二つの世界の公園。一目で狂う、運命の歯車
現代の日本。緑の多い、東京のとある大きな公園。
本物の皇妃エリザベートの魂が入った鈴木恵美子は、
姑のトシ子さんから頼まれたおつかいの帰り道、
夕暮れ時の公園のベンチの横を通りかかっていた。
「はぁ、はぁ……!」
ふと、足を止めた。
公園のブランコ。その上部の鉄柵に器用に両足を引っ掛け、
重力に逆らうように猛烈な負荷をかけながら、
垂直に近い状態で腕立て伏せを繰り返している一人の青年に目がいった。
Tシャツ越しでもはっきりと分かる、限界まで鍛え上げられた強靭な肉体。
男は最後の仕上げと言わんばかりに地面にしなやかに飛び降りると、
首にかけたタオルで汗を拭った。その拍子に、彼のポケットからぽとりと、
小さな銀色のキーホルダーが滑り落ちる。
恵美子は無意識に歩み寄ってそれを拾い上げた。
「あの、そこの貴方。こちら、落ちましたわよ」
声をかけられ、男がハッと振り返る。
「あ……」
手渡されたキーホルダーを受け取ろうとした男の動きが凍りついた。
ガーン! と、男の脳内で、
世界がひっくり返るほどの衝撃のファンファーレが鳴り響いた。
夕暮れの公園の光を浴びて、スーパーのビニール袋を持ちながらも、
隠しきれない圧倒的な高貴さと神々しい美しさを放つ女性。
別に突然絶世の美女になったわけではない。
今まで通りの主婦でクレーム処理担当会社員・鈴木恵美子なのだが、
それでも異世界のエリザベートの汚れなき魂が垣間見えたのかも知れない。
それは一目惚れという生易しいものではなかった。
魂の片割れを、全く別の世界で見つけてしまったかのような、強烈な運命の落雷。
「……あ、ありがとうございます……」
辛うじて声を絞り出した青年の、耳まで真っ赤に染まった顔を見て、
恵美子は軽く会釈した。
「ふふ、精が出ますわね。まだ暑いですから無理なさらないで」と微笑み、
優雅にその場を去った。
残された男は、キューピットの矢にハートを撃ち抜かれた感覚を覚え、
その場にへたり込み、手に持つキーホルダーを見つめる。
会員制パーソナルジムのロゴ入りタグ。
(先輩、俺、今、心を鷲掴みにされちゃいましたよ……ああ、あなたと話したい。
あなたがいなくなってからずっとこのメニューを続けているのに、
一体どこに行ってしまったんですか?)
*
恵美子が公園を出た数秒後、青い顔をした洋介が歩道で立ち尽くしていた。
「あ、あら、あなた。お帰りなさい。今日は早かったんですね。
そんなに顔を真っ青になさって、どうされました?」
「どうされましたじゃないよ! えみちゃん、今の男、誰!?
なんであんな若い超絶イケメンと親しげに微笑み合ってたの!?」
「微笑みあってただなんて、そんな」
「その袋、俺が持つよ。貸して!」
「でもあなた、重いカバンをお持ちなのに」
「いいから!」
洋介は完全にキャパシティをオーバーしていた。
目の前にいる妻からおなじみのスーパーのビニール袋を受け取り、
特売のネギが鼻毛をくすぐるのを気づくこともなく、洋介は思った。
妻の佇まいはまるで、初夏の庭園で薔薇を愛でる王妃のようではないか。
そして、今しがた耳まで真っ赤にして崩れ落ちた、鍛え上げられた謎の美青年。
(やばい。俺、完全に油断してた……!
えみちゃんが最近、妙に神々しくて目が離せないと思ってたけど、
世間の男たちが放っておくわけがないんだ!)
「ただの親切な方ですわ。お落とし物を届けて差し上げただけです」
「落とし物!? それだけであんな、魂を抜かれたみたいな顔になる!?
