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中 愛しい人

 出会ってから一月が過ぎていた。毎週末、河畔に来ることが習慣となっていた。季節は夏祭りも終わって、盆を過ぎ涼しくなっていた。

「仕事はどう?」

「まぁまぁかな。納期が近くて最近突貫工事。親方と社長がこれが本当に最後の納期だって言うんだから、マジだな」

 まるで作家の締め切りみたいだが、鉄工所など締め切りがある仕事はどこもそんなものだと思った。

「今回間に合わなくなるとどうトラックをとっても室蘭からの船が取れなくなるらしくってさ、やばいらしいよ」

 くすくすと姫流(ひめるが笑ってくれる。

「なんで人間って、こうなるまで頑張れないんだろうな。こうなるとまずいってわかってるのに」

「そうね。終わりという実感が近づかないと、人ってどうしても頑張れない。そんなものじゃないかしら?逆に終わりとか、明確な何かがあれば、頑張れると思うわ」

 姫流が少し遠い目をした。

 それだけで俊は、姫流がまた前の男のことをまた思い出したのかと心がかき乱される。

「休日出勤は大丈夫なの?」

「勘弁してくれよ。この不景気に仕事があるのはいいことだけど、最近帰るの10時過ぎてるんだぜ。肉体労働系でこれは辛いって」

 どんなに夜帰るのが遅くても、次の朝にはすぐに仕事だった。

 仕事がなくて干されているこの時代では、きちんとした給料、残業代も出るから遥かにいいとはわかっていても辛い。

「最近じゃあ、稼いだ金を使う暇もありゃしない」

 俊は大して贅沢をしなかった。

 着るものも外出用に何着かある程度。あとは作業着と部屋着。

 趣味で昔は本をよく読んだものだが、社会人になってからは読む量がめっきりと減っていた。

 給料が残業代含めて多くなったことやボーナスが出たことと、芳枝と別れて贅沢をやめたことが相俟って急速に懐は暖まりだしていた。

 正直この年齢の1人暮らしでは十分すぎた。

「それはうらやましい限りね。私のほうはたいした仕事もないから、給料もそこそこよ」

 俊は姫流が何の仕事をしているかは知らなかった。別に知らなくてもいいことだと思っていた。

 もしも話したいなら、姫流のほうから言うか、聞いて欲しそうな言い方をするからだ。

「まぁ、今の時代そんなもんだよな。特にこの町じゃあ」

 夕日が綺麗な、落陽の町。かつては炭鉱で賑わい、漁業で賑わった。

 しかし、炭鉱が廃れ、漁獲量が落ちて、人が減った。今となっては人口も20万を下回ってしまった。

 平成の大合併とやらで地方と合併しても、なお20万人いくことはなくなってしまった。そんな町だった。

「寂しい限りだな。まぁ、啄木とかもかつては最果ての町と詠んでいたから、それにくらべればいくらかましなんだろうけど……」

 そんなもんだよな、と俊は笑う。

「さいはての駅に下り立ち 

 雪あかり

 さびしき町にあゆみ入りにき」

 姫流が詠う。

 最果ての町。落陽、落日の町。

 でも、確かに町は存在して、自分達はそこで生きて、生活しているのだ。

「なぁ、姫流」

 会話が一区切りして、空白が出来た。

 それで俊は決心がついた。姫流が空気を察したのか、何?とこちらを振り返ってくれる。

 大切な話や、聞いて欲しい話になると敏感に察してくれる。

「姫流、俺さお前のことが好きなんだ」

 色々台詞は考えた。でも、結局出てくるのはこの言葉だった。

 もう少し飾ったり上手く言えればいいのに、俊は直球勝負しか出来なかった。

 俊は姫流の悲しい思い出の地で告白することを決めていた。

 この地をこの夕日が綺麗な川岸を、姫流にとっていつまでも寂しい場所にして欲しくなかったから。

 もしも、自分と付き合ってくれるのなら、この場所は自分との出会いの地であり、出発の地となるのだ。

「やっぱり、そうなっちゃうだ。そうだよね・・・」

 寂しげに笑う姫流。

 姫流にとって自分はあくまで友達という男女の間以外の仲になりたかったのかと思った。

 俊が何かを言うより先に姫流が立ち上がる。

「きっと、こうなるんだって思ってた。一番最初の夜に出会ったとき。酔いどれの俊が私を観測して声をかけてきたその時から」

 そう言いながら一歩先に踏み出した。

 その先は川である。

 俊は慌てて姫流に手を伸ばそうと腰を上げようとした。

「待てよっ姫流。待て、何をする気だ」

 しかし、指一本動かなかった。

 何故かはわからなかった。金縛りにあったようだった。

 全力で姫流に向かいたくとも、指一本動かないのだ。

 ふっと姫流の紅い下駄が岸から離れる。

 

