第三十一話 『願いのその先、歪んだ果て』
初めて出会った時のことを覚えている。
彼に出会って、喋って、言葉を交わしたときのことを。
『憎たらしい』
最初に彼に抱いた思い出と呼べる思い出は、それだった。
「なんでこんな場所にいるんですか?」
──うるせぇ……。
「なんでこんな美味しくなさそうなものを食べているんですか?」
──表でケーキを食べてるてめぇが聞くことか?
「寝床もボロボロ……こんなところだと腰痛めますよ? 平気なんですか?」
──平気なわけねぇだろうが。平気なふりを取り繕って、暮らしてきただけだ。
「なんで取り繕ってまでこんな生活を送る必要があるんですか? いい生活をすればいいじゃないですか」
──……それが、できねぇから惨めに、誰も気に留めねぇ……気に留めても馬の糞のような扱いしか受けられねぇこんなことを続けて──!
「なんで、できないんですか? すればいいじゃないですか。みんなで笑顔で、表に出れば──」
──…………ッ!
この会話ともいえない会話を最後に、自分は彼の胸ぐらを引っ掴んで顔に拳をめり込ませた。
何度も、何度も、何度も。
そこから先はあまり覚えていない。
ただ、自分を止めてくれた子どもたちの泣きそうな顔が目に残っている。殴った指の骨が、今までにないほど痛かったことも覚えている。
最初に拳を振り上げたときの、彼の純粋な眼差しに映る薄汚れた自分の姿を覚えている。
激情のままに、拳を振り上げた自分の姿を。
あの時、どうすればよかったのだろうと今でも考えることがある。
彼は変わった。
変わった彼は、自分の立場なんかを全部無視して貧民窟のために動いてくれた。時には子どもたちのために命をかけた。泣き合った。笑い合った。殴り合ったこともあった。彼の拳は、日々固く、強く、変わっていった。
子どもたちのために努力すること。それこそが幸せなことなのだろうと二人で語り合えた。それが、幸せだった。何にも代え難いと信じていた。
「次はどうするんだ、サシャ?」
「まだする気なの、ヴィンセント」
「当たり前だろ、オマエがオレを変えてくれたんだ」
今の自分が絶対だと誇ったように笑う笑顔を見て、疑問を抱いた。
本当に、今の君は幸せなのだろうか。
笑っている。その笑顔。その眼差しは前のものとは違う。
変えてしまった後なのだ。
自分の拳で、あの頃の純粋な眼差しを。
ただ、自分に問いかけていたあの頃を。
✝
頭の下に柔らかい感触を感じながらの起床だった。
目を開ければ、目の前には端正な顔がある。短く切り揃えた黒髪は薄暗い中でも光を存分に反射して、黒い光という相反したものを感じさせるほどに輝いている。整った鼻梁と長いまつ毛が彩る紫色の瞳は、こちらを心配そうに覗き込んでいる。
フードで顔全体は見えないものの、それがまた不完全な美として機能しており、想像の余地を存分に働かせていた。
「……大丈夫、ですか?」
鈴の音に、凛々しさも伴ったような、そんな声がこちらにかけられる。
思わず、彼──サシャは訊ねていた。
「キミは、僕たちの勇者……なの?」
目の前の人物がかぶりを被って少しだけ考えると。
「わたしが、あなたたちの勇者になります」
「…………よかったぁ」
自分から無意識に溢れた声に一瞬驚き、そして、安堵するように笑う。
その人物の名前は、ユーリ。
セントがひょんなことから連れてきた協力者だ。そして、今セントを助けるために自分の全てをさらけ出さなければならない相手でもある。
そんなユーリの傍らには、大きな背中があった。
長い時間を感じさせる背中だった。苦しみと喜びを合わせて知っている背中だった。
「ようやく起きたか。随分と疲弊していたな」
「……勇者様、まだはっきりと意識は起きてない。治癒術をかけてもいい?」
「低位の術を身体全体になじませるようにな。アトリーナから聞いているだろう」
「うん」
