第4話 本命がモデルで、相棒が監督
朝のホームルーム前、湯乃宮は隣の席で、スマホのメモを見ながら言った。
「今日の撮影ですが」
「うん」
「学校の広報用なので、『余白』とは関係ありません。載せませんし、使い回しもしません」
「分かってる」
「ただ、念のため」
湯乃宮は、メモから目を上げずに付け足した。
「手の癖は、今日も出さないでください」
背中の向こうで、ページをめくる音がした。
長谷川が、すぐ後ろにいる。今日の放課後、俺の手は、あの子の目の前で撮られる。
俺は、机の上の右手をそっと握った。
*
撮影場所は、図書室の奥の閲覧スペースだった。佐伯が昼休みのうちに、司書の先生から許可を取ってくれていた。
「学校の広報用なので、顔は入れません。本と、手元だけです」
スマホを構えた湯乃宮が、淡々と説明する。
「長谷川さんが本を差し出して、日谷沢くんが受け取る。その瞬間を撮ります」
言葉づかいは、教室にいるときと同じく丁寧だ。
ただ、目が違う。月曜日の広場で見た、あの目だった。
「では、本番です」
長谷川が『ふたり分の帰り道』を両手で持って、俺の前に立つ。
肩が、目に見えて上がっていた。
「……長谷川さん」
「は、はい」
「息はしてください」
長谷川が、止めていた息をぷはっと吐いた。
監督は、容赦がなかった。
一回目。
長谷川が本を差し出す。俺は受け取る。……受け取ろうとする。
小指を本の底に回さないように、俺は親指と人差し指で、本の端をつまむように持った。長谷川は長谷川で、俺の指に触れないよう、本の端の端を持っている。
端と端。本が、宙で頼りなく揺れた。
「長谷川さん、腕が伸びきっています。本を遠ざけないでください」
「と、遠ざけて……る」
「日谷沢くん、受け取る手つきが、爆発物を扱う人です」
「そんなに?」
「そんなにです。もう一回、お願いします」
二回目。タイミングがずれて、長谷川が手を離すのが早すぎた。本が落ちかけて、二人で慌てて押さえる。
三回目。今度は、どちらも手を離さなかった。本を挟んで、二人で固まる。
「そんなに丁寧だと」
見学していた佐伯が、進行表から顔を上げた。
「卒業証書の授与に見える」
否定できなかった。
長谷川は本を胸に抱えて、うつむいてしまった。
「一回、お手本を見せますね」
湯乃宮がスマホを佐伯に預けて、長谷川から本を受け取った。俺の前に立つ。
「どうぞ、日谷沢くん」
「どうも。……これ、返却期限いつ?」
「来週の火曜です。延滞料は、ジュース一本です」
「安いな」
受け取る。普通に。
佐伯が、ぱしゃりと一枚撮った。
「一回で撮れた」
佐伯の声は、ただ事実を述べただけだった。
でも、その事実は、長谷川に刺さったらしい。
「……私、向いてないのかも」
小さな声だった。
長谷川が、一歩、後ろに下がりかける。
――違う。
俺は、気づいた。
ぎこちなかったのは、俺だ。
小指を隠すことばかり考えて、変な持ち方をして、タイミングを外した。湯乃宮とは軽口を叩いて一回で撮れたのに、長谷川の前では固まった。昨日の図書室でも、俺はずっとポケットに手を入れていた。
そのせいで、長谷川は、自分が悪いと思っている。
「長谷川」
呼び止めていた。
「好きな場面を、教えながら渡してくれない?」
「……え?」
「本を渡すとき、普通、何か言うだろ。これ面白いよ、とか、ここが好き、とか。そのほうが、たぶん自然になる。それに、長谷川は本の話してるときのほうが――」
言いかけて、止まった。
本の話をしているときの長谷川は、楽しそうだ。昨日の図書室でも、一昨日の昼休みでも。そう言おうとして、それを言うのは、ずっと見ていたと白状するのと同じだと気づいた。
「……手が、自然に動くと思う」
苦しい着地だった。
「監督も、同意見です」
湯乃宮が、真顔で助け舟を出した。
長谷川は、腕の中の本を見た。
それから、小さく頷いた。
「……やってみる」
*
四回目。
湯乃宮が、佐伯からスマホを受け取り直す。
長谷川が本を開いて、ページを俺のほうに向けた。
「ここ。八章の、ここから」
細い指が、行をなぞる。