 落ちた。


 俊は早く溺れる前に助けなくてはと焦る。

 しかし、姫流は落ちなかった。水面の上に当然のように立っていた。

「河姫って、知ってる?私ね、人間じゃないんだ」

 何を言っているのか、わからなかった。

 だが、確実に姫流はどんな手品か水面に立っており、紅い下駄が水面に沈むことはない。

 その姫流の姿だけが俊の目に強烈に映る。

「私は男の精気を吸う化物なの。男の好意を引いて、精気を貪る化物。俊は選ばれちゃったんだの。私に……」

 悲しげな姫流。泣きそうに見えた。

 姫流の傍に行ってやりたかった。

 だが、体は相変わらず動こうとはしない。

 俊は動け、動けと必死で体に命令する。

「駄目だよ、俊。そこで止まって。まだ、引き返せるかもしれない。私は、化物なんだよ。人間じゃないんだよ」

 関係ない。

 俊はその一念で動こうとしていた。

 今思えば最初に会ったあの日、姫流は何と言った。「見えちゃってるんだ」と言っていた。

 おかしいと、どうして思わなかった。

 姿もいつも同じ。

 それでも気にならないほどに、既に姫流に惹かれていたのだ。

「私と一緒に居れば、俊の寿命は確実に縮む。私はもう、愛する人を失いたくないの。わかって・・・」

 金縛りが解けた一瞬で、俊は弾かれたように、飛びつくように立ち上がる。

 そして姫流を抱き寄せ、抱きしめた。

「嫌だ。絶対に嫌だ。俺は、俺は……」

 見上げる姫流の瞳は濡れていた。

 自分が濡らしてしまっていた。

 その涙を拭ってやりたかった。舐め取ってしまいたかった。

「駄目。俊、わかって。駄目なの……」

 俊には姫流が拒絶ではなく、ただ叫んでるだけだと思えた。

 だから、無視して強引にキスをした。

「馬鹿。どうして、どうして私の前に現れるのは馬鹿ばっかりなの。もっと酷い奴はどうして現れてくれないのっ」

 額を胸板に押し付けて、泣き叫ぶ姫流。

 諦めたように、そう叫びながら腰に手を回してくれた。

「覚えておいて。私と離れられるなら、その時はすぐに離れて。私はあなたを殺したくない」

「今の俺の気持ちも覚えておいてくれ。俺の血が、俺の肉が、姫流の糧になるならかまわない」

 小説の主人公にでもなった気分で、俊はそう言った。

 かなりくさく、言いながら恥ずかしくなるくらいだった。

「大馬鹿」

 姫流の涙を止めるすべを俊は持たなかった。

 だからただ、泣き続ける姫流にその胸を貸し続けるのだった。



 世界が開けた。俊はそんな気がしていた。

 実際仕事も上手くいくようになった。先輩からはやけに力が入っているなと笑われた。

 当然だった。姫流が居てくれる。

 ただ、それだけで世界が開けた気がしていたのだ。

「河野っそこグラインダー(研磨)かけたら次、親方のとこ行って仮止めさせてもらって来い」

 仕事は相変わらず忙しかったが、生き生きとしていた。

 精気を吸われるなんてことはない、と否定したいからかもしれなかった。

「わかりましたっ」

 溶接機やグラインダーの音が酷い工場では、声をかけるのも叫ぶようにしないと聞こえない。

 元気良く答え、俊は黙々と目の前の仕事を片付けていく。

 そうしているうちに午前中の休憩時間が来て、先輩が声をかけてくれた。

「河野、休憩だ」

 何時ものように仕事の話をしながら、みんな缶コーヒーを飲み。タバコを吸う。

「この納期終わったらまだ次がある。社長も仕事持ってくるの良いけど、オーバーワークっすよ」

 先輩の工藤がそう漏らす。俊もそう思っていた。

 会社自体がオーバーワーク気味ではあった。