振り返ったその人を見た瞬間、思わず声が出そうになってしまった。短く刈り揃えた灰色の髪と燃えるようであり、静謐でもある青い瞳がこちらを見つめる。
その男は、童話で語られている人物に、とても良く似ていた。
「あら、あの子が起きたんですか? 急に現れたと思ったら急に倒れて大変でしたよ」
また、一人現れる。
琥珀色に透き通った長髪を流し、黒革の眼帯で両目を覆う少女だ。目が見えないからなのか、その人物は白杖をついて男と語り合っている。
「茶化すな、レオット。地上はどうなっている。あの精霊術師は被害を出しているのか?」
「彼ですか。街の郊外のゴミ山に陣取っていますね。相変わらず根っこや蔦は忙しいですが、被害はグレイコーデさまが算出したまででもないです。ただ──」
「ただ?」
「あの辺りは貧民窟に近いですからね。街の住民が被害に合うかは時間の問題です。確か、民間人には被害を出さないと言ってたんですよね?」
「侵食過程の精霊術師の言葉は信用に値しない。あれは【樹花精霊】の残滓の影のようなものだ。直ぐに暴走してここら一帯をやつらの領域である『樹海』に変えてしまうだろう。そうなる前に、民間人がいない地区で『処理』してしまう必要がある」
「……『処理』ですか。セント君、でしたっけ?」
「ッ!」
その名前が耳に入った瞬間、サシャはユーリの膝枕で朦朧としていた意識が覚醒し、跳ね起きた。
「あうっ」「いっ」
ユーリの額とサシャの額同士がぶつかり合い、互いが頭を抑えてゴロゴロと転がりながら悶絶する。
そんな二人を、男──グレイコーデはやれやれと呆れながら眺めて、盲目の少女──レオットは小首を傾げていた。
「サシャ、で良かったか」
「……はい、ご迷惑をおかけしました……」
「それはもう済んだことだ。今はなぜお前が地下水路にいたのかを聞きたい」
地下水路を歩きながら、グレイコーデは訊ねる。左袖は相変わらず【薪】の手が握り、ユーリはグレイコーデの前を歩いていた。
「最近行っていなかった貧民窟のほうへ行こうって、セントが言い始めて……あれ以来ほとんど小屋にこもりっぱなしの僕を連れ出したんです」
「……あれ、とは」
「勇者様」
ユーリが首を振って、サシャに続きを促す。こんな態度のユーリをグレイコーデは旅を始めてからほとんど見ることはなかった。
耳を傾ける。
「詰め所の前で急に頭を抑えたと思ったら、衛兵に斬りかかって、地面からぐねぐねしたものが生えてきて……僕、それで怖くなって……セントが地面を崩して、巻き込まれて、それで」
「大まかな事情は理解した。もう、語らなくていい。……辛かったな」
「…………はい」
跡切れ跡切れになるサシャの話を遮り、グレイコーデは低く唸る。
ユーリから話は聞いた。共に暮らしていた親友が突如として罪のない人々の殺戮に走ったのだ。衝撃は想像に難くないだろう。
「セントと仲間だったらしいな。なぜセントはあのような精霊に身を捧げたんだ?」
精霊という存在は偶然に出会うものではない。強い願いが世界に刻まれるほどのものになったとき、そこから這い上がってくるのが精霊の子だと伝承では言われている。
仮に強い願いを抱いたとしても、都市のなかで出会うものでは決してない。精霊は魔力の豊潤な地を好む。
険しい霊峰の頂、深い樹林の最奥、燃える坑道の深淵などがその例に上がる。
大自然を統治する力の主。外なる世界から来訪し、生物種を造り出したのが神だとすれば、内なる世界から星を維持してきたのが精霊だという。
「【樹花精霊】など……エルダルクの深林でしか見たことはないぞ」
今回セントが身を捧げたと思われるのは【樹花精霊】の欠片の影だ。大海の一滴が反転した影のようなもの。それだけで都市一つを覆えるほどの力を精霊は持つ。
そんなものと契約した子どもが、なぜこのような交易都市に突如として現れたのか。
「何かを言ってはいなかったか? セントという少年は、力を得る前にお前に伝えてはいなかったか?」
「……わからないです」
