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隣の席の転校生に"手"を貸したら、片想い中のあの子の推しになっていた  作者: 富益 啓


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9/13

第9話 写る側の席

 木曜日の湯乃宮は、いつもより丁寧だった。


 「おはようございます」のお辞儀が、いつもより五度深い。授業で当てられたときの答えが、いつもより一文長い。休み時間に誰かに話しかけられるたび、「慣れています」と言っている。今日だけで、四回聞いた。

 何に慣れているのかは、誰も聞いていないのに。


 長谷川は、今日は普通だった。

 「おはよう」は、昨日よりちゃんと聞こえた。視線も、また俺の手元に戻ってきた。……戻ってきたことに、少しほっとしている自分が、よく分からない。


 放課後、俺はPOPの続きを書くために教室に残った。長谷川は、家のほうが集中できるからと言って、先に帰っていた。

 窓際では、湯乃宮が、読書喫茶の看板に使う写真を撮っていた。教室の後ろの本棚に、選書した二十冊を並べた写真だ。図書室の本は、司書の先生に断って、撮影のあいだだけ借り出してある。


 なんとなく画面を覗いて、気づいた。

 本棚が、画面いっぱいに詰め込まれていた。

 端から端まで、本と棚しか写っていない。水平も、ピントも、たぶん完璧だった。でも、なんだか息が詰まる写真だった。


「湯乃宮」

「はい」

「なんか、詰まってない?」


 湯乃宮が、画面から顔を上げた。


「湯乃宮の写真って、いつも、どこかに何もないところがあるだろ。この写真、それがない」


 湯乃宮は画面を見て、本棚を見て、もう一度画面を見た。


「……本当ですね」


 二人分のコップの横に、いつも何もない場所を残してきた人が。

 『余白』を撮る人が、余白を忘れている。

 それは、たぶん、よっぽどのことだ。


「何かあった?」


 湯乃宮は、スマホを下ろした。

 少しのあいだ、何も言わなかった。窓の外で、運動部のかけ声が遠く響いていた。

 それから、静かに言った。


「言えないことです」


 嘘をつかない人なんだな、と思った。

 何もないです、と言えば済むのに。言えないことがある、とだけ、正直に言う。


「そっか」


 俺は、それ以上聞かなかった。


「預かりものなら、言わなくていい」


 湯乃宮が、顔を上げた。

 何か言いかけて、やめて、それから小さく笑った。今日、四回聞いた「慣れています」の笑い方とは、違う笑い方だった。


「……ありがとうございます」


 湯乃宮は、本棚の前に戻って、もう一度スマホを構えた。

 今度の写真には、本棚の上に、少しだけ何もない壁が写っていた。


   *


「日谷沢くん、このあと、時間ありますか」


 借りた本を図書室へ返しに行く途中で、湯乃宮が言った。


「久住先輩に、写真部に呼ばれていて。……一人だと、少し」

「いいよ」


 写真部の部室は、特別棟の三階の端にあった。

 ドアを開けると、壁一面に写真が貼ってある。風景、人物、校舎、空。暗室用の黒いカーテン。机の上には、カメラのレンズが無造作に転がっている。


「お、来た来た」


 久住先輩が、椅子をくるりと回してこちらを向いた。


「湯乃宮さんと……ええと」

「同じクラスの日谷沢くんです。ポスターで、本を受け取る役をしてくれました」

「ああ、受け取る手の人だ」

「……日谷沢です」


 受け取る手の人。ポスターの話だ。分かっていても、心臓に悪い。


「文化祭でね、写真部の写真展をやるの。で、毎年、部員じゃない人からも一枚だけ募集してて」


 久住先輩は、机の上のチラシを湯乃宮に差し出した。


「湯乃宮さん、出さない? あのポスター、すごく良かったから」


 湯乃宮は、チラシを両手で受け取った。

 募集要項の一番下に、小さく書いてある。


 ――作品には、撮影者の名前を添えて展示します。


「……名前」

「そう。せっかく撮ったんだから、名前は出してほしいな。誰が撮ったか分からない写真って、ちょっと寂しいでしょ」


 湯乃宮の指が、チラシの端をきゅっと握った。

