第2話 好きな子の推しは、俺の手でした
好きな子の待ち受けが、自分の手だった。
この状況に名前をつけられる人がいたら、教えてほしい。
ホームルームが始まる前、俺は隣の席に体を寄せて、声を落とした。
「湯乃宮」
「はい」
「長谷川の待ち受け、昨日のあれだった」
湯乃宮は教科書をそろえる手を止めて、ゆっくり一度、瞬きをした。
「……そうですか」
それから、真顔のまま言った。
「作者としては光栄で、共犯としては怖いです」
「俺は怖いしかない」
「被写体なので」
慰めになっていない。
背中のほうから、ページをめくる音がする。長谷川はいつもどおり、静かに本を読んでいる。
あの子のスマホの中に、俺の手がいる。
考えないようにすればするほど、右手の置き場が分からなくなった。
*
昼休み。
湯乃宮が鞄から弁当を出しかけたところで、後ろから椅子を引く音がした。
「あの……湯乃宮さん」
長谷川だった。
弁当箱を両手で持って、湯乃宮の机の横に立っている。声が小さい。俺に話しかけるときほどではないけれど、小さい。
長谷川は、昼はたいてい、自分の席で本を読みながら一人で食べている。友達がいないわけじゃない。休み時間には、女子の友達と普通に話して、普通に笑っている。
口数が極端に減るのは、俺の前でだけだ。少なくとも、俺にはそう見える。だから俺は、たぶん自分は嫌われているのだろう、と思ってきた。
その長谷川が、転校生を昼に誘っていた。
「お昼、よかったら……一緒に、どう、かな」
湯乃宮が、一瞬固まった。
それから、ふわりと笑った。
「はい。ぜひ」
長谷川は自分の椅子を引っぱってきて、湯乃宮の机に寄せた。
つまり、俺の隣の隣に、長谷川がいる。距離にして、腕一本と少し。
いつも一緒に食べている友達は、今日に限って委員会でいない。俺は購買のパンの袋を開けて、文庫本を開いた。読めるわけがなかった。
「あの、湯乃宮さんと、日谷沢くんって」
自分の名前が出て、パンを喉に詰まらせかけた。
「転校する前から、知り合いだったの?」
「いいえ」
湯乃宮は、迷わずに答えた。
「昨日の帰りに、困っていたところを助けてもらったんです」
「……そっか」
長谷川はそれだけ言って、卵焼きを口に運んだ。
転校生のことが気になるのは分かる。初日から隣の席の男子と普通に喋っているのを見れば、そりゃ気にもなる。俺の名前が出たのは、たぶんついでだ。
「湯乃宮さんは、休みの日とか、何してるの?」
「写真を撮るのが好きで」
その瞬間、長谷川の目の色が変わった。
「写真!」
声が、一段高くなった。
「じゃあ、これ知ってる?」
長谷川がスマホを取り出して、画面を湯乃宮に向ける。
俺の位置からも、見えてしまう。
『放課後の余白』のプロフィール画面だった。
「……はい。知っています」
湯乃宮の返事は、完璧に平静だった。さすがだ。
「ほんと? 私ね、中学のときからずっと見てて。でもね、昨日のが、もう本当に、本当にすごくて」
長谷川が画面をタップする。昨日の写真が、大きく映る。
紙コップと、俺の手。
「今まで、人が一回も写ってなかったの。それが初めて、手が写ってて。見て、この手の人、指が長くて、でも細すぎなくて、小指で底を支えてるでしょ。こういう持ち方をする人って、相手の分までこぼさないように気をつける人だと思う。それにね、手が、隣のコップのほうにちょっとだけ向いてるの。待ってるんだよ、たぶん。もう一人が飲み終わるのを」
早口だった。
長谷川がこんなに喋るのを、俺は初めて見た。
中二のころから、俺の前ではいつも「うん」と「そう」と「……ありがと」くらいしか言わない長谷川が、身を乗り出して、目をきらきらさせて、止まらない。
「それで、この一文」
長谷川は、画面の文字をそっと指でなぞった。
「『飲む速さも違う二人、でいいんじゃない?』って。……こういうことを言える人、好きだな」
――俺は、パンを置いた。
そっと、両手を机の下に隠した。
好きな子が、好きだと言った。
俺の手と、俺の言葉を。
そして俺は、一ミリも名乗れない。
湯乃宮は湯乃宮で、静かに追い詰められていた。
「湯乃宮さんは、どの写真が好き?」
「え、ええと」
「私、これも好き。この夕方の光、すごくきれいだよね」
長谷川が、少し前の投稿を開く。
