第6話 好きな子が、やたらと俺の手を見てくる
月曜日の朝。
「おはよう」は、五日連続で言えた。
土日を挟んでいるので、厳密には五回連続だ。でも俺の中では、五日連続ということにしている。
記録を数えている時点でどうかと思うが、数えずにはいられない。好きになってから二年以上、ゼロだったのだ。
「……おはよう」
返事のあと、長谷川が、少しだけ身を乗り出した。
「あの、日谷沢くん」
「ん」
「二巻、読み終わった」
早い。金曜に貸して、月曜にはもう読み終わっている。
「早いな」
「……止まらなくて」
長谷川は、机の上の文庫本の角を指でいじりながら、小さく続けた。
「感想、あるんだけど。……今日の放課後、選書の残り、やるでしょ。そのときで、いい?」
「うん。聞きたい」
即答していた。
長谷川は小さく頷いて、本に目を落とした。
前に向き直る。
放課後に、長谷川の感想を聞く約束がある。
約束。俺と、長谷川に。月曜日にしては、出来すぎている。
*
その日、俺は妙な視線を感じ続けた。
一時間目。ノートを取っていると、背中のほうから視線を感じる。振り向くと、長谷川がさっと目を伏せる。ここまでは、いつもどおりだ。
ただ、伏せる直前の視線が、俺の右手に止まっていた気がする。
二時間目のあと。ペットボトルのキャップを開けていると、また視線を感じた。振り向く。長谷川が伏せる。視線の先は、やっぱり手だ。
四時間目。プリントを後ろに回す。
長谷川はプリントを受け取りながら、俺の指を、じっと見ていた。
じっと。
受け取ったあとも、まだ見ていた。
前に向き直って、俺は自分の右手を見下ろした。
まさか、と思う。
まさか、"余白の手"だと気づかれた?
いや、まだそうと決まったわけじゃない。湯乃宮も言っていた。同じ癖の人はいる、と。絶対ではない、とも言っていたけれど。
もっと普通の理由かもしれない。何か付いている、とか。まず、そっちを確かめよう。
昼休み、俺は手を洗いに行った。
インクでも付いているのかと思ったが、何も付いていない。念のため、もう一回洗った。五時間目のあとにも洗った。
一日三回。入学以来、最高の清潔さだった。
「湯乃宮」
六時間目の前、隣の席に小声で聞いた。
「俺の手、なんか付いてる?」
湯乃宮は、俺の手を見た。表、裏、もう一回表。
「何も付いていません。……なぜですか」
「長谷川が、やたら見てくる」
湯乃宮の手が、一瞬止まった。
それから、いつもの穏やかな顔で言った。
「……気のせいでは」
答えるまでに、少しだけ間があった気がした。
*
放課後、図書室の奥のグループ学習コーナーで、選書の残り五冊を決めた。
先週の「引っ越しの相談窓口」から、ずいぶん進歩した。
四冊目を探していたとき、長谷川が棚から一冊抜いて、俺のほうに差し出した。古い海外の冒険小説だった。
「これ、日谷沢くん、好きそう」
「……なんで分かったの」
「なんとなく」
なんとなく、で当てられるものだろうか。中学のとき、たしかに似たような本ばかり読んでいた。でも、長谷川にそれを話したことはない。
最後の一冊を棚から抜いたとき、長谷川が小さく「終わった」と言って、ほんの少しだけ笑った。
図書室は飲食禁止なので、感想は外で聞くことになった。
昇降口の横の自販機の前で、俺はいつものペットボトルの自販機に向かいかけた。
「あ、こっち」
長谷川が、隣の紙コップ式の自販機を指さした。
「こっちのほうが、おいしいから」
「そうなの?」
「……うん。たぶん」
たぶん。
よく分からないまま、アイスのカフェオレを二つ買う。取り出し口から出てきた紙コップは冷たくて、すぐに表面が汗をかいた。ベンチまで運ぶ間、長谷川の視線を、またしても手元に感じた。
見られている。
何が付いているのかは分からないが、とにかく見られている。