「ここで下手に断って仕事減らすと、次は俺たちが減らされるぞ」

 笑いながら工場長が言う。確かにそうなのだ。

 俊の会社は納期をぎりぎりとはいえいつも守っていた。だから仕事はき続けている。

 社長の無茶は今に始まったものではないと、周りの人間も言っていたし、社長の無茶があったからこの会社はここまで大きくなったとも言っていた。

「そう言えば河野お前、芳枝と別れたんだってな」

 タバコを吸いながら工藤が少し笑っていった。

 工藤の知り合いからの伝手で付き合っていたから今更になって情報がいったのだろう。

 工藤は俊を可愛がってくれていた。

 親方に怒鳴り散らされているところを助けてくれたり、女の面倒を見てくれたりしてくれた。

「はい。でも今代わりじゃないですけど、地方の従妹が来てるんですよ」

 工藤がほっとしたのがわかった。

 気にかけてくれていたことに俊は嬉しい気持ちがあった。

「あれ?お前親戚って誰も居ないんじゃあ・・・」

「父方の爺様の、前の奥さんの息子の娘で・・・」

 付き合っている女としないでほしいと、姫流から言われていた。

 だからこんな微妙な説明になっていた。

「ほーん、なんだ綺麗な娘か?」

 工場長がにやにやと笑って言ってくる。

「ええ、いい娘ですよ。大学卒業したらこっちに戻りたいらしくくて。そいつの親父さんも死んで母子家庭なんで、なるべく近くに居てやりたいらしいんです」

 からかう気だったようだが、俊の話を聞いてその気をなくしたようだった。

「大丈夫ですよ。女の有無が仕事に影響したなんてわかったら、親方と工場長にぶち殺されますからねぇ」

 確かに、と皆が笑う。 充実した日々だった。

 精気を吸われているなんて、信じられなかった。

「俺は見たんだよ、こいつ最近なに飯こそこそしてるのかと思ったらな、手作り弁当食ってやがったんだ」

 親方が笑いながら言うとみんなに囃し立てられる。

 休憩時間が終わるまで、笑いが耐えることはなかった。





 9月の1週目の週末。町の祭りだった。渋る姫流を引っ張り出して、俊は楽しんでいた。

「お祭りも、随分小さくなったものね」

「港祭はなぁ・・・。俺の世代でも知ってるよ、昔は駅前大通り歩行者天国にしてたもな」

 それに比べたら、遥かに祭りの規模は小さくなっていた。

 まるで、町と同じようだと思ってしまう。姫流はずっと川岸にいたらしく、その当時のことを良く知っていた。

「あの頃は賑やかだったわ。若い人たちはみんなここら辺で遊んでた。いつからかしらね、人がいなくなってしまったのは・・・」

 「まるで年寄りみたいだ」と笑うと「年寄りだから仕方ないのよ」と笑い返される。そんな話をしながら、ゆっくりと出店を覗いて行く。

「おぉ、兄ちゃんいい女連れてるね」

 たこ焼きやでお決まりの台詞。

 笑いながらも、やはり悪い気はしないのでそこで買うことにした。

「あいよっと、姉ちゃんかわいいからウィンクしてくれたら3つくらいおまけしてやるぞ」

 こっちをどうしようかと見てくる姫流。俊が肩をすくめて「好きにしてくれ」と言うと、パチリッとウィンクをする。

「っかぁ、よっしゃ男に二言はねぇ。おまけだ持ってきな」

 姫流の格好は今日は目立たなかった。

 そんな風に自然に祭を楽しんでいると、花火が始まった。

「遠くから見えていたけど、ここまでくると音が凄いわね」

 海岸まで出ていた。花火は轟音と共に一瞬の花を夜空に咲かせていた。

「腹に響く感じだもな・・・」

 そんな話をしながらゆっくりとしていた。