 誰が撮ったか分からない写真を、二十三万人に届けてきた人の前で、久住先輩は何も知らずに笑っている。


「……久住先輩は」


 湯乃宮が、チラシから目を上げた。


「どうして、写真を撮るんですか」


 久住先輩は、少しだけ意外そうな顔をした。それから、壁の写真を一枚、指さした。誰もいない夕方の渡り廊下の写真だった。


「撮った人は、写ってなくても、そこにいたでしょ」

「……はい」

「でも、誰が撮ったか分からないと、その人がそこにいたことも、なかったことになっちゃう気がするんだよね。だから私は、名前を書く。ここに私がいました、って」


 湯乃宮は、何も言わなかった。

 ただ、壁の渡り廊下の写真を、長いあいだ見ていた。


「ほかの写真も、見せてもらっていい?」


 湯乃宮がスマホを差し出す。学校の広報写真、教室の本棚、窓の外の空。どれも、『余白』には載せていない写真だ。

 久住先輩は、一枚一枚、じっくり見た。


「……この光の撮り方さあ」


 首を、かしげる。


「どっかで見た気がするんだよなあ」


 湯乃宮の背中が、ぴんと伸びた。

 俺は、息を止めた。


「ま、いっか。いい写真はだいたい、どっかで見た気がするもんだし」


 久住先輩は、あっさりスマホを返した。


「締め切りは、文化祭の二週間前ね。考えといて」


   *


 部室を出て、階段を下りながら、俺は言った。


「受け取る手の人、って呼ばれた」

「有名人ですね」

「心臓に悪い」

「慣れてください」


 湯乃宮が、少しだけいつもの調子に戻っていた。


 帰り道。駅へ向かう途中の、あの広場の前を通った。

 ベンチが三つと、植え込みと、たまに鳩。先週の月曜日、湯乃宮が紙コップを撮っていた場所だ。


「日谷沢くん」


 ベンチの前で、湯乃宮が足を止めた。


「一つ、聞いてもいいですか」

「うん」

「もし、長谷川さんが、"余白の手"に気づいたら」


 夕方の光の中で、湯乃宮は、まっすぐ俺を見た。


「日谷沢くんは、どうしますか」


 考えたことがなかったわけじゃない。

 あの昼休みに「こういうことを言える人、好きだな」と聞いてから、何度も考えた。


「嘘はつかない」


 答えは、もう決まっていた。


「聞かれたら、俺の手だって言う。それで長谷川がどう思っても、嘘をつくよりはいい」

「……私のことは」

「湯乃宮のことは、言わない」


 当たり前のことを言っている気がした。


「俺のことは、俺のものだから言う。湯乃宮のことは、湯乃宮から預かったものだから言わない。それだけ」


 湯乃宮は、しばらく黙っていた。

 それから、ほんの少しだけ、目を細めた。


「……同じですね」

「何が?」

「なんでもありません」


 湯乃宮は、手の中のチラシを見下ろした。


「写真展。……考えてみます」

「出せばいいのに」


 思ったことが、そのまま口から出た。


「湯乃宮の名前が付いてる写真、俺は見てみたい」


 湯乃宮が、チラシを持ったまま、動きを止めた。

 夕方の広場で、鳩が一羽、足もとを横切っていった。


「……考えてみます、です」


 さっきより、少しだけ小さな声だった。


 でも、チラシを鞄にしまう手つきは、丁寧だった。

 捨てるものをしまう手つきじゃなかった。


   ◆ 長谷川向葵


 湯乃宮さんの言葉を、何回も思い出している。

 写真だけでは、恋人かどうかは分かりません。影が隣にあるだけで、付き合っているとは限りません。


 撮っている人が誰でも。手が、誰の手でも。

 私は、日谷沢くんと話したい。

 手じゃなくて、日谷沢くんと。


 机の上に、POPのカードを並べる。九枚は書けた。『ふたり分の帰り道』の一枚だけが、まだ白い。

 何回書いても、書きすぎてしまう。言いたいことがありすぎる。日谷沢くんの前で黙ってしまうのと、たぶん同じ理由だ。

 月曜日に、日谷沢くんは言った。言いたいことを考えすぎて、言う前に話が終わってることがある、って。

 私も、って答えた。あれは、本当だった。


 ペンを置いて、決めた。


 明日は、私から「おはよう」を言う。

 手じゃなくて、顔を見て。


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