第5話 二人分の放課後に、もう一席
金曜日の朝。
「おはよう」は、四日連続で言えた。
四日目の長谷川は、スマホを伏せなかった。代わりに、鞄の中にしまった。待ち受けが何か、俺はもう知っている。長谷川は、俺が知っていることを知らない。
それでも「……おはよう」は、火曜日より少しだけ早く返ってきた。
*
「失礼しまーす。一年三組の、佐伯さんいる?」
昼休み。教室の入り口から、知らない声がした。
ネクタイの色が違う。二年生だ。腕に、丸めた紙を何枚か抱えている。
「写真部の、久住こよりです。ポスターの試し刷り、上がったから持ってきたよ。本番の印刷は来週ね」
「ありがとうございます、久住先輩」
佐伯が進み出て、紙を受け取る。掲示の印刷を相談していた写真部の先輩らしい。
佐伯はその場で試し刷りを一枚広げて、教室の後ろの掲示板に貼った。
開いた本と、差し出す手と、受け取る手。
その下に、一行。
――一冊、ご一緒に。 一年三組 読書喫茶
「いいじゃん、これ」
「なんか、本読みたくなる」
クラスの何人かが、足を止めて言った。
候補には、湯乃宮がお手本で写った、きっちり整った一枚もあった。でも採用されたのは、長谷川が八章を指さして、俺が受け取った、あの一枚だった。
久住先輩は、掲示板のポスターを見上げて、しばらく黙っていた。
「……これ、撮ったの誰?」
湯乃宮が、控えめに手を挙げた。
「私です」
「ふうん」
久住先輩は、湯乃宮をじっと見た。品定め、というより、面白いものを見つけた人の顔だった。
「いいね。手が、ちゃんと待ってる。……今度、写真部にも遊びに来てよ。文化祭の展示、見てほしいし」
それだけ言って、ひらひら手を振って帰っていった。嵐みたいな人だった。
佐伯が、残りの試し刷りを抱え直して、俺たちのほうを向いた。
「選書の二人、ありがとう。選び直したリスト、すごく良くなった。残りの五冊も、この調子で」
それから、湯乃宮に。
「湯乃宮さんも。転校してすぐだったのに、ありがとう」
湯乃宮は、一瞬、言葉に詰まったように見えた。
「……いえ。こちらこそ」
教室に、自分の仕事がある。
それが湯乃宮にとってどういうことなのか、俺には全部は分からない。ただ、ポスターを見上げる横顔は、少しだけ誇らしそうだった。
*
放課後、展示用の本に挟む整理カードのうち、決まった十五冊分にラベルを貼り終えると、佐伯は「次の工程があるので」と言って職員室へ向かった。
残ったのは、三人だった。
「何か、飲む?」
昇降口の横の自販機の前で、俺が言った。
長谷川がミルクティーを、俺が麦茶を買う。
湯乃宮は、財布を出すより先に、スマホを出していた。
「あ、そのまま。二人とも、そのまま持っていてください」
反射だった。
ベンチに並んで座った俺と長谷川の、手元の二本のペットボトルに、湯乃宮がレンズを向ける。いつもの、二人分の放課後。
そのとき、長谷川が立ち上がった。
自販機にお金を入れて、ボタンを押す。がこん、と音がする。
「湯乃宮さんの分」
取り出した三本目のペットボトルを、長谷川は湯乃宮に差し出した。
「……どこに置く?」
湯乃宮が、スマホを構えたまま固まった。
「え」
「昨日の撮影、湯乃宮さん、ほとんど撮る側だったから」
長谷川は、ペットボトルを差し出したまま、小さな声で言った。
見ていたのか、と思った。俺は自分の手のことで精一杯で、そこまで気づいていなかった。
「今日は、撮る人も入ろう」
俺が言うと、湯乃宮はますます固まった。
「でも、私は」
「三人でやったんだから、三人で写ろう」
湯乃宮は、差し出されたペットボトルを見ていた。
しばらく、返事がなかった。
撮る側に残るつもりだったのだ、と思う。最初から、ずっと。
「……はい」
小さな声で言って、湯乃宮はペットボトルを受け取った。
*
ベンチの上に、三本のペットボトルと、長谷川が鞄から出した、私物の『ふたり分の帰り道』の一巻を置く。湯乃宮が小さな三脚を立てて、タイマーを十秒に設定した。写すのは、手と、飲み物と、本だけ。シャッターは、まだ押していない。
「……あの」
湯乃宮が、困った顔で振り向いた。
「三本目の置き場が、決まりません」
見ると、湯乃宮のペットボトルだけが、ベンチの端と真ん中をさっきから行ったり来たりしている。
