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隣の席の転校生に"手"を貸したら、片想い中のあの子の推しになっていた  作者: 富益 啓


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3/13

第3話 好きな人の前では、おすすめの一冊すら選べない

 放課後の図書室は、思っていたより混んでいた。

 選書の作業には、司書の先生の許可で、奥のグループ学習コーナーを使わせてもらえることになっていた。小声なら話してもいい場所だ。


 演出プラン①、窓側の席。

 三年生で満席だった。参考書と付箋の壁が、窓からの光を全部受け止めている。逆光で表情が柔らかく見えているのは、受験生のみなさんだった。


「……あそこ、空いてる」


 長谷川が小さく指さしたのは、書架に挟まれた真ん中の机だった。照明は蛍光灯。

 演出、初手で崩壊。


 向かい合って座る。カウンターでは司書の先生が返却本を処理していて、隣の机では知らない一年生が二人、黙々と課題をやっている。いつもの図書室だ。二人きり、というわけでもない。

 それなのに、心臓がうるさい。


 長谷川が、机の上にスマホを置いた。

 その画面が、通知でぱっと光った。


 待ち受けが、変わっていた。

 無地の布の上。カバーを外した文庫本のページを、誰かの手が押さえている。

 今朝、上がったばかりの二枚目だった。


 更新が早い。

 推しへの対応が、早い。


 俺はプラン④を思い出した。手の癖は出さないでください。

 両手を、そっと制服のポケットに入れた。


「えっと」


 長谷川が、佐伯から渡されたプリントを広げた。


「展示する本、二十冊。一人、十冊ずつ……だって」

「了解」


 会話が終わった。

 まずい。プラン③、話題は本。本の話をしなければ。


 実を言うと、話したい本は決まっていた。

 『ふたり分の帰り道』。歩く速さの違う二人が、毎日同じ道を帰るだけの恋愛小説だ。地味なのに、読み終わったあとしばらく、自分の帰り道まで違って見えた。

 一学期の終わり、長谷川が教室でその本を読んでいるのを見た。俺が春に読み終えたのと、同じ本だった。


 話したい。

 でも、恋愛小説を薦めたら、意識していると思われないか。

 思われる。たぶん思われる。


「……旅行の本とか、どうかな」


 俺は立ち上がって、一番近い棚から一冊抜いた。『はじめての一人旅』。

 両手で持って、表紙を長谷川に見せる。小指は、意地でも本の底に回さない。


「喫茶店で読むなら、こういうのも、ありかなって」

「……うん」


 長谷川は頷いて、すっと立ち上がった。


「私も、探してくる」


 そして、なぜか一番遠い棚に向かった。


 五分後、戻ってきた長谷川が抱えていたのは、『見せる収納、隠す収納』だった。


「……収納?」

「喫茶店に、本棚、置くから」


 長谷川は、本を胸に抱えたまま言った。


「本棚の、参考に……なるかなって」


 なるかもしれない。なるかもしれないが、それは展示する本ではなく、展示する人が読む本だ。

 でも、旅行の本を持ってきた俺に、それを言う資格はなかった。

 俺は黙って『週末の小さな旅』を取ってきた。長谷川は黙って『ひとり暮らしの段取り帖』を取ってきた。お互い、相手の選んだ本には一言も触れなかった。触れたら、自分の本を選んだ理由も聞かれるからだ。