窓辺の机に、西日がまっすぐ差し込んでいる写真だった。
「そこ、三日待っ……」
湯乃宮の口が、止まった。
「……待てば、撮れると、思います」
「え?」
「なんでもありません。天気の話です」
天気の話ではない。三日待ったんだ、あの光を。
褒められて嬉しいのと、作者だと言えないのとで、湯乃宮の顔は見たことのない形にゆがんでいた。思わず肩を震わせた俺の足に、机の下から湯乃宮の上履きがこつんと当たった。
予鈴が鳴った。
長谷川がはっとして顔を上げる。その目が、隣の席の俺のところで止まった。
……ずっとそこにいたことに、今気づいたらしい。
長谷川の顔が、みるみる赤くなった。
何も言わずに椅子を戻して、自分の席に座る。真後ろから、本を開く音がした。逆さまに開いていないといいけど。
*
六時間目のホームルームは、文化祭の担当決めだった。
「出し物は、一学期に決めたとおり読書喫茶です」
教壇に立ったのは、学級委員と文化祭実行委員を兼ねる佐伯千景だ。手には、びっしりと書き込まれた手書きの進行表。
「今日は担当を決めます。展示する本を選ぶ係、広報の写真を作る係、教室の展示を組む係。まず、選書から」
すっと、一本の手が挙がった。
長谷川だった。
俺も、手を挙げた。
理由は、言うまでもない。
佐伯は進行表にペンを走らせながら、俺を一瞥した。
「立候補の理由は聞きません。工程に関係ないので」
「……助かる」
広報写真は、湯乃宮が「写真が好きなので」と手を挙げて、すんなり決まった。
佐伯は残りの担当を手際よく割り振って、最後に付け足した。
「掲示の印刷は、写真部に相談しておきます。選書の作業は明日の放課後、図書室で。以上」
明日の放課後。図書室。長谷川と。
心臓が、工程表にない動きをした。
*
放課後。昨日と同じ、通学路の広場のベンチで、湯乃宮がスマホを見せてきた。
「昨日の投稿です」
数字の桁が、俺の知っている世界と違った。
「過去最高です。それで、こういう声がとても多くて」
コメント欄を、湯乃宮の指がスクロールしていく。
『次も、あの手で』
『手の人の放課後、もっと見たい』
『手、レギュラーでお願いします』
「レギュラー」
「レギュラーです」
湯乃宮は膝の上で手をそろえて、まっすぐ俺を見た。
「日谷沢くん。週に一度、放課後に、手を貸してください」
「……代わりに?」
「代わりに」
一拍おいて、湯乃宮は言った。
「長谷川さんと話せるように、私が演出します」
「演出って何するの」
「まず光です」
「光」
「人は、光の当たり方で印象が三割変わります」
三割。根拠は分からないけど、言い切られると妙に説得力がある。
俺は少し考えた。
好きな子の推しを、俺が続ける。冷静に考えると、かなりおかしい。
でも湯乃宮は困っていて、俺には手がある。
「条件がある」
「はい」
「顔とか、俺だって分かるものは写さない。あと、嫌になったらいつでもやめられる」
「当然です」
湯乃宮は即答して、少しだけ表情をゆるめた。
「最初から、そのつもりでした」
撮影の日程を決めるために、連絡先を交換した。
そのまま、二枚目を撮った。湯乃宮が鞄から出した無地の布をベンチに敷き、その上で、カバーを外した文庫本のページを、俺の手が押さえる。題名も、背景も写らない。
撮り終えた湯乃宮は、画面を見て小さく頷いた。
「……本、似合いますね。その手」
「褒めてる?」
「記録です」
広場を出て駅へ向かう途中、湯乃宮がぽつりと言った。
「四回転校して、二日目にお昼に誘われたのは、初めてです」
前を向いたままの横顔だった。
「じゃあ今日は、記念日だな」
「記念日」
湯乃宮は、その言葉を確かめるみたいに繰り返して、笑った。
「記念日なら、撮っておけばよかったです」
何でも撮る人なのに、と思った。
何でも撮る人の、自分の記念日の写真は、どこにあるんだろう。
*
その夜、湯乃宮から連絡が来た。
『明日の演出プランです』
『①窓側の席で
②逆光は表情が柔らかく見えます
③話題は本
④手の癖は出さないでください』
少し間があって、もう一通。
『長谷川さんは、あの手のファンです』
知ってる。今日、目の前で聞いた。
俺はスマホを置いて、天井を見た。
好きな子の前で、好きな子の推しを隠す。
明日の俺の仕事は、それらしい。




