第7話 三枚目は、影だけ
火曜日の朝、ホームルームの前。
「――というわけで、紙コップを両手で持った」
昨日の報告を聞き終えた湯乃宮は、真顔のまま三秒ほど黙った。
それから、肩が小さく震え始めた。
「……茶道部」
「笑うなよ」
「笑っていません」
「震えてる」
「光の加減です」
光は関係ない。
ひとしきり震えたあと、湯乃宮はすっと真顔に戻った。
「長谷川さん、手の何を見ていたんでしょう」
「知らない。インクでも付いてるのかと思って、三回洗った」
「三回」
「入学以来、最高の清潔さだった」
湯乃宮はもう一度震えかけて、こらえた。
「でも、長谷川さんが手を見ていたのは、気になります」
「やっぱり?」
「気のせいだと思います。思いますけど」
湯乃宮は、スマホのメモを開いた。今日の撮影の段取りが、びっしり書いてある。それを上から一行ずつ消していく。
「今回は、手を写しません」
「え。手の人なのに?」
「手の人なのに、です」
最後の一行だけを残して、湯乃宮は顔を上げた。
「影で撮ります」
*
朝のホームルームで、佐伯が新しい工程を発表した。
「選書した本には、一冊ずつ手書きのPOPを付けます。おすすめの一言を書いたカードです。担当は選書の二人で、一人十枚。下書きは金曜の放課後まで、清書は来週の金曜まで。選書のときに言ったとおり、自分が読んだ本だから書けるはず」
POP。
十冊分の、おすすめの一言。長谷川と、二人で二十枚。
背中の向こうで、長谷川が小さく息を吸う音がした。
休み時間、振り向くと、長谷川はもう白いカードの束を机に出していた。
「……どれから、やる?」
俺より先に、長谷川が聞いた。
「担当の分け方、決めようか。選んだ人が書く、でいい?」
「うん。……『ふたり分の帰り道』は」
長谷川が、カードの束の一番上を、指でそっと押さえた。
俺も長谷川も、あの本を選んだ。どちらの担当にするかで、一瞬、間ができた。
「……長谷川が書いて」
「いいの?」
「八章の話、俺より上手かったから」
長谷川は、少しだけ目を見開いて、それからカードを自分のほうへ引き寄せた。
今日も、目は合わなかった。でも、振り向いてすぐに話が始まった。
*
放課後、学校から少し離れた河原に行った。
土手の下の遊歩道には、夕方になると西日がまっすぐ差し込む。湯乃宮が下見をしておいた場所らしい。
「ここなら、影が長く伸びます」
湯乃宮は、遊歩道の端の石畳に、小さなブックスタンドを置いた。そこに、カバーを外した文庫本を立てかける。
俺は本から横に離れてしゃがみ、腕だけを伸ばした。自分の体の影が本にかからない場所を、湯乃宮が指で示してくれる。手を本の少し上にかざすと、手と、立てた本の影が、石畳に伸びた。
「はい。そのままで」
湯乃宮がスマホを構える。シャッター音。
画面を見て、湯乃宮は首を傾げた。
「……寂しいです」
「寂しい?」
「影が一人分だと、放課後じゃなくて、ただの夕方になってしまいます」
分かるような、分からないような理屈だった。でも湯乃宮は本気で悩んでいて、本の位置を変えたり、自分の立つ場所を変えたりしている。
そのたびに、湯乃宮自身の影が、画面の端をかすめては外れていく。
ああ、と思った。
「湯乃宮も入れば?」
「え」
「影なら、湯乃宮も写れるだろ」
湯乃宮が、スマホを構えたまま固まった。
先週の金曜日、三本目のペットボトルを差し出されたときと、同じ顔だった。
「……顔、写りませんよね」
「影だから」
「名前も、場所も」
「影だから」
しばらく、返事がなかった。
湯乃宮の目が、一度だけ、トートバッグの口からのぞいている予備の文庫本に向いた。影が寂しいなら、本をもう一冊置けばいい。写真のことなら、湯乃宮は俺よりずっと先にそれを思いつく人だ。
でも湯乃宮は、本を出さなかった。
画面に三脚の影も入らない位置を確かめてから、小さな三脚を石畳に立て、スマホを固定した。
左手の中には、親指の先くらいの小さなリモコンを握っている。押せば、離れたところからシャッターが切れるらしい。
「……では、私も、手だけ」
湯乃宮は、手首に付けていたヘアゴムを外して、ポケットにしまった。
「影でも、形で分かることがあるので」
それから、俺の手首を見た。
「日谷沢くんも、時計を」
言われて、腕時計を外した。さすが、と思った。この人は、写真のことになると、誰よりも慎重だ。
湯乃宮は、本を挟んで俺の反対側にしゃがんだ。体の影が外れるところから、右腕だけを伸ばす。二つの手が、左右から向かい合うように並んだ。
