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隣の席の転校生に"手"を貸したら、片想い中のあの子の推しになっていた  作者: 富益 啓


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7/13

第7話 三枚目は、影だけ

 火曜日の朝、ホームルームの前。


「――というわけで、紙コップを両手で持った」


 昨日の報告を聞き終えた湯乃宮は、真顔のまま三秒ほど黙った。

 それから、肩が小さく震え始めた。


「……茶道部」

「笑うなよ」

「笑っていません」

「震えてる」

「光の加減です」


 光は関係ない。


 ひとしきり震えたあと、湯乃宮はすっと真顔に戻った。


「長谷川さん、手の何を見ていたんでしょう」

「知らない。インクでも付いてるのかと思って、三回洗った」

「三回」

「入学以来、最高の清潔さだった」


 湯乃宮はもう一度震えかけて、こらえた。


「でも、長谷川さんが手を見ていたのは、気になります」

「やっぱり?」

「気のせいだと思います。思いますけど」


 湯乃宮は、スマホのメモを開いた。今日の撮影の段取りが、びっしり書いてある。それを上から一行ずつ消していく。


「今回は、手を写しません」

「え。手の人なのに?」

「手の人なのに、です」


 最後の一行だけを残して、湯乃宮は顔を上げた。


「影で撮ります」


   *


 朝のホームルームで、佐伯が新しい工程を発表した。


「選書した本には、一冊ずつ手書きのPOPを付けます。おすすめの一言を書いたカードです。担当は選書の二人で、一人十枚。下書きは金曜の放課後まで、清書は来週の金曜まで。選書のときに言ったとおり、自分が読んだ本だから書けるはず」


 POP。

 十冊分の、おすすめの一言。長谷川と、二人で二十枚。


 背中の向こうで、長谷川が小さく息を吸う音がした。


 休み時間、振り向くと、長谷川はもう白いカードの束を机に出していた。


「……どれから、やる?」


 俺より先に、長谷川が聞いた。


「担当の分け方、決めようか。選んだ人が書く、でいい?」

「うん。……『ふたり分の帰り道』は」


 長谷川が、カードの束の一番上を、指でそっと押さえた。

 俺も長谷川も、あの本を選んだ。どちらの担当にするかで、一瞬、間ができた。


「……長谷川が書いて」

「いいの?」

「八章の話、俺より上手かったから」


 長谷川は、少しだけ目を見開いて、それからカードを自分のほうへ引き寄せた。

 今日も、目は合わなかった。でも、振り向いてすぐに話が始まった。


   *


 放課後、学校から少し離れた河原に行った。

 土手の下の遊歩道には、夕方になると西日がまっすぐ差し込む。湯乃宮が下見をしておいた場所らしい。


「ここなら、影が長く伸びます」


 湯乃宮は、遊歩道の端の石畳に、小さなブックスタンドを置いた。そこに、カバーを外した文庫本を立てかける。

 俺は本から横に離れてしゃがみ、腕だけを伸ばした。自分の体の影が本にかからない場所を、湯乃宮が指で示してくれる。手を本の少し上にかざすと、手と、立てた本の影が、石畳に伸びた。


「はい。そのままで」


 湯乃宮がスマホを構える。シャッター音。

 画面を見て、湯乃宮は首を傾げた。


「……寂しいです」

「寂しい?」

「影が一人分だと、放課後じゃなくて、ただの夕方になってしまいます」


 分かるような、分からないような理屈だった。でも湯乃宮は本気で悩んでいて、本の位置を変えたり、自分の立つ場所を変えたりしている。

 そのたびに、湯乃宮自身の影が、画面の端をかすめては外れていく。


 ああ、と思った。


「湯乃宮も入れば?」

「え」

「影なら、湯乃宮も写れるだろ」


 湯乃宮が、スマホを構えたまま固まった。

 先週の金曜日、三本目のペットボトルを差し出されたときと、同じ顔だった。


「……顔、写りませんよね」

「影だから」

「名前も、場所も」

「影だから」


 しばらく、返事がなかった。

 湯乃宮の目が、一度だけ、トートバッグの口からのぞいている予備の文庫本に向いた。影が寂しいなら、本をもう一冊置けばいい。写真のことなら、湯乃宮は俺よりずっと先にそれを思いつく人だ。

