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隣の席の転校生に"手"を貸したら、片想い中のあの子の推しになっていた  作者: 富益 啓


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10/13

第10話 連絡先は、工程の都合で

 金曜日の朝。

 昇降口から教室まで、俺は今日も挨拶を一通りだけ用意した。普通の「おはよう」。それだけ。


 教室に入る。長谷川は、もう席にいた。

 自分の席の横で立ち止まり、口を開きかける。


「おはよう、日谷沢くん」


 先に、言われた。


 長谷川が、俺を見ていた。

 手元じゃない。机の上でもない。

 俺の、顔を。


 目が、合った。


 知り合ってから、三年以上。中二のころから、プリントを回すたびに、名前を呼ぶたびに、伏せられるようになった目が、まっすぐこっちを見ている。

 思っていたより、色の薄い目だった。光が入ると、茶色というより琥珀に近い。知らなかった。三年以上、知らなかった。


「……お、はよう」


 一拍、遅れた。

 用意していたのは一通りだけだったのに、その一通りすら、まともに出てこなかった。


 長谷川は、言い終わったとたんに真っ赤になって、目を伏せた。

 いつもどおりの、伏せ方だった。

 でも、最初の一秒は、確かに目が合っていた。


 席に着く。心臓がうるさくて、一時間目の教科書を二回間違えた。

 隣の席で、湯乃宮が教科書を開いていた。

 そのページは、ホームルームが終わるまで、一枚もめくられなかった。


   *


 POPの下書きの締め切りは、今日の放課後だった。


 図書室の奥の、グループ学習コーナーの机に、二十枚のカードが並ぶ。左の十枚が俺、右の十枚が長谷川。

 佐伯が進行表を片手に、一枚ずつ確認していく。


「日谷沢くんのは……」


 佐伯は、俺のカードを読んだ。

 水曜日の「家電の取扱説明書」から、俺なりに直したつもりだ。『はじめての一人旅』には、『計画どおりに行かなかった日のページが、一番おもしろい』と書いた。


「取扱説明書から、脱出しかけてる」

「しかけてる?」

「あと半歩」


 厳しい。でも、少し褒められた気がした。


 それから佐伯は、長谷川のカードを読み始めた。

 一枚目で、手が止まった。二枚目で、進行表を置いた。


 俺も、横から覗き込んだ。


 『見せる収納、隠す収納』――片づけたいのは、部屋じゃなくて、気持ちのほうだった。そんな日に開く一冊。

 『ひとり暮らしの段取り帖』――一人でできることが増えるたびに、誰かと分けたいことも、少しずつ増えていく。


 短かった。どれも、二行か三行。

 なのに、読むと、本を開きたくなる。

 先週「引っ越しの相談窓口」と言われた本のうち、選び直しを生き残った何冊かが、ちゃんと、読みたい本の顔をしていた。


 最後の一枚。『ふたり分の帰り道』。


 ――急がなくていい、と言ってくれる人がいる帰り道は、きっと少しだけ長くなる。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 長谷川は、俺の前では、いつも「うん」と「そう」くらいしか言わない。

