無尽の広野
「あれえ?」さっきまでそこにあったはずなのに。
広くも狭くもない……いや正直言ってかなり狭いリビングに白いテーブルがひとつ。その上にあるのはぐしゃぐしゃの新聞、髪がからまりまくったくし、先がまっすぐなフォーク、汚れた皿、割れたコップ、辞書、いくつかのティッシュ箱、蝿の死体、その他もろもろ。しかしひとつ、無いものがあった。
テレビのリモコンは?
まあそのうち見つかるか。よくあることだし。それよりも――
「もー」またお皿がそのまま。食べたらちゃんと流し台に出してっていつも言ってるのに。
明ったら。
失くしものの行方とは? たいていはまだ探していない場所にある――爪の間とか、尿道とか。しかし、人生をなげうって探しても見つからないことがある。なにゆえそのようなことが起こるのか? その理由はカブトムシにも理解できるほど簡単かつ単純かつ明快で、「穴」を通過するためである。ご存じの通り、この世界は「穴」だらけで、しょっちゅうそこになにかが落ちている。しかしそれが社会を騒がせることは無い。たいてい「穴」はアリの消化器官ほどにも小さく、目に見えず、わずかな瞬間にしか空かない。当然人は通り抜けられないし、たまに通り抜けられるとしても小物だけだし、通り抜けられる小物の紛失を「此は大事なり」と言って大いに騒ぐ人は通常狂人と見なされ殺されるから、話題にならないというわけである。
その点から言うと、明は実に幸運だった。どのくらいの幸運かと言うと、家の窓から石を投げ、それが南極にまで届く確率に等しい。すべてはわずかなタイミングの間に起こった出来事だった。たまたま「穴」が出現し、それがたまたま人ひとりならギリギリ呑み込めるほど大きくて、たまたま明がそこに飛びこんだ。あのマリオネット達はそのとき空間がきしむ、恐竜の断末魔のような大音量を確かに聞いたが、単にヒト科と大型四輪の衝突音だろうと勘違いしていた。
「穴」の先になにがあるのかという問い、これに答えることは非常に難しい。というか、そもそもはっきりした答えなどない。その先は空間、時間、現実すらも飛び越えたありとあらゆる場所につながっており、便器の中から宇宙の裏、路地裏の角から次元の先すらも対象にとる。そのためここへ飛び込んだ失くしものが戻ってくることはほとんどない。つまり、明も元世界へは帰らぬ人となる可能性がかなり高い。
でもまあ、生きているのだからよいではないか。
どんな場所につながっていようとも。
どこか遠くの国、だれにも知られぬ森の中、これまただれにも知られぬ美術館がぽつねんと佇む。
いかなる植物図鑑も掲載をためらうような木でこしらえたドア。霧をかき分けその前に立つ。
巧みな配色がなされ、陰影すらひとつひとつに目を止める価値が生まれた。
で、それとは比較にならないほどここは美しかった。
それほどに美しかった。
なだらかな丘が数限りなく配置された地面は鮮やかな緑色の芝におおわれ、そのひとつひとつからほとばしる活力の香りが空気を満たしていた。雲ひとつない済んだ水色の空に堂々と浮かぶ太陽はくまなく日を降らし、その恩恵にあずかる草々は風が吹くたび反射光の波を立てた。
そんな広野の真ん中に、ひときわ大きな丘があり、ただ一本小さな木が生えていた。
居心地悪げなその木の根元に、まったくなにがなんだかわからないという顔で立つひとりの青年がいた。
ひとりの青年は白崎明といった。居眠りかつ飲酒運転のトラックに吹っ飛ばされた一八歳の大学生である。
「気がつくとまったく知らない場所にいた人」にふさわしい態度でもって、あたりをきょろきょろと見まわす。草原はどこまでも続いているように見えた。なんとなく解放的な気分を感じ、顔を下に向けるとその理由がわかった――おぉ! 一糸まとわぬ我が身かな……いやいや。
なにゆえか、明は裸だった。だけどあまり悪い気はしない。旧約聖書の二ページ目っぽい場所にいるからかな? 彼の脳は未だ興奮して跳ね回るシナプスに鞭打って整列させ、なぜ明が大草原の真ん中で全裸なのか、それにまつわる記憶をはじき出すよう命じた。
車にぶつかったような気がしたんだけど……じゃあここは天国なのか? ……だれもいない。わたしのおじいちゃんすらいないじゃん。
みんな地獄行きか。
明はこのとき、三つの勘違いを犯していた。一つ、死んだ自分の親戚はみんな地獄へ行ったのだと思っていること。二つ、自分は天国に行けると思っていること。三つ、ここが天国だと思っていること。この場合、より深刻な勘違いだと言えるのは三つ目だった。
ある場所に、動いているやつがまったく見当たらないとき、理由はいくつか考えられる。そしてもっともありがちな理由は、その場所がとてもとどまってはいられないほど危険であるというものだ。
危険と一口に言ったって、その種類はあまりにも多い。足の踏み場がないほどだれかのゲロで埋め尽くされているとか。明がいる草原の場合はどうなのかと言うと、それは簡単な実験で示すことができる。
