも美咲は俺から目を逸らさなかった。
「私達……幼馴染みじゃん……。ううん、もう……家族みたいなものなんだよ……?」
その一言が何より胸の奥深くまで突き刺さり、グリグリと抉られている様な痛みを引き起こしていく。
幼稚園から。
小学校も。
中学校も。
高校も。
大学も。
ずっと一緒だった。
人生のほとんどの時間を一緒に過ごしてきた美咲を、俺は自分の判断だけで切り離そうとしていた。
「ごめん」
ようやく出た言葉は、そんな情けない一言だけだった。
美咲は首を振る。
「謝ってほしいんじゃない」
涙声だった。
「私……」
一度言葉が途切れる。
唇が震える。
何かを言おうとして。
飲み込んで。
また涙が落ちる。
「私……」
もう一度。
今度は逃げなかった。
「春樹が苦しい時に、一緒に苦しみたいよ」
その言葉に。
俺は何も返せなかった。
返せるはずがなかった。
だって。
それは。
俺が一番聞きたくて。
……そして一番聞きたくなかった言葉だったから。
河川敷を吹き抜ける風は冷たく、空はもう茜色を失い始めていた。
街灯がぽつりぽつりと灯り始める。
そんな中、俺達だけが、その場に取り残されたみたいだった。
「……美咲」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「俺さ」
言葉が続かない。
何度も飲み込んできた。
病院でも。
家でも。
一人になった夜でも。
誰にも言えなかった言葉だから。
でも……
「……怖いんだ」
やっと出せた一言は、たったそれだけだった。
それだけだったのに。
たった一言口にした瞬間、堰が切れたみたいに感情が溢れた。
「怖いんだよ……」
視界がじわと滲む。
……情けない。
本当に情けない。
二十歳にもなって……好きな人の前で泣いて。
それでも止められなかった。
「動けなくなるのも、一人で歩けなくなるのも、何もできなくなるのも!」
違う。
本当に怖いのは……そこじゃない。
「でも、一番怖いのは」
美咲の顔を見る。
涙でぼやけて輪郭しか分からないけど、そこにいるから……伝えなきゃいけない。
胸が痛い。
それでも言わなきゃいけないんだ。
「美咲の人生を壊す事なんだ」
美咲が息を飲む。
俺は続けた。
「……美咲には、最初に言うつもりだったんだ」
これは嘘じゃない。
本当にそうだった。
診断された日。絶望に頭を殴られ、目の前が真っ暗になった時、真っ先に美咲の顔が浮かんだ。
でも伝える為に調べれば調べるほど。
知れば知るほど――言えなくなった。
「介護とか、余命とかそういう言葉ばっかり出てくるんだ。酷いよなぁ」
無理やり笑おうとした。
でも、失敗して……情けないくらい汚い顔をしていたと思う。
「完治とか、社会復帰とか、そんな話は奇跡中の奇跡で、悪い事ばっかり出てくるんだよ」
「普通の幸せ。それすら……得る事が出来ない。どこにも連れて行けない、一緒に走れない。子供だって無理だ。一生……俺が死ぬまで介護だけで終わってしまう。そんな未来を、美咲に背負わせたくない」
沈黙。
俺は再び俯いた。
もう、美咲の顔を見る事ができなかった。
「だから」
――言え。
ずっと考えていた事を。
ずっと言いたくなかった事を。
「俺の事は――」
でも、最後まで言えなかった。
言葉が途中で止まってしまった。
なぜなら、美咲が俺の胸ぐらを掴んだからだった。
「——ふざけないで」
震える声。
だが、悲しみで震えているのではない。……間違いなく怒っている。
「なんで」
涙でぐしゃぐしゃの顔。
でも、その瞳だけは強かった。
「なんでそうやって一人で決めるの?」
胸ぐらを掴む手が震えている。
「私の人生でしょ?」
春の風が吹く。
髪が揺れる。
涙が散る。
「私が決める事でしょ?」
美咲は止まらなかった。
「ずっと介護が必要かもしれない、手を繋いで散歩も出来ない、辛い事ばっかりかもしれない!! でもそんなの分かってるよ!」
「分かってるけど……っ!」
「それでも……!」
俺の胸ぐらを掴んだまま、美咲は泣きながら叫んだ。
「勝手に私の気持ちを決めないでよっ……!」
その言葉に俺は何も返せなかった。
返せる言葉なんて一つも持っていなかったから。
ただ。
気付いてしまった。
俺はずっと美咲のためだと言いながら、本当は……彼女から拒絶される事が怖かっただけなのかもしれない。
病気になった俺を見て、がっかりして離れていく未来が怖かった。
だから先に諦めようとしていた。
その事実が……何より痛かった。
美咲はそんな俺を見透かしたみたいに涙で濡れた顔のまま小さく言った。
「……ねぇ」
震えていても、確かな声だった。
「まだだよ」
「……?」
「まだ私、何も言ってないよ?」
その言葉に、俺の心臓が大きく鳴った。




