第1話 隣の席の転校生に、手を貸した
中学二年から、ずっと好きな人がいる。
そして俺は、好きになってから一度も、その人に自分から「おはよう」を言えていない。
理由は単純で、考えすぎるからだ。
今朝も、昇降口から教室までの間に、挨拶を十二通り用意した。普通の「おはよう」。少し明るい「おはよう」。目が合ったとき用。合わなかったとき用。天気に触れる型、課題に触れる型、九月なのに暑すぎる件に触れる型。
教室に入る。
俺の席の真後ろで、長谷川向葵が文庫本を読んでいた。
顔を上げた長谷川と、一瞬だけ目が合う。
長谷川は、すっと目を伏せた。
十二通りが、全部消えた。
俺は無言で席に着いた。挨拶、ゼロ。
*
「湯乃宮穂花です。親の仕事の都合で、夏休みに引っ越してきました」
朝のホームルームで教壇に立った転校生は、よく通る声でそう言った。
背筋がまっすぐで、髪がきれいに整っていて、黒板の前に立つ姿がやけに絵になる。
「転校は四回目なので、慣れています。よろしくお願いします」
穏やかに笑って、頭を下げる。教室のあちこちから拍手が起きた。
ただ、俺は見てしまった。名前を言う前、彼女が一度だけ、肩が上がるほど深く息を吸ったのを。
慣れている人は、たぶんあんなふうに息を吸わない。
……まあ、俺が言うことでもない。
「湯乃宮の席は、日谷沢の隣な。日谷沢、色々教えてやれ」
担任の一言で、俺の隣の空席に彼女が座った。
「よろしくお願いします、日谷沢くん」
「よろしく。分からないことあったら聞いて」
「ありがとうございます」
普通に話せた。
好きな人以外とは、俺――日谷沢新太は、わりと普通に話せる。それが何の慰めにもならないことも、よく知っている。
一時間目の前、前の席からプリントが回ってきた。
チャンスだ、と思った。朝の分を取り返せる。振り向けば、長谷川がいる。
振り向く。
長谷川が、また目を伏せる。視線が、俺の手元のあたりに落ちる。
「……プリント、後ろに回して」
口から出たのは、それだった。
長谷川は小さく「うん」と言って受け取った。会話、終了。所要時間、二秒。
後ろに回して、ってなんだ。言われなくても回す。長谷川のほうが、自分の後ろの席に誰が座っているかを俺よりよく知っている。
前に向き直ると、隣の湯乃宮がちらりとこちらを見て、すぐに教科書へ視線を戻した。
明日こそ、自分から挨拶する。
好きになってから、たぶん何百回目かの決意だった。
*
その日の湯乃宮は、絵に描いたような優等生だった。
数学の問題は誰より早く解き終わり、英語の音読は発音がきれいで、休み時間に話しかけてくる一人一人に丁寧に返事をしていた。
隣の席として、教えることは何もなかった。
放課後。駅へ向かう通学路の途中に、小さな広場がある。ベンチが三つと、植え込みと、たまに鳩。
そのベンチの前に、湯乃宮がしゃがみ込んでいた。
ベンチの上には、白い紙コップが二つ。並べ方がやけに丁寧だ。湯乃宮はスマホを構えては首を傾げ、コップを一センチずらしては、また構える。
真剣な横顔だった。教室で見たどの顔より。
「……湯乃宮?」
声をかけた瞬間、彼女の肩が跳ねた。
「ひ、日谷沢くん」
慌てて立ち上がり、スカートの裾を払う。それから、何事もなかったように微笑んだ。教室と同じ、優等生の顔だ。
「お帰りですか」
「お帰りです。……何してんの?」
「撮影です」
あっさり言った。
「放課後に、二人分の飲み物がある風景。そういう写真を撮っていて」
「へえ」
ベンチを見る。
紙コップの中身は、アイスティーらしい。らしい、というのは、どちらもほとんど残っていないからだ。片方は底がうっすら見える程度。もう片方は半分。
「……減ってない?」
「構図を直しているうちに、暑くて」
湯乃宮は目を逸らした。
「一口だけ、と思ったんです。最初は。でも構図が決まらなくて、そのたびに、一口」
「両方?」
「……両方」
俺は紙コップを見て、湯乃宮を見て、もう一度紙コップを見た。