 でも、書くと、こんなふうに話すのか。

 こんなふうに、考えていたのか。


「……すごいな」


 思わず言うと、長谷川はカードの端を指でいじりながら、うつむいた。


「書くほうが、ちゃんと言える、から」


 小さな声だった。

 でも、その小さな声で言ったことも、ちゃんと言えていた。


「修正点は、少しだけ」


 佐伯が、進行表を持ち直した。


「週末のうちに、二人でやり取りして直してほしい。二人とも、連絡先は?」


 俺と長谷川は、顔を見合わせかけて、やめた。


「……知らない」

「……知らない」

「じゃあ、工程上、交換して――」

「長谷川」


 佐伯の言葉の途中で、俺は言っていた。


 言われてからじゃなくて。

 頼まれてからじゃなくて。

 今朝、先に「おはよう」を言われたのだから、今度は俺の番だと思った。


「連絡先、聞いてもいい?」


 長谷川が、顔を上げた。

 今朝ほど長くはなかったけれど、一瞬、また目が合った。


「……うん」


 スマホを出す手が、二人とも少し震えていた。

 画面に、長谷川向葵、という名前が表示される。それだけのことが、なんだか現実味がなかった。


 佐伯は、進行表の一行に、静かに線を引いた。


「工程が、一つ減った」


 図書室を出るとき、長谷川が、俺の袖のあたりを見ながら小さく言った。


「……週末、修正したら、送るね」

「うん。待ってる」


 長谷川が、ほんの一瞬だけ顔を上げて、すぐに伏せた。

 何か変なことを言っただろうか。待ってる、としか言っていない。


   *


 帰り道、昇降口で湯乃宮と並んだ。


「演出の出番、ありませんでしたね」


 湯乃宮は、スマホのメモをこちらに見せた。

 『連絡先交換・演出プラン(案)』。①から⑦まで、びっしり書いてある。③には「夕方の図書室、窓側(※空いていれば。満席の場合は中庭)」とあった。先週の満席から、ちゃんと学んでいる。


「……準備してたの?」

「来週、実行する予定でした」

「ごめん」

「謝ることではありません」


 湯乃宮は、メモを閉じた。


「おめでとうございます」

「湯乃宮のおかげだよ」


 本当に、そう思っていた。

 先週の月曜日、あの広場で紙コップを持ち上げたところから、全部が始まった。


「光の、ですか」

「全部の」


 湯乃宮は、少しだけ目を見開いた。

 それから、いつもの穏やかな顔で笑った。


「……そうですか」


 夕方の光のせいか、その笑顔が、少しだけ遠く見えた。

 駅までの道で、俺は聞いた。


「写真展、考えた?」

「考えています」

「まだ考えてるんだ」

「名前を書くのは、勇気がいるので」


 湯乃宮は、前を向いたまま言った。


「でも、久住先輩の話は、少し分かりました。撮った人も、そこにいた。……そう思えたら、いいなと思います」


 それから改札で別れるまで、湯乃宮は、来週の撮影場所の候補を三つ挙げた。どれも、ちゃんと考えられた場所だった。


   *


 その夜。

 スマホが鳴った。長谷川からだった。


『POPの件、よろしくお願いします。長谷川』


 硬い。業務連絡だ。

 でも、長谷川からのメッセージだ。俺はそれを、三回読んだ。


 返事を打とうとしたとき、もう一通届いた。


『あと、二巻の感想の続きなんだけど』


 その下に、長い文章が続いた。

 二巻の後半。速く歩く人が、初めて自分から立ち止まる場面の話。そこで泣いたこと。一巻の八章と二巻の最終章が、同じ帰り道で終わっていると気づいた話。気づいた瞬間、夜中なのに声が出た話。

 スクロールしても、スクロールしても、終わらなかった。


 俺の前では「うん」と「そう」しか言わない長谷川が、画面の中では、止まらなかった。


 俺はベッドの上で転がった。

 一回転して、壁にぶつかった。

 痛かった。でも、そんなことはどうでもよかった。


   ◆ 湯乃宮穂花


 夜。日谷沢くんから、メッセージが届いた。


『長谷川と連絡先、交換できた。ほんとにありがとう』


 「おめでとうございます」と打った。

 消した。

 もう一度、打った。

 送った。


 スマホを置こうとして、やめて、写真のフォルダを開いた。

 火曜日の写真。夕方の石畳の上の、本の影と、二つの手の影。


 影の指先だけが、重なっている。

 本物の手は、一ミリも触れていない。

 それでも、これは、二年分の『余白』の中で、私が写っているたった一枚だった。

 影なら、湯乃宮も写れるだろ。そう言ってくれた人と、一緒に。


 影が一つで寂しいなら、本をもう一冊置けばよかった。写真のことだけを考えるなら、私はそうしたはずだ。鞄には、予備の文庫本が入っていた。

 私は、そうしなかった。


 おめでとうございます、と打つ指が、少しだけ重かった。

 一度消したのは、文字を打ち間違えたからじゃなかった。


 長谷川さんは、日谷沢くんが好きだ。

 日谷沢くんは、長谷川さんが好きだ。

 それを知っていて、私は、二人の連絡先が繋がったことを、ちゃんと嬉しいと思っている。本当に。


 それなのに、胸の奥のどこかが、ずっと小さく痛んでいる。

 水曜日に、長谷川さんの前で「付き合っているとは限りません」と言ったときから、ずっと。


 ――ああ、そうか。


 私は、日谷沢くんのことが、好きなんだ。


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