 二十分後。

 机の上には、こんな本が積み上がっていた。


 『はじめての一人旅』

 『見せる収納、隠す収納』

 『ひとり暮らしの段取り帖』

 『週末の小さな旅』

 『暮らしを軽くする片づけ術』


「進捗、どう?」


 進行表を抱えた佐伯が、机の横で足を止めた。積まれた背表紙を、上から順に眺める。

 しばらく黙ってから、首をかしげた。


「読書喫茶というより、引っ越しの相談窓口になってる」


 反論できなかった。


「それと、言い忘れてたけど」


 佐伯が、進行表をめくった。


「選ぶのは、自分で読んだことのある本だけにして。あとで、一冊ずつにおすすめのカードを書いてもらう予定だから」


 ……読んだことは、あった。俺も長谷川も、たぶん全部。

 読んだことのある本の中から、一番当たり障りのないものを選んでいただけだ。

 長谷川は、本の山を見て固まっていた。


「……一回、選び直そうか」

「……うん」


 佐伯がほかの班の様子を見に行ったあと、俺は文芸の棚の前に立った。

 もう、逃げても仕方ない。


 『ふたり分の帰り道』に、手を伸ばす。

 その背表紙に、もう一つ、手が伸びてきた。


 長谷川の手だった。


 指先が、背表紙の上で止まる。触れる、一センチ手前で。

 二人とも、手を引っこめた。


「……好きなんだ? これ」


 俺が聞くと、長谷川は本を見たまま、小さく頷いた。


「前から、好き」


 心臓が止まるかと思った。


「――この、作者が」


 すぐに付け足された。

 ……作者が。そうだよな。作者がな。


「俺も」


 言ってから、気づいた。

 前から好き、の直後に、俺も。

 妙な間ができた。図書室の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。


「ほ、本のことだよ」

「わ、分かってる。私も、本のこと」


 二人そろって、本のことだと言い直した。

 隣の机の一年生が、そっと顔を上げて、またそっと課題に戻った。


   *


 本を一冊、机に置いて向かい合う。

 どの場面が好きか、という話になった。


「……八章の、帰り道のところ」


 長谷川が言った。


「歩くのが遅いほうが、急いで追いつこうとするでしょ。そしたら、速いほうが『急がなくていい』って言って、黙って歩く速さを落とすの。何も言わないで。……あそこが、好き」


 ゆっくりで、でも途切れない声だった。

 昨日の昼休みの、あの早口とは違う。一つ一つ、言葉を選んで置いていくみたいな話し方。

 俺は口を挟まなかった。長谷川が最後まで言い終わるのを、待った。


「俺も、そこが一番好きだ」


 長谷川が、ほんの少しだけ顔を上げた。

 目は合わない。長谷川の視線は、机の上の、俺の手のあたりで止まった。

 俺は慌てて、その手をポケットに戻した。


「……続きも、読んだ?」


 質問が、返ってきた。

 長谷川から、俺に。


「読んだ。二巻も、家にある」


 貸そうか、と続ければよかった。

 その一言が、喉の手前で止まった。

 貸したら、長谷川は読む。読んだら、返しに来る。返しに来たら、たぶん感想を言ってくれる。

 そこまで考えたところで、「重い」と思われる未来まで一緒に見えてしまって、口が閉じた。考えすぎる。いつもの俺だ。


 三十秒。たぶん、それくらいの会話だった。

 でも、中学から数えても、長谷川と一番長く話した三十秒だった。


   *


「選び直し、進んでるね」


 戻ってきた佐伯が、机の上を見て頷いた。『ふたり分の帰り道』を真ん中に、今度はちゃんと小説が並び始めている。


「それと、明日の広報写真の件。本を渡す手と、受け取る手を撮りたいって、湯乃宮さんから」


 佐伯が、進行表をめくる。


「受け取る役は、選書した日谷沢くんで。渡す役は――」

「渡すほう」


 小さな声だった。


「……私でも、いい?」


 長谷川だった。


 佐伯は一秒だけ長谷川を見て、それから何事もなかったように進行表に書き込んだ。


「渡す役、長谷川さん。決定」


 仕事を引き受けてくれたんだな、と俺は思った。長谷川は、真面目だから。


   *


 その夜。


『報告をお願いします』


 湯乃宮からだった。


『窓側、満席だった』

『照明の問題ではなかったようですね』


 ぐうの音も出ない。


『明日の撮影、よろしくお願いします。受け取る手は、日谷沢くんですね』


 その一文を読んで、俺はようやく気づいた。

 明日、俺の手が撮られる。

 "余白の手"のファンの、目の前で。


   ◆ 長谷川向葵


 中学二年の、国語の発表だった。


 前に出て、原稿を読み始めて、三行目で言葉が出なくなった。頭が真っ白になって、教室がざわざわし始めて、誰かが小さく笑った。

 そのとき、一番前の席の日谷沢くんが、小さな声で言った。たぶん、教壇の私にしか聞こえない声で。


「待ってるから」


 それだけ言って、本当に、黙って待っていてくれた。

 私が息を吸い直して原稿を持ち直すと、周りのざわざわも、少しずつ静かになった。私は、最後まで読めた。


 たぶん、あの日から好きなんだと思う。


 日谷沢くんの前だと、言葉が短くなる。言いたいことがありすぎて、どれから言えばいいのか分からなくなる。

 顔を見るのも、恥ずかしい。だからいつも、つい手元ばかり見てしまう。

 日谷沢くんは、本をいつも机に置いたまま読む。手に持って読んでいるところは、見たことがない。

 日谷沢くんの手は、指が長い。ページをめくるときは、紙の端をつまむんじゃなくて、指の腹で、そっと送るようにめくる。そういうことばかり、知っている。


 一巻を読んだのも、日谷沢くんが教室で読んでいたからだった。でも読んだら、本当に好きになった。だからずっと、その話をしてみたかった。

 今日、少しだけできた。


 ……でも、今日の日谷沢くんは、ずっとポケットに手を入れていた。

 私といるの、退屈なのかな。


 推しは、"余白の手"の人。

 好きな人は、日谷沢くん。


 その二つは、全然違う。


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