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隣の席の転校生に"手"を貸したら、片想い中のあの子の推しになっていた  作者: 富益 啓


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8/13

第8話 撮っている人は、誰なんだろう

 水曜日の朝。


「おはよう」

「……おはよう」


 返事が、いつもより小さかった。いつもより、遅かった。

 振り向くと、長谷川は目を伏せていた。それは、いつもどおりだ。ただ、今日の視線は俺の手元じゃなく、机の上のノートに落ちていた。

 昨日まであんなに見ていた手を、今日は見ない。


 何かした。

 俺は、たぶん、何かした。


 一時間目の間じゅう、昨日の自分を振り返った。昨日の長谷川とは、POPの担当を分けただけだ。『ふたり分の帰り道』を長谷川に譲った。あれがまずかったのか。押しつけたと思われたのか。

 一昨日は二巻の話をして、茶道部と言われた。……茶道部がまずかったのか。いや、あれは長谷川が言ったほうだ。


「湯乃宮」


 休み時間、隣の席に小声で聞いた。


「長谷川、今日、元気なくない? 俺、なんかしたかな」


 湯乃宮は、ちらりと後ろを見た。それから少し考えて、


「……光の問題では」

「それ、万能の答えじゃないからな」


 湯乃宮にも、分からないらしかった。

 ただ、湯乃宮はそのあと何度か、俺に気づかれないように後ろの席を振り返っていた。


   *


 昼休みは、いつもの友達と食べた。湯乃宮は、今日も長谷川と食べている。この一週間で、それがクラスの普通の景色になった。

 パンをかじりながら、POPの下書きを書いてみた。担当の十冊のうち、まずは『はじめての一人旅』から。


 『全七章。前半は計画の立て方、後半は現地での過ごし方について解説。巻末に持ち物チェックリスト付き』


「家電の取扱説明書みたい」


 いつの間にか、佐伯が後ろに立っていた。進行表を抱えて、俺の下書きを見下ろしている。


「正確だけど、読みたくならない。おすすめの一言だから、日谷沢くんが読んで、どう思ったかを書いて」

「どう思ったか……」

「工程上、金曜までに、読みたくなるものを」


 厳しい。でも、正しい。

 ためしに、『はじめての一人旅』をもう一度めくってみた。後ろのほうに、計画どおりに行かなかった日の話がある。電車を乗り過ごして、知らない駅で降りて、そこで食べた定食がその旅で一番おいしかった、という話。