 次々と花火が上がる。夜空を満開に咲き乱れさせる。そしてその花も間もなく終わろうとしていた。

「次が最後の一尺玉だかっていう馬鹿でかい奴だ。本当に凄い音と衝撃が来るはずだ」

 俊がそう説明すると、珍しそうに空を眺める姫流。

 長生きしているとはいえ、やっぱり同じ場所に居続けたためか珍しいのだろう。

 ドォンっと腹がおかしくなりそうな衝撃と音。

 そして、巨大な花が夜空に咲く。

「きゃっ」

 姫流は本当に驚いているようだった。

 回りの女も初めて見に来た人は驚いているようで、やっぱり姫流は普通の女だと俊は思った。

「さて、そろそろ帰るか」

 祭りの醍醐味である花火も終わり、2人仲良く帰ろうとした時だった。

「あれ?河野か」

 先輩の工藤と会った。

 彼女である美作みまさかと一緒に見に来ていたのだろう。浴衣姿の美作が居た。

「あ、どもっす。姫流、こちら俺の会社の先輩で工藤さんとその彼女さんの美作さん。工藤さん美作さん、こいつが前に言ってた従妹の河本姫流です」

 はぁーんと頷きながらにやにやとこっちを見てきた。

「お前もやるなぁ。芳枝と終わったかと思ったらしっかりしてるな。俺も驚きですわ」

 おどけてそう言う。そんなんじゃないですよ。と笑いながら言う姫流。俊は否定されることは残念だが、そういう契約なのでそれに曖昧に笑う。

「お前、まさか手を出してないだろうな」

「出してないですよ。先輩も知ってるでしょ?俺の部屋2LDKだから、芳枝のために空けてたでしょ。丁度いいんでそこに入ってもらってるんですよ」

 そう言うと、工藤はなんともいえない顔になった。芳枝のことは、工藤にとってもいきなりのことでありどうしようもないことなのに気にしてくれているのだ。

「そっか。今日は案内してるのか?」

「まぁ、そんなところです。せっかくの祭でしょ?」

「ああ。それにしてもいい娘だな」

 じろじろと姫流を見る工藤。そんな工藤は勢いの良い回し蹴りを腹にもらった。

「ったく。女見るとすぐこれなんだから。自分の女の前で他人の女をじろじろ見ない」

 なんら悪びれる様子のない美作は、そのまま工藤を無視して歩み寄ってきた。

「私は美作理恵よろしくね」

 そう言ってにこりと姫流に握手を求める。

「河本姫流です。よろしくお願いします」

「変わった浴衣ね、けど良く似合ってるわ」

 笑顔で握手をする。美作は工藤を完全に尻に敷いていた。

 工藤が気弱なわけではない。むしろ逆に若い頃は結構悪かったと工場長が言っていた。

 それをあっさりと尻に敷く美作が凄いのだった。

「河野君、悪ぶってるけど真面目な子だから安心しなさい。あなたが困ってたらきっと助けになってくれるわ」

「美作さん、それ恥ずかしいっすよ」

「本当のことじゃない。私が断言してあげるから安心なさい」

 かなわないと俊は笑う。

「わかってます。愚直な人で、恥ずかしがり屋さんですよね」

 きゃっきゃと2人で話し出す。

 それだけで、今日祭りに来て良かったと俊は思った。

「本当にいい娘じゃないか。どうするか知らないけど、好かれてるみたいだな」

 その自信は俊にもあった。だが、それでも姫流はいつも「いつか自分から俊が離れられるように」と言って、決して彼女と称させてはくれなかった。

「そろそろ帰るぞ、理恵。あんまり邪魔するのも無粋だろ?」

「そうね。じゃあね、河野君、河本さん。楽しい夜を」

 互いに別れを告げ、別れる。

 どこか楽しげな姫流がいて嬉しかった。

「帰ろうか」

 手を差し出す。すると、きゅっと小さな手で握ってくれた。俊はそれを握りしめ、ゆっくりと家路に着くのだった。

 

 