 でも湯乃宮は、本を出さなかった。

 画面に三脚の影も入らない位置を確かめてから、小さな三脚を石畳に立て、スマホを固定した。

 左手の中には、親指の先くらいの小さなリモコンを握っている。押せば、離れたところからシャッターが切れるらしい。


「……では、私も、手だけ」


 湯乃宮は、手首に付けていたヘアゴムを外して、ポケットにしまった。


「影でも、形で分かることがあるので」


 それから、俺の手首を見た。


「日谷沢くんも、時計を」


 言われて、腕時計を外した。さすが、と思った。この人は、写真のことになると、誰よりも慎重だ。


 湯乃宮は、本を挟んで俺の反対側にしゃがんだ。体の影が外れるところから、右腕だけを伸ばす。二つの手が、左右から向かい合うように並んだ。

 指先と指先の間は、二十センチくらい空いている。石畳の上の影も、指先のあいだに二十センチの隙間を残したまま伸びていた。


「もう少し……」


 湯乃宮が言った。


「影だけ、近づけてください」

「影だけって、どうやるの」

「横に並ぶと、影も横に並んだままです。……私の手の、夕日側に回してください。三十センチくらい離して。それから、少し高く」


 俺は体を横に残したまま、手をずらした。夕日のほうから見ると、二つの指先が前後に並ぶ位置へ。そこから、数センチ持ち上げる。

 高くした俺の手の影が、そのぶん遠くへ伸びた。湯乃宮の影の指先に、近づいていく。

 本物の手は、一ミリも触れていない。前後にも、高さも、離れたままだ。

 夕日は待ってくれない。影は、一分ごとに少しずつ伸びて、少しずつ向きを変える。

 湯乃宮はリモコンを押し続けた。連写の音が、何十回も鳴った。ずれて、笑って、手の高さと向きを少し直して、また押した。


 十分くらい、それを繰り返した。

 その中の一枚で、影の指先だけが、重なっていた。


 画面を確かめた湯乃宮は、しばらく何も言わなかった。

 長く伸びた本の影と、二つの手の影。夕焼けの石畳。どこの誰の放課後でもあって、どこの誰の放課後でもない。


「……いい写真だな」


 俺が言うと、湯乃宮は「はい」とだけ答えた。耳が赤かった。夕日のせいだと思う。たぶん。


「初めてです」


 画面を見たまま、湯乃宮がぽつりと言った。


「自分の写真に、自分が写るのは」


 『放課後の余白』には、二年分の写真がある。二人分のコップ、二人分の椅子、二人分の傘。その全部を、湯乃宮は一人で撮ってきた。

 二人分の放課後の、どこにも、湯乃宮はいなかった。


「影だけですけど」

「影でも、いるだろ」

「……はい」


 湯乃宮は、スマホを胸に当てるように持って、小さく頷いた。


 撮った写真は、いつもどおり二人で確かめた。顔も、制服も、場所の目印も、何も写っていない。影が二つあるだけだ。


   *


 帰り道、湯乃宮がスマホを見ながら言った。


「そういえば、朝は茶道部の話しか聞いていませんでした。感想会そのものは、どうでしたか」

「十分くらい話せた」

「十分」


 湯乃宮が、珍しく声を大きくした。


「演出なしで、ですか」

「紙コップの自販機のおかげかな」

「……照明の勝利ではありませんでしたね」


 湯乃宮は、少しだけ悔しそうだった。演出家としてのプライドがあるらしい。

 何を話したのかまでは、湯乃宮は聞かなかった。人の話の中身を聞き出さないのが、この人の決まりらしかった。


「キャプション、何かありますか」

「また俺?」

「手の人なので」


 手、写ってないけど。

 少し考えて、二巻を読みながら考えていたことを思い出した。


「『急がなくていい、って言える人は、たぶん自分も急いで転んだことがある』……とか」


 湯乃宮が、足を止めた。


「いい一文です」

「本の受け売りみたいなもんだけど」

「使わせてください」


 そう言って、湯乃宮は画面に打ち込んだ。

 昨日、長谷川に話したのと同じ言葉だ。そのことは、頭の隅にあった。でも今日一日、俺が気にしていたのは手のことだけで、言葉から気づかれるとは考えもしなかった。本の感想の延長みたいなものだ、と思った。


 その夜、三枚目が上がった。


『影が二つ!』

『手の人と、もう一人?』

『余白に二人目が来た……』

『今日のキャプション、刺さる』

『手の人と撮ってる人、付き合ってる?』


 最後のコメントで、指が止まった。

 付き合ってはいない。撮っている人は、隣の席の転校生で、俺の恋の監督だ。そう説明できたら楽なのに、説明できる相手はどこにもいない。


 湯乃宮は、いつもどおり、どのコメントにも返事をしなかった。

 俺はベッドの上で、重なった影の写真を、しばらく眺めていた。

 影でも、いるだろ。

 自分で言った言葉なのに、湯乃宮の小さな「はい」のほうが、ずっと耳に残っていた。


   ◆ 長谷川向葵


 通知が来た。『放課後の余白』の、新しい写真。


 夕方の石畳。本の影と、手の影が、二つ。

 影だけでも、分かった。たぶん、あの手だ。


 キャプションを読んだ。


 ――急がなくていい、って言える人は、たぶん自分も急いで転んだことがある。


 息が、止まった。

 ノートを開く。昨日、端に書いた一行。


 「急がなくていい」って言える人は、自分も急いで転んだことがある。


 昨日、日谷沢くんが言っていたのと、同じ言葉だった。


 小指。それから、言葉。

 手の人が、日谷沢くんなら。


 ――隣の影は、誰?


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