第8話 撮っている人は、誰なんだろう
水曜日の朝。
「おはよう」
「……おはよう」
返事が、いつもより小さかった。いつもより、遅かった。
振り向くと、長谷川は目を伏せていた。それは、いつもどおりだ。ただ、今日の視線は俺の手元じゃなく、机の上のノートに落ちていた。
昨日まであんなに見ていた手を、今日は見ない。
何かした。
俺は、たぶん、何かした。
一時間目の間じゅう、昨日の自分を振り返った。昨日の長谷川とは、POPの担当を分けただけだ。『ふたり分の帰り道』を長谷川に譲った。あれがまずかったのか。押しつけたと思われたのか。
一昨日は二巻の話をして、茶道部と言われた。……茶道部がまずかったのか。いや、あれは長谷川が言ったほうだ。
「湯乃宮」
休み時間、隣の席に小声で聞いた。
「長谷川、今日、元気なくない? 俺、なんかしたかな」
湯乃宮は、ちらりと後ろを見た。それから少し考えて、
「……光の問題では」
「それ、万能の答えじゃないからな」
湯乃宮にも、分からないらしかった。
ただ、湯乃宮はそのあと何度か、俺に気づかれないように後ろの席を振り返っていた。
*
昼休みは、いつもの友達と食べた。湯乃宮は、今日も長谷川と食べている。この一週間で、それがクラスの普通の景色になった。
パンをかじりながら、POPの下書きを書いてみた。担当の十冊のうち、まずは『はじめての一人旅』から。
『全七章。前半は計画の立て方、後半は現地での過ごし方について解説。巻末に持ち物チェックリスト付き』
「家電の取扱説明書みたい」
いつの間にか、佐伯が後ろに立っていた。進行表を抱えて、俺の下書きを見下ろしている。
「正確だけど、読みたくならない。おすすめの一言だから、日谷沢くんが読んで、どう思ったかを書いて」
「どう思ったか……」
「工程上、金曜までに、読みたくなるものを」
厳しい。でも、正しい。
ためしに、『はじめての一人旅』をもう一度めくってみた。後ろのほうに、計画どおりに行かなかった日の話がある。電車を乗り過ごして、知らない駅で降りて、そこで食べた定食がその旅で一番おいしかった、という話。
……そこは、少しおもしろかった。
それを書けばいいのかもしれない。
放課後、俺はPOP用の画用紙をもらいに、美術室へ向かった。
教室を出るとき、湯乃宮と長谷川が、二人で中庭のほうへ歩いていくのが見えた。
◆ 湯乃宮穂花
「相談が、あるの」
中庭のベンチに並んで座ると、長谷川さんは膝の上で、スマホを両手で握った。
昼休みから、ずっとこの顔をしていた。何かを言おうとして、やめる顔。
「湯乃宮さん、写真、詳しいでしょ。……これ、見てほしくて」
差し出された画面に、私の写真があった。
昨日の夕方。石畳の上の、本の影と、二つの手の影。
心臓が、一回、大きく鳴った。
「この影の手、ね」
長谷川さんは、画面を見たまま言った。
「日谷沢くんだと、思う」
息を、どう吸えばいいのか分からなくなった。
「金曜日に、二巻を借りたでしょ。そのとき日谷沢くん、本の底を、小指で支えてた。一枚目の写真と、同じ持ち方だった」
長谷川さんは、画面を切り替えた。ノートを撮った写真だった。端に、小さな字で一行。
「それにね、月曜日に、日谷沢くんがこう言ったの。『急がなくていい』って言える人は、自分も急いで転んだことがある、って。それが、昨日のキャプションと、同じで」
知っている。
私が、日谷沢くんに頼んだ一文だ。
でも、日谷沢くんがそれを月曜日に長谷川さんに話していたことは、知らなかった。知っていたら、使わなかった。
私は、何も言えなかった。
長谷川さんは、もう一度、写真に目を落とした。
「それでね。……隣の影の人」
指先が、私の影を、そっとなぞった。