 全てが順調だった。帰れば、いつも姫流が待っていてくれた。

 ご飯も弁当も作ってくれた。「妖怪だから食べる必要、本当はないんだけど」と照れて笑いながらも、俊が一人で食べるのは寂しいと言うと、少しだけど食べてくれた。

 こんな毎日が続くのだと、俊は思っていた。

 このままゆっくりと、姫流と過ごせるなら悪くないと思っていた。

「姫流、俺幸せなんだ」

 姫流が悲しい瞳をする。

 よく姫流はそれは自分の呪力で、偽りだと言っていた。

 だが俊にとってはかまわないことだった。

 恋は麻薬だと昔本で読んだが、今までの恋というのが本気でなかったかと思わされた。

 他の女とキスもした。体を重ねもした。緊張したりもした。

 でも、姫流といる今のような心地よさはなかった。

「どんどん、俊が離れられなくなっていく。駄目なのにね」

 姫流はある時言った。自分も寂しかったのだと。

 だから、最初に会った日から拒絶できなかったのだと。

 姫流を観測できる人間というのは少ないらしく、本当に極まれだと俊は聞いていた。

「同時に、姫流が俺から離れられなくなっていく。そうあって欲しい」

 優しく髪を撫ぜると、こっちに体を預けてくれる。

 暖かかった。

 人間と何が違うのかと思った。

 水面に立てるだけ。

 少し人を動けなくするだけ。

 俊にしてみればそれだけだった。

「前に言ったかもしれないけどさ、生まれで道が決まるなんてあっちゃいけない」

 好きな小説の一文を、思い出しながら俊は口にする。

「生まれによって苦労することも、選択肢が狭まることもあるだろう。だがそれだけなんてことは絶対ないのだ」

「吸血鬼が、クルースニク(吸血鬼殲滅者)に言う台詞ね。俊が私にもそうあって欲しいって言ってくれた」

 微笑んでくれた。それだけで、俊は嬉しかった。

「私は確かに河姫。でも、だからと言って妖怪として生きるだけが全てじゃない。そう言ってくれた。嬉しかった」

 すっと上を向く姫流。

 キスをねだる合図だった。

 ついばむようにキスをする。そんな時、俊の携帯が鳴った。

 聞きたくない音楽。メールの着信であるのはすぐにわかった。それが誰からかも。

 空気が壊されたことに若干怒りを覚えつつ、携帯を手に取る。

 メールは予想通り、前に付き合っていた前田芳枝からのものだった。

 着信音を馬鹿みたいに変えて喜んでいた自分がいたのを、思い出す。

 メールの内容は簡潔だった。

 会いたい。会ってもう一度やりなおしたい。というものだった。

 俊は無言で、今は会いたい気分ではないとそっけないメールを返す。

「どうかしたの、俊」

 微妙な空気を嗅ぎ取ったのだろう。なんでもない、と言いながら話題を変える。

「どうして、悲しいって思うの?」

「え?」

「いや、その俺の精気を奪うのがどうして悲しいのかなって・・・」

 話を変えようとしてなんでこんなことを、と俊は思った。

 そんなことは訊くものじゃないはずだと。

「例えば、例えばだよ、俊」

 伏し目がちな姫流。傷つけたのでは、と俊は心配になった。

