第3話 好きな人の前では、おすすめの一冊すら選べない
放課後の図書室は、思っていたより混んでいた。
選書の作業には、司書の先生の許可で、奥のグループ学習コーナーを使わせてもらえることになっていた。小声なら話してもいい場所だ。
演出プラン①、窓側の席。
三年生で満席だった。参考書と付箋の壁が、窓からの光を全部受け止めている。逆光で表情が柔らかく見えているのは、受験生のみなさんだった。
「……あそこ、空いてる」
長谷川が小さく指さしたのは、書架に挟まれた真ん中の机だった。照明は蛍光灯。
演出、初手で崩壊。
向かい合って座る。カウンターでは司書の先生が返却本を処理していて、隣の机では知らない一年生が二人、黙々と課題をやっている。いつもの図書室だ。二人きり、というわけでもない。
それなのに、心臓がうるさい。
長谷川が、机の上にスマホを置いた。
その画面が、通知でぱっと光った。
待ち受けが、変わっていた。
無地の布の上。カバーを外した文庫本のページを、誰かの手が押さえている。
今朝、上がったばかりの二枚目だった。
更新が早い。
推しへの対応が、早い。
俺はプラン④を思い出した。手の癖は出さないでください。
両手を、そっと制服のポケットに入れた。
「えっと」
長谷川が、佐伯から渡されたプリントを広げた。
「展示する本、二十冊。一人、十冊ずつ……だって」
「了解」
会話が終わった。
まずい。プラン③、話題は本。本の話をしなければ。
実を言うと、話したい本は決まっていた。
『ふたり分の帰り道』。歩く速さの違う二人が、毎日同じ道を帰るだけの恋愛小説だ。地味なのに、読み終わったあとしばらく、自分の帰り道まで違って見えた。
一学期の終わり、長谷川が教室でその本を読んでいるのを見た。俺が春に読み終えたのと、同じ本だった。
話したい。
でも、恋愛小説を薦めたら、意識していると思われないか。
思われる。たぶん思われる。
「……旅行の本とか、どうかな」
俺は立ち上がって、一番近い棚から一冊抜いた。『はじめての一人旅』。
両手で持って、表紙を長谷川に見せる。小指は、意地でも本の底に回さない。
「喫茶店で読むなら、こういうのも、ありかなって」
「……うん」
長谷川は頷いて、すっと立ち上がった。
「私も、探してくる」
そして、なぜか一番遠い棚に向かった。
五分後、戻ってきた長谷川が抱えていたのは、『見せる収納、隠す収納』だった。
「……収納?」
「喫茶店に、本棚、置くから」
長谷川は、本を胸に抱えたまま言った。
「本棚の、参考に……なるかなって」
なるかもしれない。なるかもしれないが、それは展示する本ではなく、展示する人が読む本だ。
でも、旅行の本を持ってきた俺に、それを言う資格はなかった。
俺は黙って『週末の小さな旅』を取ってきた。長谷川は黙って『ひとり暮らしの段取り帖』を取ってきた。お互い、相手の選んだ本には一言も触れなかった。触れたら、自分の本を選んだ理由も聞かれるからだ。
二十分後。
机の上には、こんな本が積み上がっていた。
『はじめての一人旅』
『見せる収納、隠す収納』
『ひとり暮らしの段取り帖』
『週末の小さな旅』
『暮らしを軽くする片づけ術』
「進捗、どう?」
進行表を抱えた佐伯が、机の横で足を止めた。積まれた背表紙を、上から順に眺める。
しばらく黙ってから、首をかしげた。
「読書喫茶というより、引っ越しの相談窓口になってる」
反論できなかった。
「それと、言い忘れてたけど」
佐伯が、進行表をめくった。
「選ぶのは、自分で読んだことのある本だけにして。あとで、一冊ずつにおすすめのカードを書いてもらう予定だから」
……読んだことは、あった。俺も長谷川も、たぶん全部。
読んだことのある本の中から、一番当たり障りのないものを選んでいただけだ。
長谷川は、本の山を見て固まっていた。
「……一回、選び直そうか」
「……うん」
佐伯がほかの班の様子を見に行ったあと、俺は文芸の棚の前に立った。
もう、逃げても仕方ない。
『ふたり分の帰り道』に、手を伸ばす。
その背表紙に、もう一つ、手が伸びてきた。
長谷川の手だった。
指先が、背表紙の上で止まる。触れる、一センチ手前で。
二人とも、手を引っこめた。
「……好きなんだ? これ」
俺が聞くと、長谷川は本を見たまま、小さく頷いた。
「前から、好き」
心臓が止まるかと思った。
