第9話 写る側の席
木曜日の湯乃宮は、いつもより丁寧だった。
「おはようございます」のお辞儀が、いつもより五度深い。授業で当てられたときの答えが、いつもより一文長い。休み時間に誰かに話しかけられるたび、「慣れています」と言っている。今日だけで、四回聞いた。
何に慣れているのかは、誰も聞いていないのに。
長谷川は、今日は普通だった。
「おはよう」は、昨日よりちゃんと聞こえた。視線も、また俺の手元に戻ってきた。……戻ってきたことに、少しほっとしている自分が、よく分からない。
放課後、俺はPOPの続きを書くために教室に残った。長谷川は、家のほうが集中できるからと言って、先に帰っていた。
窓際では、湯乃宮が、読書喫茶の看板に使う写真を撮っていた。教室の後ろの本棚に、選書した二十冊を並べた写真だ。図書室の本は、司書の先生に断って、撮影のあいだだけ借り出してある。
なんとなく画面を覗いて、気づいた。
本棚が、画面いっぱいに詰め込まれていた。
端から端まで、本と棚しか写っていない。水平も、ピントも、たぶん完璧だった。でも、なんだか息が詰まる写真だった。
「湯乃宮」
「はい」
「なんか、詰まってない?」
湯乃宮が、画面から顔を上げた。
「湯乃宮の写真って、いつも、どこかに何もないところがあるだろ。この写真、それがない」
湯乃宮は画面を見て、本棚を見て、もう一度画面を見た。
「……本当ですね」
二人分のコップの横に、いつも何もない場所を残してきた人が。
『余白』を撮る人が、余白を忘れている。
それは、たぶん、よっぽどのことだ。
「何かあった?」
湯乃宮は、スマホを下ろした。
少しのあいだ、何も言わなかった。窓の外で、運動部のかけ声が遠く響いていた。
それから、静かに言った。
「言えないことです」
嘘をつかない人なんだな、と思った。
何もないです、と言えば済むのに。言えないことがある、とだけ、正直に言う。
「そっか」
俺は、それ以上聞かなかった。
「預かりものなら、言わなくていい」
湯乃宮が、顔を上げた。
何か言いかけて、やめて、それから小さく笑った。今日、四回聞いた「慣れています」の笑い方とは、違う笑い方だった。
「……ありがとうございます」
湯乃宮は、本棚の前に戻って、もう一度スマホを構えた。
今度の写真には、本棚の上に、少しだけ何もない壁が写っていた。
*
「日谷沢くん、このあと、時間ありますか」
借りた本を図書室へ返しに行く途中で、湯乃宮が言った。
「久住先輩に、写真部に呼ばれていて。……一人だと、少し」
「いいよ」
写真部の部室は、特別棟の三階の端にあった。
ドアを開けると、壁一面に写真が貼ってある。風景、人物、校舎、空。暗室用の黒いカーテン。机の上には、カメラのレンズが無造作に転がっている。
「お、来た来た」
久住先輩が、椅子をくるりと回してこちらを向いた。
「湯乃宮さんと……ええと」
「同じクラスの日谷沢くんです。ポスターで、本を受け取る役をしてくれました」
「ああ、受け取る手の人だ」
「……日谷沢です」
受け取る手の人。ポスターの話だ。分かっていても、心臓に悪い。
「文化祭でね、写真部の写真展をやるの。で、毎年、部員じゃない人からも一枚だけ募集してて」
久住先輩は、机の上のチラシを湯乃宮に差し出した。
「湯乃宮さん、出さない? あのポスター、すごく良かったから」
湯乃宮は、チラシを両手で受け取った。
募集要項の一番下に、小さく書いてある。
――作品には、撮影者の名前を添えて展示します。
「……名前」
「そう。せっかく撮ったんだから、名前は出してほしいな。誰が撮ったか分からない写真って、ちょっと寂しいでしょ」
湯乃宮の指が、チラシの端をきゅっと握った。
誰が撮ったか分からない写真を、二十三万人に届けてきた人の前で、久住先輩は何も知らずに笑っている。
「……久住先輩は」
湯乃宮が、チラシから目を上げた。