「俊が豚を飼ってたとするよね。その子を俊は凄く、凄く可愛がってました。その子を、足一本とか、背肉を少しとか、痛みを感じさせないとして、食べられる?」

 何とも言えなかった。彼女の今やっている行為はそれなのだ。

「なのに、なのに可愛がってる豚は、どれだけ傷つけられても擦り寄ってくるの。耐えられる?」

 今にも泣き出しそうだった。

「豚、なんて表現でごめんね。ペットで、食べられるって言うので真っ先に思いついたのが、それだったの……。もちろん私はあなたを下に見てるわけじゃない。例え話だけど……」

 そんなことは言われなくてもわかっていた。

 だが、それより自分がした質問の愚かしさ。そっちに俊は腹が立っていた。

 自分から身を差し出すのだからと、果して自分が豚を飼っていて食べられるか。それは難しかった。

 食べれば食べた分だけ、豚の死が近づいていくのだ。可愛がってる豚を、死に導かないといけないのだ。

 俊を食料、そう割り切るには姫流は優しすぎた。

「ごめん姫流。でも、聞いて欲しい。俺なら、食べる。食べてしまうと思う。それしか自分が生き延びる道がないなら、そうしてしまう。俺は弱いから」

 姫流は強い。精気を吸わないという事は、死を、餓死を待つようなものだった。

 普通の神経ではそれを選ぶことはできない。それをしようと思う姫流は強いのだと俊は思った。

「でも逆も覚えておいて。俺といるのに姫流が餓死したら、立場は代わる。俺の代わりに姫流が死ぬなんて、餓死するなんて許さない。そうなったら、俺は豚は主の後を追う」

 最低の脅し文句。

 姫流が絶句しているのがわかった。

「せっかくの忠義な豚の身をただ腐らせるのは、もったいないよな」

 泣いてしまった。

 否、俊が泣かせたのだった。

 謝りながら、涙を拭ってやる。最初に会った時は神秘的だと思ったが、姫流は良く泣いた。

 現実に悲観し、絶望している。

 そして、優しいのだ。だから泣く。泣いてしまう。そう俊は思っていた。

「俊と一緒になってから、泣かされることが増えたわ。酷い人。もうずっと泣いてなかったのに」

 ぎゅっと俊は姫流を抱きしめる。

 優しく、だけどしっかりと離さない様に。

「それは、泣かしてくれる人もいなかったってことだろ。それは寂しいだろう」

「寂しいって思うことすらやめた。私に名前をくれたあの人が、死んだときに」

 姫流は昔の男の話しをした。俊が聞きたがったから話してくれた。

 戦争に行って、敗戦後すぐには戻らなかった。

 戻ってきたときにはボロボロでやせ細っていたと言っていた。シベリアに抑留されたのだと言っていたらしい。

「今は?今も、寂しいって思うことをやめてしまってる?」

「思ってない。だって俊が居てしまうから、あなたがいない昼の時間にたまに寂しくなる」

 その答えに、俊は満足した。

 自分がいる限りは寂しくないと言ってくれているのだ。それは、俊にとっては嬉しいことだった。

「ボロボロになっても、帰ってきたあの人は執念で帰ってきたって言ってくれた。私のために。そうやって、私のために生きる執念を燃やしてくれるなら。そう思った。だけど、あの人は帰ってきてからも私に精気を与え続けて死んだの。痩せた体をさらに痩せ細らせて」