「ならば、強い願いなどに取り憑かれてはいなかったか?」
願いという言葉を聞いた瞬間、ぴくりと反応する。
「……セントは、弱い人が弱い人だと決めつけられる、そんな世界を変えたいって……言っていました」
空気が沈黙に沈む。
やがて、グレイコーデは呟いた。
「それがセントの願いの根源か」
「『弱者が弱者であると決めつけられる世界』、ですか。……それは統治に対する挑戦ではないですか? 統治貴族が殺されたタイミングでの衛兵の大量殺害。明日には冒険者組合と教会の条約が結ばれ、新しい統治体制が生まれます」
「まさか、式典の会場を襲うつもり……!?」
「可能性としては大いにありえます」
テロリスト。アーシュトメリアで定義された『暴力によって訴えを通そうとする者』たち。
セントはそんなものに成り果てている。
「あいつは衛兵を大勢殺したんだ。すでに戻れないところまで来ている」
「……そんな」
どしゃりと崩れ落ちるサシャ。その肩はガタガタ震え、目は怒りに釣り上がっている。細木のような印象を受ける少年が浮かべる表情としてはあまりにも似合わなかった。
そして、直感的に理解する。
この表情こそが、『本来の彼』であると。
「……ッ、なんで、ヴィンセント……なんでだよ……ッ! 僕が変えちまったからか!? あの時、しゃしゃり出てきたてめぇを、お帰りくださいお坊ちゃまって、愛想笑いで手を振れば良かったってのか、なぁ!!」
「サシャさん!」
ユーリが慌てて駆け寄ると、サシャはグレイコーデの足元に取り付いて見上げてくる。その目は刃物のように鋭く、そして脆かった。
「教えてくれ、おしえてくれ、おしえてくれよ! 僕はどうすれば良かった!? どうすれば良かったってんだよ!! 伝説の勇者なら分かるだろ、おしえてくれよ……僕は……どうすれば……」
グレイコーデが伝説の勇者であるということ。それを恐らくサシャは知らないだろう。童話や物語の挿絵と目の前の人物を重ね合わせているに過ぎない。
だが、虚像を通して目に映っているのは本人その人だ。ならば答えるしかないだろう。
サシャの望み通りに。勇者の答えを。
「俺には分からない。お前たちの過去も、未来も、何も分からない。分かるのは今だけだ。お前は諦めて、セントという少年は復讐しようとしている。俺たちは、そんな時に巻き込まれた。ただそれだけだ」
「なんだよ、それ……そんなの答えじゃない……」
「──ただ、一つ。どんなに愚かな手段であっても、セントはお前と共に暮らせる世界を願った。それだけは忘れるな。彼を責める前に、それを思い出せ。そのうえでセントを責めろ。お前に責める資格があると思うのならば」
サシャは俯く。地面を掻く爪は元々ボロボロだったのがさらに強い力が込められたことで、細く割れてそこから赤い血が滲み出ている。
「俺たちはこれからセントを処理する。セントは危険だが、内に宿ったモノはさらに危険だ。街を守るために、セントを殺すことも辞さない」
「そんな……こと」
サシャはユーリの顔を見るが、ユーリはフードを目深に被り、顔色を伺わせない。グレイコーデはユーリに説明したからだ。これから挑む相手は大自然の化身そのものなのだと。人助けをする余裕はないのだと。
すでにアレは『セント』ではなく、『災害』そのものなのだ。
「責任を感じているな。お前たちの過去は分からない。だが、セントをテロリストにした原因の一端は自分にあると思っている」
「……ああ」
「ならば共に来い。それが真実か否かなど、お前の心には関係ないのだろう? 向き合わなければ、一生その棘はお前の心に刺さり続ける。……自分の心の棘を抜け。それがセントにお前が出来る最後の手向けだ」
「……ッ」
くたり、とグレイコーデに縋りつくサシャの力が失われた。ユーリが脇に寄せて介抱する。
「行くぞ」
ふと、靴を見る。
グレイコーデの革靴には、子どもたちの悲鳴の残滓が弱々しく刻まれていた。