俺は意識しすぎて、紙コップを両手で包むように持った。手のひら全体で、底から、そっと。
ベンチに座ってからも、そのまま持っていた。両手で。背筋を伸ばして。
「……日谷沢くん」
「ん」
「茶道部の人みたい」
「よく言われる」
言われたことはない。
長谷川が口元を押さえて、少しだけ肩を揺らした。
笑われた。でも、嫌な笑われ方じゃなかった。
*
「二巻ね」
カフェオレを一口飲んでから、長谷川が言った。
「速く歩くほうの人、昔、急いで大事なものを落としたことがあったんだね。一巻だと、ただ優しい人なんだと思ってたけど」
「うん。だから八章の『急がなくていい』が、二巻を読むと重くなる」
「そう。そうなの」
長谷川の声が、少し速くなる。好きなものの話をするときの速さだ。先週の昼休みに、隣で聞いた。
「あの人、自分が急いで失敗したから、相手には急がなくていいって言えるんだよね。それが分かってから一巻を読み返したら、八章で泣きそうになって」
「読み返したの?」
「……二回」
照れたように、紙コップに口をつける。
俺は、二巻を読みながら考えていたことを、口にした。
「『急がなくていい』って言える人は、たぶん、自分も急いで転んだことがあるんだと思う」
長谷川が、紙コップを持ったまま止まった。
しばらく、何も言わなかった。俺は待った。長谷川が何か言うなら、それを聞きたかった。
「……うん」
やがて、小さな声がした。
「それ、すごく、そう思う」
それだけだった。
でも長谷川は、俺の言ったことを口の中でなぞるみたいに、唇を少しだけ動かした。
覚えておこうとしてくれているみたいに見えた。たぶん、気のせいだ。
「日谷沢くんは」
長谷川が、紙コップの縁を見たまま言った。
「急いで転んだこと、ある?」
質問だった。本のことじゃなくて、俺のことの。
少し考えてから、正直に答えた。
「ある。……いっぱいある」
「いっぱい」
「言いたいことを考えすぎて、言う前に、話が終わってることとか」
言ってから、しまった、と思った。それは、ほとんど長谷川の前の俺の話だ。
でも長谷川は、笑わなかった。紙コップを両手で持ち直して、小さく言った。
「……私も」
それきり、二人とも黙った。
気まずい沈黙じゃなかった。たぶん、同じことを考えていた。考えすぎて言えなかった、いくつもの言葉のことを。
カフェオレがなくなるまで、俺たちは二巻の話をした。
三十秒どころじゃなかった。たぶん、十分以上。
家に帰るまで、足が地面に着いていなかったと思う。
◆ 長谷川向葵
両手だった。
紙コップを、両手で包んでいた。茶道部みたいだった。
……かわいかった。
違う。そうじゃない。調査。
朝、ノートの一番後ろのページに、こう書いておいた。
調査計画。
①ペンの持ち方。
②ペットボトルの持ち方。
③プリントの持ち方。
④紙コップの持ち方(最重要)。
①から③までは、どれも、いつもの日谷沢くんの手だった。好きになってから、二年以上見てきた手。
でも、小指で底を支える癖は、下から持つものにしか出ない。ペンやプリントでは、分からない。だから、④が最重要だった。
金曜日に本を受け取ったとき、日谷沢くんの小指は、本の底を支えていた。待ち受けの写真と、同じだった。
だから、確かめたかった。紙コップなら、もっとはっきり分かると思った。
結果は、両手。茶道部。調査、失敗。
でも、気づいたことがある。
今日の日谷沢くんは、一度もポケットに手を入れなかった。
先週の図書室では、ずっと入れていたのに。
それから、あの言葉。
「急がなくていい」って言える人は、自分も急いで転んだことがある。
家に帰ってすぐ、ノートの端に書いた。忘れたくなかったから。
推しは、"余白の手"の人。
好きな人は、日谷沢くん。
――その二つが、もし、同じだったら。