えみちゃん、お願いだから俺を置いていかないで!」
パニックのあまり、洋介は恵美子の持つもう一つの、
こちらはカボチャなどでずしりと重いビニール袋をひったくるように奪い取った。
「これも俺が持つよ!」
「あ、危ないですわ、あなた」
「俺が持つって! 今日から荷物は全部俺が持つから!
そうだ、今日の夕飯の準備も、お皿洗いも、お風呂掃除も全部俺がやる!
だから……だから俺を見て、えみちゃん! 俺だけを見て!」
妻の頬がポッと桜色に染まった。
「まぁ、嬉しい。助かりますわ」
恵美子はフワリと完璧な慈愛の微笑みを浮かべた。
ただそこに自然体で存在するだけで、ワーカホリックだった現代の夫を、
付き合う前の必死に尽くしていた初心へと強制リバートさせてしまったのだ。
並んで歩きながら、洋介は見えない恐怖に背筋を震わせながら思う。
(もっと家事のクオリティを上げないと俺、捨てられるかも……!)
「ただいま戻りました」
ガラガラっと玄関を開けて、高らかな声で恵美子が言う。
洋介の耳にはまるで天使の歌声のように聞こえた。
リビングに辿り着くなり、洋介は持っていたビジネスバッグを放り出して
キッチンへと走る。
「えみちゃん! 麦茶!? 麦茶飲む!? あと、洗濯物取り込んでおこうか!?
何か僕にできることあるっ!?」
付き合う前の猛アピール期間(初心)に戻ったかのように、必死の形相だ。
それを陰からじっと見つめる目。
「……洋介」
「ああ、母さん、ただいま」
「……お帰り。今日は随分と……元気なようだね。
いつもは帰ってくると『疲れたあ!』って連発するくせに」
「え? 俺が? やだな、母さんったら。そんなわけないじゃん。
ごめん、ちょっと忙しいからまた後でね」
そう言ってテキパキと動く我が息子。
いわゆる名もなき家事に精を出す。
一方、嫁は嬉しそうにニコニコしながら夫に促されてソファーに座り、
「あら、ありがとう」と、お盆に乗ったお茶を優雅にすすっている。
まるで、のんびりとしたプリンセスであるかのように。
(……一体何が起こっているというの?)
開いた口が塞がらないとはこういうことだ。
しかし、嫁に家事を手伝えと言われて素直に動く息子ではない。
(な、なんなの、この嫁……? 計算じゃない。
完全に『天然』でやってるというの……?)
トシ子は、必死に動き回る息子の背中と、
涼しい顔でお茶を飲む嫁を交互に見つめ、内心で唸る。
(世の中の妻たちは、家事をしない夫に怒ったり、
正論で責め立てたりして無駄なストレスを溜めるけど……
そんなの完全に二流のやり方だ。この嫁は言葉一つ発してすらいないのに、
口先男の息子を完全に手玉に取っている……!)
どう考えても理解できない。
かつて自分が夫の操縦に苦労した過去を思い出し、
トシ子は目の前の若い嫁の底知れない帝王学(?)の片鱗に背筋が寒くなった。
(……凄すぎる。洋介が、完全に手のひらで転がされているじゃない。
……やるわね、恵美子。ちょっとムカつくけど、これは認めざるを得ないわ!)
