第12話 手の写真は、今日で最後です
火曜日の放課後。
駅の向こうまで歩く間、湯乃宮は、第二部の演出プランの進み具合を確認してきた。
「①、今朝の挨拶はどうでしたか」
「顔、見て言えた。たぶん」
「たぶん」
「途中で目、そらした」
「次は最後まで」
「厳しいな」
「②、メッセージは」
「週末、POPの修正で何往復か」
「何往復ですか」
「……数えてない」
「数えてください。工程管理です」
いつもの湯乃宮だった。
少なくとも、そう見えた。
着いたのは、古い歩道橋だった。
階段を上りきると、線路と、その先の住宅街と、低くなった太陽が一度に見えた。手すりの塗装はところどころ剥げていて、下を電車が通るたびに、足もとがかすかに揺れる。
「いい場所だな」
「はい。夕方の光が、まっすぐ入るので」
湯乃宮はトートバッグから、紙コップを一つ取り出した。
二つじゃなく、一つ。
橋の上の、通路が少し広くなった端に、持参した小さな折り畳み台を広げる。人が通るところも、階段の出口も塞がない、柵の内側だ。紙コップを台に置き、風に飛ばされないよう指で押さえてから、湯乃宮は俺のほうを向いた。
「撮る前に、話してもいいですか」
「うん」
「手の写真は、今日で最後にします」
電車が、下を通った。
足もとが揺れて、空の紙コップの底が、少しだけ光った。
「……え」
「すみません。急に」
「いや、急っていうか。なんで」
湯乃宮は、手すりに手を置いた。言葉を一つずつ確かめるような話し方だった。
「長谷川さんが、手を見ています。先週、日谷沢くんも言っていましたよね。やたら見てくるって」
「言ったけど」
「日谷沢くんは、聞かれたら、嘘をつかないんですよね」
「……つかない」
「だから、です。これ以上続けたら、いつか聞かれます。聞かれたら、日谷沢くんは答えます。それは、日谷沢くんにとっても、長谷川さんにとっても、急すぎると思います」
筋は通っていた。
湯乃宮の話は、いつも筋が通っている。
「それに」
湯乃宮は、少しだけ笑った。
「もう、演出がなくても話せていますから。連絡先も交換して、お昼も一緒に食べて。監督の出番は、あまりありません」
それも、本当のことだった。
本当のことしか言っていないのに、何かが足りない気がした。湯乃宮の写真には、いつも、最後の一枚まで全部がちゃんと写っているのに。
「湯乃宮は」
俺は聞いた。
「それで、いいの?」
「はい」
湯乃宮は、すぐに答えた。
「慣れていますから」
――慣れています。
転校初日の自己紹介。肩が上がるほど深く息を吸ってから言った、「慣れています」。
先週の木曜日、一日で四回聞いた「慣れています」。
昨日の昼、「放課後の席はなかった」のあとに付け足した「慣れていますから」。
この二週間で、俺は知ってしまった。
湯乃宮がその言葉を言うのは、たいてい、慣れていないときだ。
でも、それを言って、どうなるんだろう。
湯乃宮が決めたことだ。理由も、筋が通っている。それを押し返すだけの言葉を、俺は持っていなかった。
「……分かった」
それしか、言えなかった。
「『余白』は、続けるんだよな」
「はい。手が写らないだけです。前に、戻るだけ」
前に戻る。
二人分のコップを、一人で並べて撮っていた頃に。
湯乃宮はそれを、何でもないことみたいに言った。
「演出の第二部は?」
「それは、続けます」
湯乃宮は、すぐに答えた。
「撮影がなくなるだけです。監督は、やめません。文化祭の日まで、ちゃんと」
撮影はやめるのに、演出は続ける。
俺のためのほうだけ、残す。
それが湯乃宮らしいのか、らしくないのか、俺にはもう分からなかった。
*
「最後の一枚は」
湯乃宮が、紙コップを手に取った。
「私が撮りたいものを、撮ってもいいですか」
「もちろん」
「日谷沢くんの手が、紙コップを置いて、離れていくところ」
湯乃宮は、紙コップを撮影用の台に戻した。
「最初は、日谷沢くんの手が、紙コップを持ち上げたところでした。だから最後は、置くところで」
置いて、離れていくところ。
湯乃宮は、ペットボトルの水を、紙コップに少しだけ注いだ。
「風で倒れないように。……置いたあとも、少しだけ重さが欲しいので」
俺は紙コップを持った。水の重さが、指に少しだけかかる。いつもどおり、小指で底を支えて。
「湯乃宮」
「はい」
「最後なら、湯乃宮も写れば? 影でも、手でも」
先週、河原で言ったのと同じことを言った。
湯乃宮はスマホを構えたまま、首を横に振った。
「今日は、撮る側でいさせてください」
静かな声だった。
それ以上、何も言えなかった。
「ゆっくり、置いてください。置いたら手を離して、そのまま後ろへ」
言われたとおりにする。
紙コップを台に近づける。側面をほかの指で支え直して、小指を底から抜く。底が台に着いてから、手をゆっくり離した。
ぱしゃり。
電車が、また下を通った。
水面が、かすかに震えた。シャッターが止まると、湯乃宮はすぐに紙コップを押さえた。
撮った写真は、いつものように二人で確かめた。
夕方の光。無地の台の上の、紙コップが一つ。画面の端に、離れていく指先が、少しだけぼやけて写っている。
顔も、場所の目印も、写っていない。手すりも、線路も、画面の外にしてある。歩道橋だと分かるものは、何もない。
「……ありがとうございました」
湯乃宮が、頭を下げた。
「二週間、手を貸してくれて」
改まって言われると、どう返せばいいのか分からなかった。
「こっちこそ。……演出、ありがとう」
「どういたしまして」
湯乃宮は、顔を上げて笑った。
それは、いつもの、慣れている人の笑い方だった。
台をたたんで、帰りの階段を下りる前に、湯乃宮は一度だけ、さっきの場所を振り返った。
もう、紙コップは鞄の中なのに。
駅で別れる前に、湯乃宮が言った。
「来週の火曜日は、ゆっくり帰ってください」
「……うん」
「明日の買い出し、③を忘れないでくださいね。歩く速さ」
最後まで、監督だった。
*
その夜、四枚目が上がった。
――手の写真は、今日で最後です。手を貸してくれた人に、ありがとう。
『え、最後!?』
『手の人ロス……』
『最後が「置いて離れる手」なの、天才すぎてつらい』
『ありがとう、手の人』
コメント欄は、すぐに埋まっていった。
俺はベッドの上で、その写真を何度も見た。離れていく、自分の指先。
スマホのカレンダーを開く。
毎週火曜日に、「撮影」と入れてあった。繰り返しの予定。
消すボタンに指をのせて、しばらく、押せなかった。
来週の火曜日の放課後のことを考えた。
何も予定がない。
二週間前までは、それが普通だったはずなのに。
来週の火曜日の放課後が、空いた。
◆ 長谷川向葵
最後、だって。
画面がにじんで、自分が泣いていると気づいた。
手の人が、いなくなる。
紙コップを置いて、離れていく指。ぼやけた指先の中で、小指だけが少し曲がっている。さっきまで底を支えていたみたいに。
どうして、急に最後なんだろう。
私が、湯乃宮さんに話したから?
……ううん。湯乃宮さんは、関係ない。写真に詳しいから、相談しただけ。
それより。
手の人は、写真の中からはいなくなるのに、明日も、教室にはいる。
明日も、日谷沢くんの手は、プリントを回してくれる。
それが、少しだけ不思議で。
少しだけ、嬉しかった。




