第10話 連絡先は、工程の都合で
金曜日の朝。
昇降口から教室まで、俺は今日も挨拶を一通りだけ用意した。普通の「おはよう」。それだけ。
教室に入る。長谷川は、もう席にいた。
自分の席の横で立ち止まり、口を開きかける。
「おはよう、日谷沢くん」
先に、言われた。
長谷川が、俺を見ていた。
手元じゃない。机の上でもない。
俺の、顔を。
目が、合った。
知り合ってから、三年以上。中二のころから、プリントを回すたびに、名前を呼ぶたびに、伏せられるようになった目が、まっすぐこっちを見ている。
思っていたより、色の薄い目だった。光が入ると、茶色というより琥珀に近い。知らなかった。三年以上、知らなかった。
「……お、はよう」
一拍、遅れた。
用意していたのは一通りだけだったのに、その一通りすら、まともに出てこなかった。
長谷川は、言い終わったとたんに真っ赤になって、目を伏せた。
いつもどおりの、伏せ方だった。
でも、最初の一秒は、確かに目が合っていた。
席に着く。心臓がうるさくて、一時間目の教科書を二回間違えた。
隣の席で、湯乃宮が教科書を開いていた。
そのページは、ホームルームが終わるまで、一枚もめくられなかった。
*
POPの下書きの締め切りは、今日の放課後だった。
図書室の奥の、グループ学習コーナーの机に、二十枚のカードが並ぶ。左の十枚が俺、右の十枚が長谷川。
佐伯が進行表を片手に、一枚ずつ確認していく。
「日谷沢くんのは……」
佐伯は、俺のカードを読んだ。
水曜日の「家電の取扱説明書」から、俺なりに直したつもりだ。『はじめての一人旅』には、『計画どおりに行かなかった日のページが、一番おもしろい』と書いた。
「取扱説明書から、脱出しかけてる」
「しかけてる?」
「あと半歩」
厳しい。でも、少し褒められた気がした。
それから佐伯は、長谷川のカードを読み始めた。
一枚目で、手が止まった。二枚目で、進行表を置いた。
俺も、横から覗き込んだ。
『見せる収納、隠す収納』――片づけたいのは、部屋じゃなくて、気持ちのほうだった。そんな日に開く一冊。
『ひとり暮らしの段取り帖』――一人でできることが増えるたびに、誰かと分けたいことも、少しずつ増えていく。
短かった。どれも、二行か三行。
なのに、読むと、本を開きたくなる。
先週「引っ越しの相談窓口」と言われた本のうち、選び直しを生き残った何冊かが、ちゃんと、読みたい本の顔をしていた。
最後の一枚。『ふたり分の帰り道』。
――急がなくていい、と言ってくれる人がいる帰り道は、きっと少しだけ長くなる。
しばらく、誰も何も言わなかった。
長谷川は、俺の前では、いつも「うん」と「そう」くらいしか言わない。
でも、書くと、こんなふうに話すのか。
こんなふうに、考えていたのか。
「……すごいな」
思わず言うと、長谷川はカードの端を指でいじりながら、うつむいた。
「書くほうが、ちゃんと言える、から」
小さな声だった。
でも、その小さな声で言ったことも、ちゃんと言えていた。
「修正点は、少しだけ」
佐伯が、進行表を持ち直した。
「週末のうちに、二人でやり取りして直してほしい。二人とも、連絡先は?」
俺と長谷川は、顔を見合わせかけて、やめた。
「……知らない」
「……知らない」
「じゃあ、工程上、交換して――」
「長谷川」
佐伯の言葉の途中で、俺は言っていた。
言われてからじゃなくて。
頼まれてからじゃなくて。
今朝、先に「おはよう」を言われたのだから、今度は俺の番だと思った。
「連絡先、聞いてもいい?」
長谷川が、顔を上げた。
今朝ほど長くはなかったけれど、一瞬、また目が合った。
「……うん」
スマホを出す手が、二人とも少し震えていた。
画面に、長谷川向葵、という名前が表示される。それだけのことが、なんだか現実味がなかった。
佐伯は、進行表の一行に、静かに線を引いた。