「たぶん、撮ってる人だよね。この人、日谷沢くんの……大事な人、なのかな」
――目の前にいるのが、その、撮っている人だ。
言えない。
言ったら、日谷沢くんとの約束も、二年分の『余白』も、私がやっと持てた放課後も、全部が崩れる。
でも、嘘はつきたくなかった。長谷川さんにだけは。転校二日目に、お昼に誘ってくれた人にだけは。
「……どうして」
やっと、声が出た。
「どうして、そこまで分かるんですか。手だけで」
長谷川さんは、少しだけ顔を上げた。
「……ずっと、見てたから」
言ってから、長谷川さんの顔が、みるみる赤くなった。
耳まで。首まで。
スマホを握る指に、ぎゅっと力が入る。
「中学のときから、ずっと」
消えそうな声だった。
「顔、見るの、恥ずかしくて。だから、手ばっかり見てて。……ばっかり見てたから、分かっちゃうの」
ああ、と思った。
同じ癖の人はいます。それだけで、すぐに分かるとは思いません。
先週、私は日谷沢くんに、そう言った。絶対ではない、とも付け足した。でも、こんなに早いとは思わなかった。
二年以上、顔を見られない代わりに、手ばかり見てきた人が、ここにいた。
長谷川さんは、日谷沢くんが好きなのだ。
私は、膝の上で手を握った。
言える本当のことを、探した。嘘じゃなくて、秘密を壊さなくて、長谷川さんを置き去りにしない言葉を。
「写真だけでは」
ゆっくり、言葉を置く。
「撮っている人が、その手の人の恋人かどうかは、分かりません」
長谷川さんが、顔を上げた。
「『放課後の余白』の写真は、全部、演出です。プロフィールにも、そう書いてあります。影が隣にあるだけで、付き合っているとは限りません」
そこまでは、本当のことだった。
私たちは付き合っていない。そう付け足したくなって、飲み込んだ。それを言えば、手の人のことまで答えてしまう。
「……そっか」
長谷川さんの肩から、少しだけ力が抜けた。
「演出、だもんね」
「はい」
「……よかった」
小さく笑って、それから長谷川さんは、慌てたように付け足した。
「あ、違うの。よかったっていうのは、その、日谷沢くんにそういう人がいても、それは別に、私が何か言えることじゃなくて」
「分かっています」
「……分かってる、の?」
「はい」
長谷川さんは、また赤くなった。今度は、首より下まで赤くなっていそうだった。
「日谷沢くんには、聞かないんですか」
私が尋ねると、長谷川さんは首を横に振った。
「聞いたら、何かが終わっちゃう気がする」
膝の上で、スマホの画面を伏せる。そこに何が写っているのか、私は知っている。
「手の人じゃなかったら、私、すごく変な人だし。手の人だったら……どんな顔して話せばいいか、分からないし。今、やっと、普通に話せるようになってきたのに」
それから長谷川さんは、私の目を見て、言った。
「湯乃宮さん。今日のこと、日谷沢くんには、言わないで」
「……言いません」
約束した。
日谷沢くんから預かったものと、長谷川さんから預かったもの。
両手に一つずつ持ってみたら、中身は、同じ形をしていた。
*
長谷川さんが帰ったあと、私はしばらく、ベンチから立てなかった。
長谷川さんは、日谷沢くんが好きだ。
日谷沢くんは、長谷川さんが好きだ。
それを両方知っているのは、世界で、私だけだった。
言えば、たぶん、全部うまくいく。
明日の朝、二人に一言ずつ言えば、それで。
でも、どちらも、私が言っていいことじゃない。預かったものは、勝手に開けない。それが、私と日谷沢くんの、最初の約束だった。
スマホを開く。昨日の写真。
重なった、二つの影。
――影が隣にあるだけで、付き合っているとは限らない。
正しい説明をした。それなのに、自分と日谷沢くんの間に線を引いたみたいで、まだ喉の奥が痛かった。




