第13話 好きな子と、買い出しという名の放課後
水曜日の放課後。
佐伯から渡された買い物リストを持って、俺と長谷川は昇降口を出た。
――紙コップ(白・無地)三百個(うち五十個は試作・飾り用)。テーブルクロス(落ち着いた色)三枚。ブックスタンド二十個(重いので配達を頼むこと)。メニュー用の厚紙。予算は封筒の中。領収書は必ずもらうこと。
最後の一行にだけ、二重線が引いてあった。佐伯らしい。
「……行こうか」
「……うん」
二人で、校門を出る。
長谷川と並んで歩くのは、初めてだった。中学から数えて三年以上、同じ学校にいて、同じ道を通っていたはずなのに、一度もなかった。
駅前の生活雑貨の店までは、歩いて十分。
何を話せばいいのか分からない。演出プランの③には、「歩く速さを合わせる」としか書いていなかった。湯乃宮、肝心なところが書いていない。
「……週末、POPの修正、ありがとう」
とりあえず、言えることから言った。
「ううん。……長かったよね、メッセージ。ごめん」
「いや。全部読んだ」
「全部」
「三回」
言ってから、三回は多かったかもしれないと思った。
長谷川は、鞄の持ち手を両手で握って、うつむいた。耳が赤かった。
しばらく歩いて、気づいた。
長谷川が、少し後ろにいる。
長谷川は、歩くのがゆっくりだ。急いでいるわけでも、疲れているわけでもなく、ただ、そういう速さの人なのだと思う。
俺は、なんとなく足を遅くした。
長谷川が、隣に並んだ。
それだけだった。何も言わなかった。
長谷川が、ちらっと俺の足もとを見た。それから、なぜか、うつむいて少しだけ笑った。
何がおかしかったのかは、分からなかった。
*
店の中は、思っていたより広かった。
「紙コップ、こっち」
長谷川が先に立って、通路を進む。リストを見ずに歩いている。店の配置を覚えているらしい。
「よく来るの?」
「……文房具、ここで買うから」
紙コップの棚の前で、長谷川は立ち止まった。
白、柄付き、厚手、薄手。思ったより種類がある。
長谷川は、白い無地の紙コップの袋を手に取って、俺に差し出した。五十個が一本に重なった、細長い袋だ。
「これ、どうかな。厚さ」
受け取る。五十個重なった紙コップの束は思ったより長くて、手の中でぐらりと傾いた。
落とさないように、いつもの持ち方で支えた。小指で、底を。
長谷川さんと話すときは、もう隠さなくていいです、と湯乃宮は言った。
見られているのは気になる。でも、また変な持ち方をして長谷川を困らせるより、普通に持ちたかった。
「ちょうどいいんじゃない。薄すぎないし」
「……そっか」
長谷川の視線が、紙コップの底に――俺の手に、落ちていた。
いつものことだ。長谷川は、話すとき、俺の手元を見る。
でも今日は、見ている時間が、少し長かった。
「……この紙コップ」
長谷川が、ぽつりと言った。
「『余白』の一枚目のと、似てる」
心臓が、跳ねた。
白い無地の紙コップなんて、どこにでもある。どこにでもあるから、似ているのは当たり前だ。
「……似てるかもな」
それだけ言った。嘘じゃない。似ているどころか、たぶん、同じ種類だ。
長谷川は「うん」とだけ言って、俺の持っていた袋を受け取り、同じものを六つ、カゴに入れた。三百個。カゴが一気にかさばった。
テーブルクロスの棚の前で、俺は赤と白のチェックを手に取った。
「これ、喫茶店っぽくない?」
「……それ、ピザ屋さん」
長谷川が、間髪を入れずに言った。
たしかに、ピザ屋さんだった。
「読書喫茶だから、もっと、静かな色がいいと思う」
結局、テーブルクロスは深い緑にした。長谷川が「本の表紙が映える色」と言って選んだ。ブックスタンドは木のもの。二十個は重いので、佐伯のメモどおり、レジで学校への配達を頼んだ。メニュー用の厚紙は、生成り。
佐伯のリストに一つずつ線を引いていくと、だんだん、読書喫茶の形が見えてくる気がした。
「メニューの字、長谷川が書いたら?」