「――この、作者が」
すぐに付け足された。
……作者が。そうだよな。作者がな。
「俺も」
言ってから、気づいた。
前から好き、の直後に、俺も。
妙な間ができた。図書室の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
「ほ、本のことだよ」
「わ、分かってる。私も、本のこと」
二人そろって、本のことだと言い直した。
隣の机の一年生が、そっと顔を上げて、またそっと課題に戻った。
*
本を一冊、机に置いて向かい合う。
どの場面が好きか、という話になった。
「……八章の、帰り道のところ」
長谷川が言った。
「歩くのが遅いほうが、急いで追いつこうとするでしょ。そしたら、速いほうが『急がなくていい』って言って、黙って歩く速さを落とすの。何も言わないで。……あそこが、好き」
ゆっくりで、でも途切れない声だった。
昨日の昼休みの、あの早口とは違う。一つ一つ、言葉を選んで置いていくみたいな話し方。
俺は口を挟まなかった。長谷川が最後まで言い終わるのを、待った。
「俺も、そこが一番好きだ」
長谷川が、ほんの少しだけ顔を上げた。
目は合わない。長谷川の視線は、机の上の、俺の手のあたりで止まった。
俺は慌てて、その手をポケットに戻した。
「……続きも、読んだ?」
質問が、返ってきた。
長谷川から、俺に。
「読んだ。二巻も、家にある」
貸そうか、と続ければよかった。
その一言が、喉の手前で止まった。
貸したら、長谷川は読む。読んだら、返しに来る。返しに来たら、たぶん感想を言ってくれる。
そこまで考えたところで、「重い」と思われる未来まで一緒に見えてしまって、口が閉じた。考えすぎる。いつもの俺だ。
三十秒。たぶん、それくらいの会話だった。
でも、中学から数えても、長谷川と一番長く話した三十秒だった。
*
「選び直し、進んでるね」
戻ってきた佐伯が、机の上を見て頷いた。『ふたり分の帰り道』を真ん中に、今度はちゃんと小説が並び始めている。
「それと、明日の広報写真の件。本を渡す手と、受け取る手を撮りたいって、湯乃宮さんから」
佐伯が、進行表をめくる。
「受け取る役は、選書した日谷沢くんで。渡す役は――」
「渡すほう」
小さな声だった。
「……私でも、いい?」
長谷川だった。
佐伯は一秒だけ長谷川を見て、それから何事もなかったように進行表に書き込んだ。
「渡す役、長谷川さん。決定」
仕事を引き受けてくれたんだな、と俺は思った。長谷川は、真面目だから。
*
その夜。
『報告をお願いします』
湯乃宮からだった。
『窓側、満席だった』
『照明の問題ではなかったようですね』
ぐうの音も出ない。
『明日の撮影、よろしくお願いします。受け取る手は、日谷沢くんですね』
その一文を読んで、俺はようやく気づいた。
明日、俺の手が撮られる。
"余白の手"のファンの、目の前で。
◆ 長谷川向葵
中学二年の、国語の発表だった。
前に出て、原稿を読み始めて、三行目で言葉が出なくなった。頭が真っ白になって、教室がざわざわし始めて、誰かが小さく笑った。
そのとき、一番前の席の日谷沢くんが、小さな声で言った。たぶん、教壇の私にしか聞こえない声で。
「待ってるから」
それだけ言って、本当に、黙って待っていてくれた。
私が息を吸い直して原稿を持ち直すと、周りのざわざわも、少しずつ静かになった。私は、最後まで読めた。
たぶん、あの日から好きなんだと思う。
日谷沢くんの前だと、言葉が短くなる。言いたいことがありすぎて、どれから言えばいいのか分からなくなる。
顔を見るのも、恥ずかしい。だからいつも、つい手元ばかり見てしまう。
日谷沢くんは、本をいつも机に置いたまま読む。手に持って読んでいるところは、見たことがない。
日谷沢くんの手は、指が長い。ページをめくるときは、紙の端をつまむんじゃなくて、指の腹で、そっと送るようにめくる。そういうことばかり、知っている。
一巻を読んだのも、日谷沢くんが教室で読んでいたからだった。でも読んだら、本当に好きになった。だからずっと、その話をしてみたかった。
今日、少しだけできた。
……でも、今日の日谷沢くんは、ずっとポケットに手を入れていた。
私といるの、退屈なのかな。
推しは、"余白の手"の人。
好きな人は、日谷沢くん。
その二つは、全然違う。