「工程が、一つ減った」
図書室を出るとき、長谷川が、俺の袖のあたりを見ながら小さく言った。
「……週末、修正したら、送るね」
「うん。待ってる」
長谷川が、ほんの一瞬だけ顔を上げて、すぐに伏せた。
何か変なことを言っただろうか。待ってる、としか言っていない。
*
帰り道、昇降口で湯乃宮と並んだ。
「演出の出番、ありませんでしたね」
湯乃宮は、スマホのメモをこちらに見せた。
『連絡先交換・演出プラン(案)』。①から⑦まで、びっしり書いてある。③には「夕方の図書室、窓側(※空いていれば。満席の場合は中庭)」とあった。先週の満席から、ちゃんと学んでいる。
「……準備してたの?」
「来週、実行する予定でした」
「ごめん」
「謝ることではありません」
湯乃宮は、メモを閉じた。
「おめでとうございます」
「湯乃宮のおかげだよ」
本当に、そう思っていた。
先週の月曜日、あの広場で紙コップを持ち上げたところから、全部が始まった。
「光の、ですか」
「全部の」
湯乃宮は、少しだけ目を見開いた。
それから、いつもの穏やかな顔で笑った。
「……そうですか」
夕方の光のせいか、その笑顔が、少しだけ遠く見えた。
駅までの道で、俺は聞いた。
「写真展、考えた?」
「考えています」
「まだ考えてるんだ」
「名前を書くのは、勇気がいるので」
湯乃宮は、前を向いたまま言った。
「でも、久住先輩の話は、少し分かりました。撮った人も、そこにいた。……そう思えたら、いいなと思います」
それから改札で別れるまで、湯乃宮は、来週の撮影場所の候補を三つ挙げた。どれも、ちゃんと考えられた場所だった。
*
その夜。
スマホが鳴った。長谷川からだった。
『POPの件、よろしくお願いします。長谷川』
硬い。業務連絡だ。
でも、長谷川からのメッセージだ。俺はそれを、三回読んだ。
返事を打とうとしたとき、もう一通届いた。
『あと、二巻の感想の続きなんだけど』
その下に、長い文章が続いた。
二巻の後半。速く歩く人が、初めて自分から立ち止まる場面の話。そこで泣いたこと。一巻の八章と二巻の最終章が、同じ帰り道で終わっていると気づいた話。気づいた瞬間、夜中なのに声が出た話。
スクロールしても、スクロールしても、終わらなかった。
俺の前では「うん」と「そう」しか言わない長谷川が、画面の中では、止まらなかった。
俺はベッドの上で転がった。
一回転して、壁にぶつかった。
痛かった。でも、そんなことはどうでもよかった。
◆ 湯乃宮穂花
夜。日谷沢くんから、メッセージが届いた。
『長谷川と連絡先、交換できた。ほんとにありがとう』
「おめでとうございます」と打った。
消した。
もう一度、打った。
送った。
スマホを置こうとして、やめて、写真のフォルダを開いた。
火曜日の写真。夕方の石畳の上の、本の影と、二つの手の影。
影の指先だけが、重なっている。
本物の手は、一ミリも触れていない。
それでも、これは、二年分の『余白』の中で、私が写っているたった一枚だった。
影なら、湯乃宮も写れるだろ。そう言ってくれた人と、一緒に。
影が一つで寂しいなら、本をもう一冊置けばよかった。写真のことだけを考えるなら、私はそうしたはずだ。鞄には、予備の文庫本が入っていた。
私は、そうしなかった。
おめでとうございます、と打つ指が、少しだけ重かった。
一度消したのは、文字を打ち間違えたからじゃなかった。
長谷川さんは、日谷沢くんが好きだ。
日谷沢くんは、長谷川さんが好きだ。
それを知っていて、私は、二人の連絡先が繋がったことを、ちゃんと嬉しいと思っている。本当に。
それなのに、胸の奥のどこかが、ずっと小さく痛んでいる。
水曜日に、長谷川さんの前で「付き合っているとは限りません」と言ったときから、ずっと。
――ああ、そうか。
私は、日谷沢くんのことが、好きなんだ。