「え」
「POPの字、きれいだったから」
長谷川は、生成りの厚紙を胸に抱えて、しばらく黙った。
「……日谷沢くんのPOPも、もう取扱説明書じゃなかったよ」
「佐伯には、あと半歩って言われた」
「半歩は、もう歩いてたと思う」
褒められた、のだと思う。
レジに着くまで、顔が熱かった。
レジで、領収書をもらうのを忘れかけた。長谷川が「領収書」と小さく言ってくれた。二重線の一行を、長谷川も覚えていた。
店を出たところで、荷物を分けた。紙コップとテーブルクロスの大きな袋二つは、俺が教室に置きに戻る。生成りの厚紙だけを、メニューを書くために、長谷川が持って帰る。
*
駅までの短い道で、長谷川が、厚紙の入った紙袋を持ち直しながら言った。
「……日谷沢くん」
「ん」
「昨日の放課後、何してたの?」
足が、一瞬止まりかけた。
昨日の放課後。歩道橋の上で、紙コップを置いて、手を離した。
長谷川がそれを知っているはずはない。たぶん、ただの世間話だ。
でも、嘘はつかないと決めている。
「……人の手伝い」
本当のことだった。全部じゃないけど、嘘じゃない。
「そっか」
長谷川は、それ以上聞かなかった。
紙袋の持ち手を、ぎゅっと握り直しただけだった。
少しのあいだ、二人とも黙って歩いた。
駅前の信号が、赤になる。並んで立ち止まる。
「……あのね」
長谷川が、信号を見たまま言った。
「メッセージだと、話せるのに。会うと、だめで」
俺は、長谷川の横顔を見た。
「日谷沢くんの前だと、言いたいこと、全部どこかに行っちゃう。……変、だよね」
「俺も」
すぐに言えた。考える前に、口から出ていた。
「俺も、長谷川の前だと、だめになる」
長谷川が、こっちを見た。
目が合った。今度は、伏せられなかった。
「でも」
俺は言った。
「今日は、ちょっと話せてる」
信号が、青に変わった。
長谷川は、小さく、本当に小さく笑った。
「……うん。ちょっと、話せてる」
駅の改札で別れた。
長谷川は何度か振り返りかけて、結局振り返らずに、ホームへの階段を上っていった。
俺は改札の前で、しばらく動けなかった。
それから、両手の袋を持ち直して、学校へ戻る道を歩いた。途中の、あの広場の前で、足が止まった。
ベンチが三つと、植え込みと、たまに鳩。今日は、誰もいなかった。
湯乃宮は今ごろ、写真部で過去の写真展の記録を見ているはずだ。演出プランの③は、ちゃんと実行した。報告したら、褒めてくれるだろうか。それとも、「最後まで目を見てください」と言われるだろうか。
*
その夜、『放課後の余白』に新しい写真が上がった。
手の写真は、もうない。昨日、そう書いてあった。
だから、静物の写真だろうと思った。昔の『余白』みたいに。
写真には、紙コップが一つだけ写っていた。
二つじゃなく、一つ。無地の布を敷いた、誰もいない机の上に。夕暮れの光だけが、その横に何もない場所を作っていた。
昨日もコップは一つだった。でも、そこには離れていく手があった。今日は、手も影も、もう一人分の何かもない。こんなふうに一人分だけで終わる写真は、初めて見た気がした。
『どうしたの、余白さん』
『昨日はまだ手があったのに、今日は本当に一人分だ』
『手の人がいなくなったから……?』
コメント欄が、ざわついていた。
俺は、キャプションを読んだ。
――席は、いつもあった。放課後の席は、いつもなかった。
スマホを持つ手が、止まった。
知っている言葉だった。
月曜日の昼休み。三人で囲んだ、狭い机。卵焼きを箸で持ったまま、湯乃宮が言った。どの学校にも、私の席はありました。でも、放課後の席は、なかった気がします。
湯乃宮に、メッセージを打とうとした。
あのキャプション、と打って、消した。大丈夫か、と打って、また消した。
何を聞いても、湯乃宮はたぶん「大丈夫です」と答える。「慣れていますから」と。
画面を閉じる前に、もう一度、キャプションを読んだ。
あの机には、長谷川もいた。