指先と指先の間は、二十センチくらい空いている。石畳の上の影も、指先のあいだに二十センチの隙間を残したまま伸びていた。
「もう少し……」
湯乃宮が言った。
「影だけ、近づけてください」
「影だけって、どうやるの」
「横に並ぶと、影も横に並んだままです。……私の手の、夕日側に回してください。三十センチくらい離して。それから、少し高く」
俺は体を横に残したまま、手をずらした。夕日のほうから見ると、二つの指先が前後に並ぶ位置へ。そこから、数センチ持ち上げる。
高くした俺の手の影が、そのぶん遠くへ伸びた。湯乃宮の影の指先に、近づいていく。
本物の手は、一ミリも触れていない。前後にも、高さも、離れたままだ。
夕日は待ってくれない。影は、一分ごとに少しずつ伸びて、少しずつ向きを変える。
湯乃宮はリモコンを押し続けた。連写の音が、何十回も鳴った。ずれて、笑って、手の高さと向きを少し直して、また押した。
十分くらい、それを繰り返した。
その中の一枚で、影の指先だけが、重なっていた。
画面を確かめた湯乃宮は、しばらく何も言わなかった。
長く伸びた本の影と、二つの手の影。夕焼けの石畳。どこの誰の放課後でもあって、どこの誰の放課後でもない。
「……いい写真だな」
俺が言うと、湯乃宮は「はい」とだけ答えた。耳が赤かった。夕日のせいだと思う。たぶん。
「初めてです」
画面を見たまま、湯乃宮がぽつりと言った。
「自分の写真に、自分が写るのは」
『放課後の余白』には、二年分の写真がある。二人分のコップ、二人分の椅子、二人分の傘。その全部を、湯乃宮は一人で撮ってきた。
二人分の放課後の、どこにも、湯乃宮はいなかった。
「影だけですけど」
「影でも、いるだろ」
「……はい」
湯乃宮は、スマホを胸に当てるように持って、小さく頷いた。
撮った写真は、いつもどおり二人で確かめた。顔も、制服も、場所の目印も、何も写っていない。影が二つあるだけだ。
*
帰り道、湯乃宮がスマホを見ながら言った。
「そういえば、朝は茶道部の話しか聞いていませんでした。感想会そのものは、どうでしたか」
「十分くらい話せた」
「十分」
湯乃宮が、珍しく声を大きくした。
「演出なしで、ですか」
「紙コップの自販機のおかげかな」
「……照明の勝利ではありませんでしたね」
湯乃宮は、少しだけ悔しそうだった。演出家としてのプライドがあるらしい。
何を話したのかまでは、湯乃宮は聞かなかった。人の話の中身を聞き出さないのが、この人の決まりらしかった。
「キャプション、何かありますか」
「また俺?」
「手の人なので」
手、写ってないけど。
少し考えて、二巻を読みながら考えていたことを思い出した。
「『急がなくていい、って言える人は、たぶん自分も急いで転んだことがある』……とか」
湯乃宮が、足を止めた。
「いい一文です」
「本の受け売りみたいなもんだけど」
「使わせてください」
そう言って、湯乃宮は画面に打ち込んだ。
昨日、長谷川に話したのと同じ言葉だ。そのことは、頭の隅にあった。でも今日一日、俺が気にしていたのは手のことだけで、言葉から気づかれるとは考えもしなかった。本の感想の延長みたいなものだ、と思った。
その夜、三枚目が上がった。
『影が二つ!』
『手の人と、もう一人?』
『余白に二人目が来た……』
『今日のキャプション、刺さる』
『手の人と撮ってる人、付き合ってる?』
最後のコメントで、指が止まった。
付き合ってはいない。撮っている人は、隣の席の転校生で、俺の恋の監督だ。そう説明できたら楽なのに、説明できる相手はどこにもいない。
湯乃宮は、いつもどおり、どのコメントにも返事をしなかった。
俺はベッドの上で、重なった影の写真を、しばらく眺めていた。
影でも、いるだろ。
自分で言った言葉なのに、湯乃宮の小さな「はい」のほうが、ずっと耳に残っていた。
◆ 長谷川向葵
通知が来た。『放課後の余白』の、新しい写真。
夕方の石畳。本の影と、手の影が、二つ。
影だけでも、分かった。たぶん、あの手だ。
キャプションを読んだ。
――急がなくていい、って言える人は、たぶん自分も急いで転んだことがある。
息が、止まった。
ノートを開く。昨日、端に書いた一行。
「急がなくていい」って言える人は、自分も急いで転んだことがある。
昨日、日谷沢くんが言っていたのと、同じ言葉だった。
小指。それから、言葉。
手の人が、日谷沢くんなら。
――隣の影は、誰?