トシ子はフンと鼻を鳴らしつつも、その完璧な夫操縦術に、
どこか歪んだ爽快感と尊敬の念を抱き始めていた。
*
一方、遥か彼方の異世界。
私、エリザベートは夫の愛人を「公式の外部委託先」として処理し、
驚異的なホワイト宮廷ライフの第一歩を踏み出していた。
私は気分転換と今後の「推し活ピクニック」のための下見を兼ねて、
宮殿の広大な裏庭にある緑豊かな庭園を歩いていた。
「……ん?」
ふと、視界の先、古い重厚な石垣の前に人影が見えた。
思わず、足が止まる。
「九十七、九十八、九十九……百!」
そこにいたのは、燃えるような銀髪をなびかせた超絶イケメン。
帝国の最高峰、聖騎士団の正装を身にまとったその男は、
なんと石垣の僅かな出っ張りに両足を引っ掛け、逆さ吊りに近い過酷な状態で、
狂ったような速度で腹筋と腕立て伏せを繰り返していた。
割れた腹筋が、きらきらとした汗を弾き、眩しく輝いている。
(う、美しすぎる……! 何あの彫刻みたいな筋肉?
異世界、顔面偏差値の暴力を振るいすぎじゃない!?)
オタクとしての「推し活アンテナ」が最高感度で反応した、その時だった。
男がふっと運動を止め、しなやかな動作で地面に着地した。
そして、流れるような動作でこちらを振り返った。
吸い込まれそうな深いサファイアブルーの瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「――っ」
その瞬間、私の胸の奥で、今まで感じたことのない凄まじい衝撃が走った。
心臓が、ばっくんばっくんと爆音の鼓動を打つ。
耳の奥で自分の血流の音が聞こえるほどに、身体が熱くなっていく。
頭が真っ白になり、足の先から冷気が這い上がってくるような、強烈な感覚。
思えばこれまで、この異世界に転生してからというもの、私は必死だった。
日本の元クレーム対応担当としてのスキルをフル回転させ、油まみれの料理を変え、
姑の便秘を治し、納得のいかない宮廷の理不尽を叩き直すことばかりを考えて走ってきた。
有能な経営者(CEO)として、この世界にシステムとして順応することだけを考えていた。
しかし。
しかし、今。
この男の瞳を見た瞬間、私は恐らく生まれて初めて、
胸の奥の方のくすぐったいような疼きを感じていた。
これが小説とかドラマで出てくる、ただの一人の素の女になったということなのか?
頑丈に作り上げてきたはずの私の外殻に、ピキリと大きな亀裂が入るのを感じた。
そもそも、東京にいた頃の私は、結婚なんてコスパが悪いし全然興味がなかった。
別に独身主義というわけではない。だが、仕事はそれなりに面白くてやりがいがあったし、
友人や同僚たちと好きな時に飲みに行ったり食事にいったり、ジムに通ったり、
それなりに楽しい日々を過ごしていて、「結婚」が入る余地などなかった。
にも拘らず取引先の洋介との結婚は、病気だった母親を安心させるためだった。
申し訳ないけど、ちょうどいいところにいたので、何となく。
正直いって大したときめきもなかった。離婚した友人やシングル仲間も多く、
昔と違って女性だって一人で十分やっていける世の中で、
純愛とかロマンスとかはフィクションの世界の中だけだと思っていた。
なのに……なのに、なに、このときめき?
うぶな少女じゃあるまいし、この歳になって、何なのだ――?
(……まさか――まさか私――)
胸の奥から湧き上がる猛烈な動揺。
コントロールを失った心臓が、痛いほど脈打つ。どうしようもないざわめきと脆さ。
しかし、気持ち悪いものではない。ただ、あまりの衝撃に理性が必死に抵抗しようとする。
東京の常識が、私の脳内で自動的に、そして必死に急ブレーキをかけた。
(だ、ダメよ……! 待って! ストップ! 何ときめいてんの!?
いくら中身が業務委託の冷え切った関係とはいえ、私はフランツの妻。既婚者!
他の男性に目を奪われるなんて、どう考えてもNGでしょ!?)
必死に理性のロープを掴んで暴走を抑え込もうとする私と、
なぜか驚愕に目を見開いたまま、一歩も動けずに立ち尽くしている銀髪の騎士。
交錯するサファイアブルーの視線の中で、運命の歯車が静かに、
しかし決定的に回り始めたことを、まだこの時の私は認められずにいた。




