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14/18

夫の不倫疑惑!? 犬たちのスマホ回収、そして――

東京でもへべれけになって玄関で倒れ込む者が約一名。


いつものように三つ指ついて出迎えていた恵美子(本物のエリザベート)は、

目の前が真っ暗になった。

「あなた! どうされたのですか!? 大丈夫ですか!? あなた!」


……どこかで……毒を盛られた?


この世界でも毒殺などを試みる者も存在するのだろうか。

しかし誰が何のために穏やかな洋介を殺そうとする?

混乱しつつ夫に駆け寄ると、少し荒いものの、正常に呼吸していた。

(よかったですわ)

ほっと胸を撫で下ろすと、

背後に姑・トシ子がやってきた。


「あ~あ……洋介……また飲み過ぎたのかい? 

ったく、あんた酒弱いんだろうが。

恵美子さん、そんなのほっといてそこらへんに転がしておけばいいわよ」

「酒? もしや……酔っていらっしゃるのですか?」

「見ればわかるでしょ。ああ、酒臭い」


 暗殺の毒ではなく、ただのアルコール。

そういえばかつていた世界でフランツのこのような姿を見たこともあった。

この平穏な下町の民ですら、己の胃袋の限界を超えて溺れる蜜が「酒」——

という名の魔物なのだと妙なところで納得する。

 だが、安堵したのも束の間だった。


 ――ガサゴソ。


 開け放たれた玄関の向こう側。

早朝の公園のラジオ体操で会った犬たちが飼い主を連れてお行儀よく立っている。

「まあ。えーと、かっちゃんとけいちゃんでしたわね。どうされましたの?」

「すみません!」後ろの飼い主が申し訳なさそうに言う。

「こちら、あなたのご自宅だったんですね。夕方のお散歩をしていたんですけど、

なぜかうちの子たちが急に方向転換してクンクンクンクン、

鼻をひくひくさせながらこちらに来てしまいました。

知らないお宅に勝手には言っちゃダメって叱っていたんですけど、

合計約五十キロの体重でぐいぐい引っ張られちゃって。

お邪魔してしまってすみません!」

「まあまあ、全然よろしいんですよ。頭をお上げください」


その拍子に大きい方のかっちゃんがくわえていたものをポトリと落とした。

「あら」

洋介のスマホだった。


(お散歩中に拾ったの)

(まあ、そうなの、かっちゃん。どうしてうちの主人の者だと分かったのですか?)

(匂いですよ、匂い。あなたのラベンダーの香りがついてました)

(おお、素晴らしい。助かりましたわ。ありがとうございます)

(いえいえ、これくらいのこと屁でもありません。屁だったら臭いですけどね。

特にけいすけのは)

(兄ちゃん、ひどい! ぼくのは上品だよ!)

(まあな。では、失礼いたします!)

(では!)とけいすけも元気いっぱいの笑顔を見せた。


「ああ、朝おしゃべりしていた犬連れの人ね」

「お義母様」

「何、落とし物を拾ってわざわざ持ってきてくれたの?」

「はい、かっちゃんとけいちゃんが匂いでここまでたどり着いたようですわ」 

「賢いのね」

「ええ、本当ですわ。あなた、起きてくださいまし。

これ、落とされましたよ」


スマホの冷たい画面を洋介の頬にペタンと当てようとしたその時、

画面に表示された通知が見えた。


『奥様に内緒って罪悪感マックスだったけど、今日は楽しかったです❤ 

また会社で

里奈❤』


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 裏切りの恐怖が、冷たい刃のように胸を突き刺す。

(……うそ。なにこれ、里奈って……しかも『❤』が二つも!?)


恵美子は目の前が真っ暗になった。

(ああ、洋介……あなたも私を裏切っているというの……?)


 帝国では、不倫など公式に認められているくらいで、日常茶飯事だった。

だが、だからといってエリザベートが納得していたわけではない。

出身地の田舎ではそのような不貞行為をするものはおらず、

人間は愛を誓い合った相手と生涯を共にするものだと彼女は信じていた。

 夫と愛人・エリシアの関係を激しく嫌悪していたところで突然、

別世界にやってきた彼女は戸惑ったものの、

この東京で触れた洋介の不器用で温かい誠実さに、

ようやく心が安らぎ始めていたのだった。


 なのに。

 いや、彼を信じたかった。

 しかし期待が大きかった分、絶望感がどしりと重くのしかかる。


 黒髪の隙間から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出し、恵美子の頬を濡らしていく。

悲しみは瞬時に底知れぬ怒りと元皇妃としての圧倒的な覇気へと変貌し、

玄関の空気が一瞬で氷点下へと凍りつく。


「ちょっと恵美子さん……? どうしたの? 