 食料になるために、一秒でも姫流に長生きして欲しくて。

 その気持ちが俊にはよく理解できた。今の俊も同じように自分を捧げているから。

「そうなる前には、俊が私から離れられると良い。そう思ってる」

 さっきのメールが一瞬脳裏を掠める。

 だが、それを無視して強引に俊は姫流の口を封じる。

 それ以上は言わないで欲しいと。

 自分は決して離れないと意思表示をするのだった。




 姫流は昼も俊の家に居るようになっていた。

 川岸で待つ人もいなかったからだ。

 他に待つ人が居る喜びを姫流は感じていた。それが愚かで酷いことだと思っていても。

 最初、姫流が部屋に来たときあまりの汚さに驚いた。

 積み上げられた弁当のから。カップラーメンとかも食べたら食べっぱなしで積み上げられていた。

 働いている男の1人暮らしなんてそんなものなのかと、一生懸命片付けた。

 俊の言い訳によると、彼女と別れてからは掃除をすることも稀であったし、休みの日は姫流に会いに来ることが多く、部屋での生活は荒れていたらしい。

「全く、食べたら食べっぱなし。だらしがないんだから・・・」

 食器洗いをして、掃除をして、洗濯をして。そんなときだった。

 チャイムが鳴った。

 姫流はチャイムには出ないことになっていた。

 姫流自身がそれを望んだからだ。

 鍵の開く音に、姫流は驚いた。

 最初は盗人かと考えたが、とりあえず人に見えないようにする。

 そうすることで俊以外には観測されないようになる。

「あら、思った以上に片付いているじゃない」

 女性の声だった。

 最初は家族かと思ったが、俊は天涯孤独の身だと言っていた。誰だろうと訝しむ。

 部屋のドアが開いた。見たことのある女だった。

 片付けた際に写真が出てきたのだ。俊の元彼女だと、姫流と初めて会った日に別れた女だと俊は言っていた。

「本当に意外ね。私がいきなり来たときは大体汚れていたのに・・・」

 そう言いながら部屋を見渡す。色々見て回っていた。物取りというわけではなさそうだった。

「この皿も、このカップも、ちゃんと使ってるわね」

 それは俊が捨てようといったカップや皿だった。

 その女性が確認するので、何となく姫流にはわかった。彼女が何の用件でここに来たのか。

 悲しいと同時に嬉しいと姫流は感じていた。

 自分に狂わされる前に、取り殺される前に、違う女性と。そう姫流は願い、思っていたのだ。

「そっけないメールだったから、本気でもうさよならかと思ったけどよかったわ」

 そう言って、笑った。それを聞いて姫流は自分の考えが間違えていないということを確信する。

 同時に昨日来た、いつもと違う音のメールはこの女性からなのだとわかった。その直後から俊から発せられる空気が変わったから。

「まぁ、今日はそれがわかっただけでもいっか」

 そう言いながら、女性は帰っていく。

 その背中に姫流は確かな希望を感じていた。

 豚が自分から擦り寄ってこない。それは別の主人を見つけるということを意味している。それに、希望をもったのだった。




 部屋に帰ると何時もと空気が違うのを俊は感じた。姫流はいつも通り迎えてくれるが、どこかぎこちないような、違和感が付きまとっていた。

 自分が汗臭いせいかもしれないと、風呂に入るがやはり姫流の態度は変わらなかった。

「ねぇ、俊。真剣に聞いて欲しいの」

 夕食の片付けも終わり一段落着いたところで、姫流から切り出してきた。

 俊もその態度に真剣に向き合うために座りなおす。

「お昼に、この部屋に1人の女の人が来たの」

 それだけで俊には誰かわかった。

 鍵がかかったこの部屋に入れる女は、泥棒でもない限り唯1人だったからだ。

「・・・それで」

「この部屋の調度品を眺めて、満足して帰っていったよ」

 舌打ちしたい気持ちに俊はなった。

 どうしてもっと早く合鍵を回収しなかったのかと。