「どうして、写真を撮るんですか」
久住先輩は、少しだけ意外そうな顔をした。それから、壁の写真を一枚、指さした。誰もいない夕方の渡り廊下の写真だった。
「撮った人は、写ってなくても、そこにいたでしょ」
「……はい」
「でも、誰が撮ったか分からないと、その人がそこにいたことも、なかったことになっちゃう気がするんだよね。だから私は、名前を書く。ここに私がいました、って」
湯乃宮は、何も言わなかった。
ただ、壁の渡り廊下の写真を、長いあいだ見ていた。
「ほかの写真も、見せてもらっていい?」
湯乃宮がスマホを差し出す。学校の広報写真、教室の本棚、窓の外の空。どれも、『余白』には載せていない写真だ。
久住先輩は、一枚一枚、じっくり見た。
「……この光の撮り方さあ」
首を、かしげる。
「どっかで見た気がするんだよなあ」
湯乃宮の背中が、ぴんと伸びた。
俺は、息を止めた。
「ま、いっか。いい写真はだいたい、どっかで見た気がするもんだし」
久住先輩は、あっさりスマホを返した。
「締め切りは、文化祭の二週間前ね。考えといて」
*
部室を出て、階段を下りながら、俺は言った。
「受け取る手の人、って呼ばれた」
「有名人ですね」
「心臓に悪い」
「慣れてください」
湯乃宮が、少しだけいつもの調子に戻っていた。
帰り道。駅へ向かう途中の、あの広場の前を通った。
ベンチが三つと、植え込みと、たまに鳩。先週の月曜日、湯乃宮が紙コップを撮っていた場所だ。
「日谷沢くん」
ベンチの前で、湯乃宮が足を止めた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「うん」
「もし、長谷川さんが、"余白の手"に気づいたら」
夕方の光の中で、湯乃宮は、まっすぐ俺を見た。
「日谷沢くんは、どうしますか」
考えたことがなかったわけじゃない。
あの昼休みに「こういうことを言える人、好きだな」と聞いてから、何度も考えた。
「嘘はつかない」
答えは、もう決まっていた。
「聞かれたら、俺の手だって言う。それで長谷川がどう思っても、嘘をつくよりはいい」
「……私のことは」
「湯乃宮のことは、言わない」
当たり前のことを言っている気がした。
「俺のことは、俺のものだから言う。湯乃宮のことは、湯乃宮から預かったものだから言わない。それだけ」
湯乃宮は、しばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ、目を細めた。
「……同じですね」
「何が?」
「なんでもありません」
湯乃宮は、手の中のチラシを見下ろした。
「写真展。……考えてみます」
「出せばいいのに」
思ったことが、そのまま口から出た。
「湯乃宮の名前が付いてる写真、俺は見てみたい」
湯乃宮が、チラシを持ったまま、動きを止めた。
夕方の広場で、鳩が一羽、足もとを横切っていった。
「……考えてみます、です」
さっきより、少しだけ小さな声だった。
でも、チラシを鞄にしまう手つきは、丁寧だった。
捨てるものをしまう手つきじゃなかった。
◆ 長谷川向葵
湯乃宮さんの言葉を、何回も思い出している。
写真だけでは、恋人かどうかは分かりません。影が隣にあるだけで、付き合っているとは限りません。
撮っている人が誰でも。手が、誰の手でも。
私は、日谷沢くんと話したい。
手じゃなくて、日谷沢くんと。
机の上に、POPのカードを並べる。九枚は書けた。『ふたり分の帰り道』の一枚だけが、まだ白い。
何回書いても、書きすぎてしまう。言いたいことがありすぎる。日谷沢くんの前で黙ってしまうのと、たぶん同じ理由だ。
月曜日に、日谷沢くんは言った。言いたいことを考えすぎて、言う前に話が終わってることがある、って。
私も、って答えた。あれは、本当だった。
ペンを置いて、決めた。
明日は、私から「おはよう」を言う。
手じゃなくて、顔を見て。