「二人分の放課後を作ってるのに、胃袋は一人分なんだな」
湯乃宮の優等生の顔が、音を立てて崩れた。
「……それは、言わないでいただけると」
「ごめん。でも事実だから」
「事実だから困るんです」
両手で顔を覆う。耳まで赤い。教室での完璧さはどこに行ったのか。なんだか、少しほっとした。
「量が揃っていないのが、気になっていて」
指の隙間から、湯乃宮が言う。
「二人でいるのに、片方だけ減っているのは、不自然かなって」
「別に、よくない?」
「え?」
「飲む速さも違う二人、でいいんじゃない? 片方が先に飲み終わって、もう片方を待ってる、みたいな」
湯乃宮が、顔から手を下ろした。
俺を見る。それから紙コップを見る。何かを測るみたいな目だった。
そのとき、ぬるい風が吹いた。
中身の少ないほうのコップが、ふらりと傾く。
「あ」
とっさに手を伸ばして、持ち上げた。紙コップは軽い。こぼれないように、底を小指で支えて――。
「動かないでください」
鋭い声だった。
「そのまま。そのままで」
湯乃宮がスマホを構えていた。さっきまで顔を覆っていた人とは思えない速さだった。シャッター音が、二回、三回。
「……今の持ち方」
画面から目を離さないまま、彼女は言った。
「小指で、底を支えてますよね」
「え、ああ。癖、かな」
「それです。ずっと、それが足りなかったんです」
湯乃宮が顔を上げる。目が真剣だった。
「それに、指が長いです。節が目立たないのに、骨の線がきれいに出る。写真に向いている手です」
「……それ、褒めてる?」
「被写体としての評価です」
「人の気配。物だけだと、どうしても『誰かがいた』感じが出なくて」
それから少しだけ言いよどんで、頭を下げた。
「日谷沢くん。一枚だけ、手を貸してもらえませんか」
*
手を貸す、というのは、文字どおりの意味だった。
「もう三センチ近く」
「カップを?」
「手も……少しだけ」
言われたとおりに寄せる。湯乃宮が身を乗り出して、俺の指の角度を直した。
彼女の指先が、俺の人差し指に触れる。
一瞬、湯乃宮の動きが止まった。
「……あの」
「はい」
「指示する側が赤くなるの、どうなの」
「なっていません」
「なってる」
「なっていません。光の加減です」
夕方の光は、たしかに橙色だった。でも湯乃宮の耳の赤さは、それとは別の色に見えた。
「監督が一番動揺してる」
「現場が想定外です」
即答だった。
思わず吹き出すと、湯乃宮も小さく笑った。その笑い方は、教室で見たどれとも違った。
自分でも、驚くくらい言葉が出ていた。
困っている人が目の前にいると、俺は、自分のことを考えなくて済む。何を言えばいいかは、相手の困りごとが教えてくれる。
長谷川の前でだけ、それができない。長谷川の前では、俺は自分のことしか考えられなくなる。どう見えるか。変に思われないか。嫌われていないか。考えているうちに、話が終わる。
撮り終えた写真を、湯乃宮が見せてくれた。
夕方の光。ベンチの上の、二つの紙コップ。空に近いほうのコップの底を、誰かの手がそっと支えている。もう片方は半分残ったまま、その隣で待っている。
自分の手だと分かっているのに、知らない誰かの放課後みたいだった。
「……すごいな」
「ありがとうございます」
湯乃宮は少し迷ってから、スマホの画面を切り替えた。
「この写真、ここに載せてもいいですか」
見覚えのある画面だった。
写真と短い文だけのアカウント。人の顔はひとつも写らないのに、どの写真にも、誰かと過ごした放課後の匂いがする。
『放課後の余白』。フォロワー、約二十三万人。
「……これ、見たことある」
「そうですか」
「え、待って。これ、湯乃宮の?」
「はい。私です」
拍子抜けするほど、まっすぐな答えだった。
「中学二年の夏に始めて、一枚がたまたま大きく広まってから、増えました。私の力というより、運です」
「学校の人には、言っていません。言わないでいてもらえると、助かります」
それから二人で、写真を細かく確かめた。
