隙照らせ故意の月
「えっ。あのドラゴン、リーシュアさんが眠らせたんですか」
「……ノガルドだけど。うん」
丘と丘の間を縫うようにふたりは歩いていた。ノガルドは頭も目も悪く、丘の間を歩いているのは決まってわざわざ空から降りてきて攻撃するに値しない虫だと考えているのだ。それをリーシュアから聞いたとき、明は耳を疑った。
「えっ。あれはドラゴンじゃないんですか?」
また、彼女があのノガルドを眠らせたことも聞いた。知らずしらずのうちに命を救われていたことを知り、ますます明はリーシュアへ感謝した。
「いや本当に……あの、何と言ったらいいのか……」言葉に迷う明に、リーシュアは「べつにいい」とだけ言った。
魔法が存在しているなんて。ドラ……ノガルドもいるし、いよいよ自分は別世界に迷い込んだのだな。明はそう確信せざるを得なかった。もしかしたらアフリカかどっかかもしれないと、目覚めたときにはそう思っていたのだが。
しばらく黙ってリーシュアの後に続いていたが、ひとつ思いついたことがあった。
そうだ、これまでの経緯をリーシュアに話してみよう。きっと今よりは、わかっていることが増えるはずだ。
「……べつの世界?」リーシュアがこちらを向いた。微妙に表情が変化したように見えるけど、たぶんわたしの気のせいだろう。
「そうなんですよ。なんかそこで死んじゃったみたいで……転生? っていうんですかねこういうの。なにかご存じじゃありませんか?」
「……たまにあるみたい。それしか知らない」そう言うと、また彼女は前を向いた。
……そうそう、別世界と言えば気になることがもうひとつ――
「どうして言葉が通じるんですか?」
同じ国に住んでいたって、言葉が通じにくいことは多々ある。国が違うともなれば、おのれの言語野の貧しさを痛感せずにはいられない。ましてやここは異世界。わたしが暮らしていた元の世界とはまったく違う言語が、まったく違う形で発達していたっておかしくないはず。にもかかわらず、わたしは彼女が話す言葉を理解し、彼女もわたしの話す言葉を理解している。これはどうしてなんだろう。
明の疑問に、リーシュアは右手を差し出すことで答えた。いままでは気づかなかったが、薬指に指輪がはめられていた。「これは……」ただひとつを除いて装飾はないペールオレンジの指輪で、そのただひとつの装飾というのは宝石がはめられていることだった。その宝石は透きとおっていて、淡い緑色をしており、太陽の光を受けるたびきらりと輝いた。「きれいですね」
「……自分の言葉が相手にわかるようになるし、相手の言葉もわかるようになる……人間相手限定」
「……すごい」それしか明には言えなかった。たしかにここは異世界のようだ。
必要なことを教えてくれるとき、明が質問をしたときを除けば、リーシュアは無口だった。どうして彼女がこの草原にいたのか質問してみた。「……たまたま」と彼女は言い、それ以上は何も言わなかった。聞いては失礼だったかと明は思い、話を変えようと草原について質問した。この草原――ウラク草原というらしい――はあのノガルドの縄張りだとか。だからわたしを見て不機嫌な顔をした(ように明には見えた)のだろう。しかしそれなら――
「この先に町があるんですか……あんなド、ノガルドが飛んでいるなら、その町も危ないんじゃ……」
「……草原の先にあるから。だいじょうぶ」それだけ答えると、またリーシュアは口をつぐんだ。
「~の」先、とだけ言われたときには、気をつけよ、「すぐ」先と言われたわけではない。当然のことだと思うかもしれないが、しかしたいてい言われてもいないのに「すぐ」先だと思い込んでしまうものだ。そして明も、その例に漏れない考えの持ち主だった。
青い空が次第に赤く染まりはじめ、それはこの日の太陽の出番が終了したことを意味していた。明が元いた日本では、たとえ夜中だとしても、一寸先も見えぬ闇を見ることはなかなかない。なにかしらの明かりがついているし、それが消えることはほとんどないからである。しかしここは異世界で、加えて言うとそこら中に常夜灯が設置されているわけではない異世界だった。そういうわけで、太陽が退場し、星を引き連れた月の出番が来て、「こんばんは」と眼下の観客にあいさつをしたとき、明とリーシュアはかなり深い闇につつまれていた。月と星明りがあるとはいえ、元いた世界の夜を照らす電気と比較するとずいぶん心もとなかった。
リーシュアがなにも言わないため、べつになにも問題はないのだと明は思っていた。彼女の歩みはずいぶんと自信を持ってなされているように見えたからである。地図のようなものも一度たりと確認せず、迷いなく進んでいた。だから彼もいままでは沈黙を守っていたのだが、さすがに不安になってきた。日が沈む前には町に到着すると思っていた。彼女はたしかに「この草原の先」と言ったのだ。そこに町があると言った…………あっ。そうか。
今更ながら彼は気づいた。先述したように、「~の」先と「すぐ」先とは大きく違うのだということに。
「あの……」しずしずと、明はリーシュアに声をかけた。
「……なに?」
「あとどれくらいで町につくのでしょう? だいぶ暗くなってきましたし(彼のこの発言は間違いだ。すでに辺りは十分暗かった)……」
リーシュアはなにも言わず、ただ杖を振り上げ、振り下ろした。
するとたちまちにして、テニスボールくらいの白い光を放つ光球がふたりの間に浮かんだ。
「わぁすごい。これも魔法ですか?」感嘆する明の声。
「……そう」落ち着いたリーシュアの声。
「でもノガルドに見つかりませんか?」
「……夜は寝てる」
「あ、そうですよね……」
リーシュアは鞄を探り始めた。まもなく、きちんと折りたたまれた一枚の紙を取り出した。彼女が広げるとそれは格段に大きくなり、表にはなにか図形や線やらがびっしりと書かれていた。明にもそれがなんなのかはすぐわかった。
「……地図ですか」
「そう」
光球の下で地図を広げ、しばらくそれを見つめてから、彼女はひとことだけつぶやいた。
「……まよった」