「二本なら、向かい合わせにすればいいんです。でも三本だと、どこに置いても、誰かが外側になってしまって」
真剣だった。この人は、本当に真剣に、三本目の席を探している。
二人分の放課後ばかり撮ってきた人だから、三人分の並べ方を知らないのだ。
俺は、ベンチの上を見た。
「三人で仲良く飲んでるのに、飲み物だけ席が決まらない」
ぷっ、と隣で音がした。
長谷川だった。口元を押さえて、肩を震わせている。こらえきれなかったらしく、すぐに声を出して笑い始めた。
長谷川がこんなふうに笑うのを、俺は初めて見た。
つられて、湯乃宮も笑った。
「……ひどいです」
「事実だから」
「事実だから、困るんです」
どこかで聞いたやり取りだった。
「とりあえず、真ん中で撮ってみる?」
「……一度、試します」
湯乃宮は三本目を真ん中に置き、笑いをこらえながらシャッターを押して、そのボトルの前に戻ってきた。俺と長谷川も、自分のボトルに手を添える。
目が合うと、また笑ってしまった。その間に、ピッ、ピッ、とタイマーが鳴った。
ぱしゃり。
撮られた写真には、三人の手が写っていた。
ミルクティーを持つ手と、麦茶を持つ手と、真ん中に置かれたままの三本目に、慌てて伸ばしかけた手。
構図は、たぶん全然整っていない。
でも、撮影のために笑ったんじゃない。笑ったあとに、写真が残った。
湯乃宮は、長いあいだ画面を見ていた。
「これは、投稿しません」
ぽつりと、言った。
「……私のです」
スマホを両手で包むように持って、湯乃宮は笑った。今まで見た中で、一番下手くそで、一番いい笑い方だった。
火曜日の「撮っておけばよかった」の、少し遅い記念写真だった。
その隣で、長谷川がほっとしたように目を細めていた。
「……私にも、送ってくれる?」
「はい。……あ、連絡先」
「あ、そっか。まだ」
二人がスマホを寄せ合って、連絡先を交換する。湯乃宮が写真を送り、長谷川のスマホが小さく鳴った。
その横で、俺は気づいた。
この三人の中で、連絡先を知らない組み合わせは、俺と長谷川だけだ。
……まあ、それは、次の課題ということにしておく。
*
片づけをしていると、長谷川が俺の横に来た。
「あの、日谷沢くん」
「ん」
「この前の、『ふたり分の帰り道』の……二巻」
ペットボトルを握る長谷川の指に、力が入っているのが分かった。
「今度で、いいから。……貸して、ほしい」
俺は、鞄を開けた。
二巻は、そこにあった。
水曜日の図書室で「家にある」と言ってから、次の日の朝には鞄に入れていた。貸そうか、の一言が言えないまま、二日間。
「偶然入ってた」は、さすがに嘘くさい。
「もう読み終わってるから。どうぞ」
本を取り出して、差し出す。
長谷川の視線は、いつものように、俺の手元に落ちている。
そのとき、一瞬だけ、手の持ち方を考えた。
ポケットに隠した手。端をつまんだ指。ぎこちない受け渡しと、「向いてないのかも」と言った長谷川の声。
――長谷川さんと話すときは、もう、隠さなくていいです。
俺は、いつもどおりに本を持った。
小指で、底を支えて。
「……ありがとう」
長谷川は両手で本を受け取って、胸に抱えた。
返してもらう日が、もう待ち遠しかった。
◆ 長谷川向葵
借りられた。
これで、次に話しかける理由ができた。感想を言う、っていう理由が。
家に帰っても、まだ嬉しい。表紙を、何回も撫でてしまう。
顔を見られないから、私はずっと、日谷沢くんの手ばかり見てきた。
プリントを回してくれる手。ページをめくる手。考えごとをするとき、ペンを指で転がす手。
知っている。たぶん、誰よりも。
あの写真を初めて見た夜、なぜか目が離せなかった。知らない人の手なのに、知っている気がした。
理由は、考えなかった。考えたら、変な人だと思ったから。
小指で底を支える癖は、下から持つものにしか出ない。プリントやペンでは、出ない。本も、日谷沢くんはいつも机に置いたまま読むから、出ない。
日谷沢くんから、何かを下から支えて手渡されたのは、今日が初めてだった。
だから。
さっき、本を受け取ったとき。
差し出された本の底を、日谷沢くんの小指が支えていた。
――待ち受けの写真と、同じ持ち方だった。