「遅いほうが、追いつこうとして走るでしょ。そしたら、速いほうが『急がなくていい』って言って――ここ。この一行。この、何も言わないで、歩く速さを落とすところが」
声が、少しずつほどけていく。昨日の三十秒の、続きみたいに。
長谷川の目は、ずっとページの上にあった。俺の手じゃなく、本の文字を追っている。
俺は、聞いていた。いつの間にか、隠すことを忘れていた。
開かれた本を受け取るとき、俺の小指は、いつもどおり本の底を支えていた。
ぱしゃり、と小さな音がした。
「撮れました」
湯乃宮の声に、長谷川がはっと顔を上げる。それから、本を俺の手に預けたまま、小さく言った。
「……急かさないでくれて、ありがとう」
嬉しかった。
長谷川が、俺に、ありがとうと言った。
たぶん、撮影に付き合ったことへの、親切へのお礼だ。それでも、嬉しかった。
どこかで、似た言葉を聞いたことがあるような気がした。思い出そうとしたけれど、長谷川がもう本から手を離していて、その感じはすぐに消えた。
撮れた写真を、みんなで確認した。
開いた本と、差し出す手と、受け取る手。長谷川の指が、八章の一行を指している。誰が見ても、誰かが誰かに本を薦めている瞬間だった。
「いいね」
佐伯が、珍しく進行表を見ずに言った。
長谷川は、画面をじっと見ていた。
「……私の指、ちゃんと、本の話してる」
小さく呟いて、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
そして俺は、気づいた。
受け取る俺の手は、親指から先しか写っていない。本の底を支える小指は、ちょうど角度の向こう側に隠れていた。
*
片づけのとき、本を棚に戻しながら、俺は湯乃宮に小声で言った。
「さっきの角度、わざとだろ」
「監督なので」
それだけだった。
俺は少し迷ってから、続けた。
「……隠してたせいで、長谷川に悪いことした」
湯乃宮は、棚の本の背をそろえる手を止めた。
少し考えるような間があって、
「長谷川さんと話すときは、もう、隠さなくていいです」
と言った。
「同じ癖の人はいます。それだけで、すぐに分かるとは思いません。でも、絶対ではないです」
湯乃宮は、長谷川がさっきまで立っていた場所を見た。
「それより、また長谷川さんに、自分のせいだと思わせたくありません。写真の角度は、私が気をつけます」
湯乃宮は、本の背をもう一冊そろえた。
「それに、隠している日谷沢くんの手は、写真として不自然でした」
「監督の意見?」
「監督の意見です」
ばれなくなったわけじゃない。
それでも、長谷川の前で本を普通に持っていい。そのほうが、今は嬉しかった。
俺は、少しだけ肩の力が抜けた。
◆ 湯乃宮穂花
家に帰って、今日の写真を見返した。
いい写真だと思う。長谷川さんの指先がちゃんと物語を指していて、日谷沢くんの手は、それを待っている。
撮りながら、少しだけ胸が熱くなった。こういう瞬間を撮りたくて、私はずっとカメラを持ってきたのだと思う。
日谷沢くんは、私と話すときより、ずっと不器用だった。
でも、長谷川さんが話しているあいだ、一度も急かさなかった。本当に、最後の一文字まで待っていた。
片想いは本当なんだな、と改めて思った。
その優しさを、いいな、と思った。
それから、少しだけ寂しくなった。
二人を見守るのは、楽しかった。でも、気づいたら私は、いつものようにカメラの後ろにいた。そこが、最初から自分の場所みたいに。
前の学校でも、その前の学校でも、行事の写真に私はいなかった。転校生はすぐに馴染めないから、写真が得意なら撮る係をお願い、と言われた。撮る係なら、輪の外にいても不自然じゃなかった。
だから、慣れている。
……慣れている、はずだった。
これは、恋じゃないと思う。たぶん。
フォルダを、最初から見返す。
本と、手と、二人の放課後。佐伯さんが撮ってくれた、お手本の一枚で指を止めた。私の手も、ちゃんと写っている。
でも、長谷川さんの代わりに立った一枚だ。撮り終えたらすぐ、場所を返した。
三人で、あんなに楽しかったはずなのに。
三人でいた時間を、三人で残した写真が欲しかった。