 ……そこは、少しおもしろかった。

 それを書けばいいのかもしれない。


 放課後、俺はPOP用の画用紙をもらいに、美術室へ向かった。

 教室を出るとき、湯乃宮と長谷川が、二人で中庭のほうへ歩いていくのが見えた。


   ◆ 湯乃宮穂花


「相談が、あるの」


 中庭のベンチに並んで座ると、長谷川さんは膝の上で、スマホを両手で握った。

 昼休みから、ずっとこの顔をしていた。何かを言おうとして、やめる顔。


「湯乃宮さん、写真、詳しいでしょ。……これ、見てほしくて」


 差し出された画面に、私の写真があった。

 昨日の夕方。石畳の上の、本の影と、二つの手の影。


 心臓が、一回、大きく鳴った。


「この影の手、ね」


 長谷川さんは、画面を見たまま言った。


「日谷沢くんだと、思う」


 息を、どう吸えばいいのか分からなくなった。


「金曜日に、二巻を借りたでしょ。そのとき日谷沢くん、本の底を、小指で支えてた。一枚目の写真と、同じ持ち方だった」


 長谷川さんは、画面を切り替えた。ノートを撮った写真だった。端に、小さな字で一行。


「それにね、月曜日に、日谷沢くんがこう言ったの。『急がなくていい』って言える人は、自分も急いで転んだことがある、って。それが、昨日のキャプションと、同じで」


 知っている。

 私が、日谷沢くんに頼んだ一文だ。

 でも、日谷沢くんがそれを月曜日に長谷川さんに話していたことは、知らなかった。知っていたら、使わなかった。


 私は、何も言えなかった。

 長谷川さんは、もう一度、写真に目を落とした。


「それでね。……隣の影の人」


 指先が、私の影を、そっとなぞった。


「たぶん、撮ってる人だよね。この人、日谷沢くんの……大事な人、なのかな」


 ――目の前にいるのが、その、撮っている人だ。


 言えない。

 言ったら、日谷沢くんとの約束も、二年分の『余白』も、私がやっと持てた放課後も、全部が崩れる。

 でも、嘘はつきたくなかった。長谷川さんにだけは。転校二日目に、お昼に誘ってくれた人にだけは。


「……どうして」


 やっと、声が出た。


「どうして、そこまで分かるんですか。手だけで」


 長谷川さんは、少しだけ顔を上げた。


「……ずっと、見てたから」


 言ってから、長谷川さんの顔が、みるみる赤くなった。

 耳まで。首まで。

 スマホを握る指に、ぎゅっと力が入る。


「中学のときから、ずっと」


 消えそうな声だった。


「顔、見るの、恥ずかしくて。だから、手ばっかり見てて。……ばっかり見てたから、分かっちゃうの」


 ああ、と思った。


 同じ癖の人はいます。それだけで、すぐに分かるとは思いません。

 先週、私は日谷沢くんに、そう言った。絶対ではない、とも付け足した。でも、こんなに早いとは思わなかった。

 二年以上、顔を見られない代わりに、手ばかり見てきた人が、ここにいた。


 長谷川さんは、日谷沢くんが好きなのだ。


 私は、膝の上で手を握った。

 言える本当のことを、探した。嘘じゃなくて、秘密を壊さなくて、長谷川さんを置き去りにしない言葉を。


「写真だけでは」


 ゆっくり、言葉を置く。


「撮っている人が、その手の人の恋人かどうかは、分かりません」


 長谷川さんが、顔を上げた。


「『放課後の余白』の写真は、全部、演出です。プロフィールにも、そう書いてあります。影が隣にあるだけで、付き合っているとは限りません」


 そこまでは、本当のことだった。

 私たちは付き合っていない。そう付け足したくなって、飲み込んだ。それを言えば、手の人のことまで答えてしまう。


「……そっか」


 長谷川さんの肩から、少しだけ力が抜けた。


「演出、だもんね」

「はい」

「……よかった」


 小さく笑って、それから長谷川さんは、慌てたように付け足した。


「あ、違うの。よかったっていうのは、その、日谷沢くんにそういう人がいても、それは別に、私が何か言えることじゃなくて」

「分かっています」

「……分かってる、の?」

「はい」


 長谷川さんは、また赤くなった。今度は、首より下まで赤くなっていそうだった。


「日谷沢くんには、聞かないんですか」


 私が尋ねると、長谷川さんは首を横に振った。


「聞いたら、何かが終わっちゃう気がする」


 膝の上で、スマホの画面を伏せる。そこに何が写っているのか、私は知っている。


「手の人じゃなかったら、私、すごく変な人だし。手の人だったら……どんな顔して話せばいいか、分からないし。今、やっと、普通に話せるようになってきたのに」


 それから長谷川さんは、私の目を見て、言った。


「湯乃宮さん。今日のこと、日谷沢くんには、言わないで」

「……言いません」


 約束した。


 日谷沢くんから預かったものと、長谷川さんから預かったもの。

 両手に一つずつ持ってみたら、中身は、同じ形をしていた。


   *


 長谷川さんが帰ったあと、私はしばらく、ベンチから立てなかった。


 長谷川さんは、日谷沢くんが好きだ。

 日谷沢くんは、長谷川さんが好きだ。


 それを両方知っているのは、世界で、私だけだった。


 言えば、たぶん、全部うまくいく。

 明日の朝、二人に一言ずつ言えば、それで。

 でも、どちらも、私が言っていいことじゃない。預かったものは、勝手に開けない。それが、私と日谷沢くんの、最初の約束だった。


 スマホを開く。昨日の写真。

 重なった、二つの影。


 ――影が隣にあるだけで、付き合っているとは限らない。


 正しい説明をした。それなのに、自分と日谷沢くんの間に線を引いたみたいで、まだ喉の奥が痛かった。


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