顔は写っていない。袖口の校章は画面の外。名札は付けていない。腕時計は袖に隠れている。背景はぼかしてあって、ベンチも植え込みも、どこにでもあるものにしか見えない。
「顔も、学校も、場所も分からないようにしています。それが、このアカウントの決まりなので」
湯乃宮は、指を折りながら続けた。
「写真に位置の記録は残らない設定にしてあります。投稿の時間は毎回ずらしますし、背景の質感も、少しだけ加工でつぶします。制服の生地とか、ベンチの塗装とか、そういうところから場所を探す人は、思っているより多いので」
転校生の優等生、という顔とは別の顔だった。二年間、ずっと一人で気をつけてきた人の顔だった。
「なら、いいよ」
湯乃宮はほっとしたように息をついて、それから、もう一つ、と言った。
「さっきの言葉も、使わせてもらえませんか」
「さっきの?」
「『飲む速さも違う二人、でいいんじゃない?』」
自分の台詞を真顔で読み上げられるのは、思っていた百倍恥ずかしかった。
「……好きにして」
「ありがとうございます」
*
湯乃宮のトートバッグには、小さな三脚と、折りたたんだ布と、予備の紙コップが入っていた。本格的だ。
俺が三脚をたたんで小道具をしまっている間に、湯乃宮は自販機で買った水をようやく飲んでいた。紙コップ二つ分のアイスティーを飲んでおいて、まだ喉が渇いているらしい。暑さのせいということにしておく。
「日谷沢くん」
ペットボトルから口を離して、湯乃宮が言った。
「長谷川さんと話すときは、そんなふうに返さないんですね」
トートバッグのファスナーを閉める手が、止まった。
「……見てた?」
「隣の席なので」
プリントのことだ。
ごまかす言葉は、いくつか浮かんだ。別に、とか。話すことないし、とか。
でも、湯乃宮はさっき、自分から正体を明かした。俺だけ逃げるのは、なんだか違う気がした。
「中二から、好きなんだ」
言ってしまった。生まれて初めて、口に出して。
「本人には、言わないでほしい」
「言いません」
湯乃宮は、迷わずに頷いた。
「私も、言わないでもらうので」
「……弱みを握り合った、みたいな?」
「違います」
湯乃宮は少し考えてから、言い直した。
「お互いに、大事なものを預かった、です」
その言い方が、妙にしっくりきた。
*
その夜、『放課後の余白』に新しい写真が上がった。
キャプションは、一行だけ。
――飲む速さも違う二人、でいいんじゃない?
通知の数字が、見たことのない速さで増えていく。
『手!?』
『余白に初めて人が来た』
『小指で支えてるの、やさしい』
『この手の人がいる放課後、もっと見たい』
俺はベッドの上で、スマホを伏せた。
数字よりも、自分の一言が二十三万人に読まれていることのほうが、よほど落ち着かなかった。
*
翌朝。
昇降口から教室まで、俺は挨拶を一通りしか用意しなかった。
普通の「おはよう」。それだけ。
教室に入る。長谷川はもう席にいて、机の上でスマホを見ていた。
この学校では、授業中以外なら、音を出さずにスマホを使っていい。予鈴までは、まだ少しある。
自分の席の横で、立ち止まる。
「おはよう」
言えた。
長谷川が、弾かれたように顔を上げた。
「……お、おはよう」
返ってきた。
好きになってから初めて、自分から言えた「おはよう」に、返事が返ってきた。
内心でガッツポーズをしかけたとき、長谷川が慌てた手つきでスマホを伏せた。
伏せる直前、画面が見えた。
待ち受けだった。
夕方の光。ベンチの上の、二つの紙コップ。片方の底を、そっと支える手。
――昨日の紙コップと、俺の手だった。
◆ 長谷川向葵
日谷沢くんから、おはようって言われた。
……言われた。
どうしよう。ちゃんと返せたかな。声、裏返ってなかったかな。
それより、待ち受け。見られてないよね。
知らない男の人の手を待ち受けにしてるなんて知られたら、たぶん生きていけない。
推しは、"余白の手"の人。
好きな人は、中学二年のときからずっと、日谷沢くん。