「復縁、したいみたいだったよ」

 嘘は通用しない。そうわかった。

「昨日の、音が違うメール、その人からだったんでしょ」

 どこまで知っているのかわからないが、俊はだまって頷く。

「そうだ。復縁したいって言われたけど、俺にはその気がない」

 じっと見つめられた。その瞳は強く、俊のほうが逸らしてしまいそうだった。

「私は言ってるよね。何度も、何度も。私から・・・」

「嫌だっ俺は、俺は姫流とは別れることはできない」

 大声を張り上げていた。

 姫流も驚いたようだが、引く気はないのかきっと睨むようにこちらを見つめる。

「駄目、お願いだから一度離れてみて。それでも、どうしても駄目ならあきらめるから」

 睨んでいるような瞳が、だんだん懇願の悲しい瞳に変わっていく。

 俊の心がぐらつく。こんな悲しい顔をさせるために、自分は姫流と居るわけじゃないだろうと。

「お願い、本当に少しでいい。離れてみて。1月離れても、私への想いが変わらなかったら、諦めるから」

 今にも泣いてしまいそうに懇願する姫流。そんな姫流を見て俊は言った。

「わかった。1月我慢しよう」

 俊は泣く泣く要求を呑んだ。

「これで駄目だったら、認めてくれるんだろう。姫流」

 今度は姫流が要求を呑む番だった。

「うん、誓うよ。これで駄目だったら、もう無理には言わない」

 言質を取った。俊は浮かない気分で、メールをする。

「私はその1月の間、川に戻る。じゃないと、離れたことにならないから」

 その一言は、重たいものだった。

「休日に、少しでいいから会いに行ってもいいだろう?」

「・・・私を優先しないということを条件に、認めてあげる。でもそのために約束しないとか、そんなことしたら怒るからね」

 その後も少し取り決めをして、そして姫流は部屋を去った。

 その瞬間、俊には部屋が広く感じられた。

 そして何故か、2度と姫流はこの部屋に帰らないんじゃないかという不安に襲われるのだった。




 彼女であった前田芳枝と会ったのは、その日の夜のうちだった。

 すぐに会いたいと言われたのだった。

「久しぶり、俊」

「そうだな。2月くらいか?」

 最初の1月で姫流と会って、次の1月は共に暮らした。

「あの時はごめん、ちょっと色々とあって全てあなたのせいにしてた」

 その色々が何かを、俊は知らなかった。

 知らなくてもいいものだと思っていた。

 どうせ1月すれば、姫流の元へ戻る身だった。

「いいよ、昔のことは別に」

 その反応が意外だったのか、芳枝はきょとんとしていた。

「もっと、怒ってるかと思ってた。それとも、怒ってるからそんなに素っ気ないの?」

 怒っていない。だから素っ気ないのだった。

 怒っていないというより、前のような特別な感情が一切湧かないのだ。

 友達としてたまに会う程度で十分だった。

「別に怒っちゃいないよ。もう2月だぞ」

 怒りは大体姫流と出会って、霧散していた。

「そう・・・それなら良かった」

 にこやかに微笑んでくれる。

 前ならそれに魅力を感じたのだろうが、今は姫流の顔しか浮かばなかった。

 その後も芳枝が話を振ってきては、それを返す。

 そんな感じの会話が続いた。

「また、やり直してくれる?」

 本題だった。流石に少し悩む振りくらいはした。そして、頷く。

「ああ、俺なんかでよかったら」

 大嘘吐きだった。

 だが俊は姫流と約束したのだ。

 できる限り関係維持をしなければならなかった。例えそれが表面的なものであったとしても。

「ありがとう、本当にありがとう」

 目を覆う芳枝。やっぱり、思い浮かぶのは姫流の顔だった。

 その後芳枝を家まで送り、帰る。部屋の扉を開けて、1月の間迎え続けてくれた姫流がいないのに寂しさを覚えるのだった。

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