まず、駅へ行く(なるべくたくさんの人が集まる駅が好ましい)。駅に着いたらプラットフォームへ入り(ちゃんと切符は買うこと)、だれも並んでいない乗車口へ行く。そして大声かつ不機嫌そうにひたすら独り言を言う。後ろにだれも並ばなかったら実験は成功である。
この実験からは「危険そうな生物がいる場所にべつの生物は近づかない」という結果が得られる。そして明のいる草原も、まさしくそうであった。
突然、巨人がちりとりにごみを雑に掃きこんでいるような音が聞こえた。明はぎょっとして、どこから音が聞こえるのか確かめようとした。しばらくすると親切にも、大きな影が明を飲み込むことによって教えてくれた。
上を見た明は、一瞬自分がなにを見ているのかわからなかった。だからまた前を見て、それからもう一度上を見た。自分の見たものに間違いがないことを確認すると、彼は安心して、弾かれたように走り出した。
十八年生きていると、いろいろと嫌なことがあるものだ。そのなかでも、自分の頭上にドラゴンがいるというのは、かなり衝撃的な嫌なことだった。
明が見たのは、石のようなうろこに覆われ、ショベルカーのようなかぎ爪、オペラハウスのような翼を持ち、鷹のような目でにらむ、空飛ぶ火炎放射器――「ドラゴン」ではない。明はもちろん知らなかったが、いま彼の頭上に現れた生物はこの世界において「ノガルド」と呼称されている。ドラゴンとは違うざっと数えても百個ほどの特徴を持つが、いまの明にとってはあまり関係のない話だった。
ドラゴン(実際にはノガルドだが)の顔など明には見分けがつかないが、かなり不機嫌そうであることはわかった。走り出したはいいものの、まわりには隠れる場所もなにもない。しかしそれでも走らずにはいられなかった。広い草原でノガルドとふたりっきりなど、だれだって精神が持たないだろう。
ふいに背中に熱を感じた(地肌なのだからなおさらだ)。反射的に振り返ると、すぐ後ろの草が黒焦げになっていた。口から灰色の煙を出しているドラゴン(ノガルド)を見て察するに、どうやら炎を吐いたようだ――そりゃ吐けるだろうとは思っていたけど、べつにいま教えてくれなくなっていいのに!
「善人、天使がいるかと思えば――」明の真横の草が焦げた。
「怒りまくった竜が一匹――」翼の羽ばたく音が嫌になるくらい大きくなった。
「あああああ!」優雅な遺言の制作にさじを投げ、とにかく明は足を動かし、またひとつ丘を登った。で、かくのごとく必死に走っている者にはままあることだが、明は派手にすっ転んだ。ごろごろと丘を転がり下り、ようやく止まって目を開けたときには、ドラゴン(ノガルド)の頭が視界に広がった。
爪か? 牙か? それとも炎か? 空に運ばれて地面に叩きつけられるのか? それはいやだな。まあいやって言うなら全部いやなんだけど。
いまの明の最大の関心事は自分の死因だった。
走馬灯は最後まで見られなかった。
なにしろ、彼は引き裂かれもかみ砕かれも焼き焦がされも叩きつけられもせず、自分の死因以上に予想しがたい要因によって救われるのだ。
【無尽】――むじん
実際のところ、本当に無尽なわけではない。
【神】――かみ
実際の天国とこの草原の美しさは甲乙つけがたいようだ。天国の美しさは筆舌に尽くしがたいが、美しさとして人がいっぱいなのとシバがいっぱいなのとでは、後者のほうに軍配が上がる。
【草原】――そうげん
ここに生えているのはゲキレイワヨウシバである。この草は非常に前向きな性格であり、黒焦げにされてもすぐに生え変わる。暑さ、寒さにも強く、この世界で最後に残るのはこの植物だと言われている。
【百倍】――ひゃくばい
著者比。
【太陽】――たいよう
たまには昇るのを休みたいなあ、と思っている。もし本当に休んでいたら、明はどんな理由にしろもう死んでいただろう。
【シナプス】――synapse
明のそれはもっぱら妄想についやされていた。
【木】――き
これはアントウヒという。非常に背が低いのが特徴である。
【おじいちゃん】
彼が本当に天国に行ったのかどうかは議論の余地がある。
【親戚】――しんせき
彼らが本当に天国に行ったのかどうかは議論の余地がある。
【実験】――じっけん
これを行ったことによりなんらかの損害を被ったとしても、作者は一切の責任を負いません。
【巨人】――きょじん
ビル五階分ほど。
【安心】――あんしん
明は自分の目がおかしくなったのではないかと心配していた。だから目の前に確かにドラゴン(繰り返すが実際にはノガルド)がいることがわかると安心したのだ。安全かどうかはともかくとして。
【ノガルド】――nogard
ドラゴンとそっくりな飛竜。だが違う特徴がいくつもあるため、それを知っていれば見分けられる。とても全部は紹介しきれないから、ただひとつのみを記す。
・ドラゴンの耳垢は乾いており、ノガルドの耳垢は湿っている。
ほかのもっと重要な違いについては、またおいおい。
【走馬灯】――そうまとう
明は見なかったが、見たとしても彼の人生の密度ではCMなみの短さになっただろう。