何だか急に背筋がゾクゾクしてきたわ……」

 トシ子が顔を引きつらせて後ずさりするが、もはや恵美子の耳には届かない。

彼女は涙を流したまま、床に転がる夫を冷徹な瞳で見下ろした。

「……夜明けを待ちましょう。あなた」



 翌朝。午前五時。

「う、うう……頭が割れそうだ……」

 凄まじい二日酔いと共に、洋介は目を覚ました。

 だが、すぐに異常に気づいた。自分の布団の枕元に、妻の恵美子が、

一睡もしていない様子で静かに正座していたのだ。

 その頬は涙で濡れている。しかし、全身から立ち上るオーラは、

まるで一国を滅ぼしかねない覇王のよう。


「え、恵美子……? どうしたんだよ、その涙と、その……

めちゃくちゃ怖い空気は……?」

 恵美子は無言で、枕元に洋介のスマホを置いた。

画面には昨夜のメッセージがそのまま表示されている。

「……!?」

 それを見た瞬間、洋介の顔面から血の気が引いた。

二日酔いの頭痛など一瞬で吹き飛んだ。

 妻がなぜ泣いているのか。

 なぜ、国家存亡の危機のような覇気を出しているのか。すべてを理解した。

「ち、違うんだ、恵美子! 誤解だ! 

これは不倫とかそういう、裏切りじゃ断じてないんだあああ!」


 洋介は布団から飛び起きると、滑り込むような勢いで、畳に額を叩きつけた。

 ドンッ!! と凄まじい音が響く。

「パニック土下座」である。あまりの勢いに部屋のタンスがガタガタと震えた。

「でしたらなぜそのように頭を畳に打ち付けていらっしゃるのです?」

「そ、それは、君を誤解させて、悲しませて、

ホントにホントにホントに申し訳ないって俺の気持ちだ!」

「その里奈というお方とのことは誤解だとおっしゃるのですか? 

昨日一緒にお過ごしになったようにお見受けしますけど、

そもそもお休みではなかったのですか?」

「き、休日出勤! いやだなあ、家を出る時にそういったじゃん? 

里奈は会社の後輩! 同じプロジェクトにかかわっていて、

それで彼女も出勤してたんだ! 

神に誓ってそれだけだよ!」

「……でも、『楽しかった❤』と……お仕事を『楽しかった❤』

(この❤マークが特に問題)と言うのは一般的なのですか?」


洋介が黙り込んだ。

「分かった。これ以上誤魔化しても変な話になりそうだから、白状する」


恵美子の胸が疼いた。

「白状する」。

この里奈とやらとの関係を?

まさか、自分と別れるとでも言うのだろうか?

これまで見たことのない、決意を感じさせる洋介の表情。

余計なことをしてしまったかもしれない。

恵美子はとっさに後悔した。


夫の不貞に気づかぬふりをしてやり過ごしてさえいれば、

これまで通りの穏やかな日々がそのまま続いたかもしれない。


(なのに私は――ああ、なぜ追及などせずにすべてを飲み込んで、

静かに微笑むことができなかったのだろう。

そういえば昔、お母様が言っていたわ……

『エリザベート、よく聞いて。あなたは純粋で真っすぐすぎるところがある。

それはいいことなのだけど、人に同じものを求めるのは必ずしも正しくはないの。

色んな人が色んな状況にあるんだから、もしも何か引っかかったりした場合には

一度ぐっと気持ちを抑えて、まずは周りをしっかり見てみなさい』


……なのに、前の夫、フランツの不貞行為を初めて知った時には

大泣きしてしまい、その結果、彼の気持ちはどんどん離れていった――)


「エミちゃん? どうしたの?」

「な、何でもございませんわ」

「とにかく話す。話すから聞いてくれ。

罪悪感マックスなんて紛らわしい言い方をしてるけど、

来週のエミちゃんの誕生日プレゼントを買いに行っただけ! 

俺、女性が喜びそうなものなんてわかんないから後輩に相談に乗ってもらって、

昨日一緒に買ってきただけなんだ! 誕生日のサプライズだから、

エミちゃんに絶対バレたくないから『内緒』って言ってただけで! 

俺が愛してるのは世界でエミちゃんだけなんだよおおお!」


 額を床に擦り付けたまま、酸欠になりそうな勢いで叫ぶ洋介。

 その必死すぎる、

そしてあまりにも的外れなパニックぶりに恵美子の覇気がしぼんでいく。


「……誕生日の……サプライズ?」

「そう! 喜んでもらいたくて! 何なら今プレゼント、とってくる!」

「……いえ。それでしたら予定通りのサプライズにしてください」

「……分かってくれた?」

恵美子は頷いた。

「……勝手に誤解してしまってごめんなさい。本当に申し訳ございません」

「い、いいんだよ! 誰だって誤解するよね! 

分かってくれれば、それでいいんだ!」

「……あなた……」

「……エミちゃん! 愛してるよ!」


やっぱりこのお方は誠実だった。

そう思う恵美子の脳内には喜びが青空のように広がっていた。


山手線の内側の、とあるマンションで一人の女性が同じように、

洋介の誠実さを思い出して笑っていることも知らずに。



かっちゃんけいすけの飼い主が公園に向かいながらぽつりという。

「あんたたち、すっかりあの人にメロメロね」


(え?)

とかっちゃんが振り向く。

けいすけは早く泉福寺公園に行って

お友だちのワンちゃんたちと会いたいばかりで、

ぐいぐいとリードを引っ張る。


「いや、いいんだよ。感じのいい人だもんね。

でもね、こんな朝っぱらから人様のお宅にお邪魔するのはどうかと思う」


(確かにそうかも知れないな)とかっちゃんは歩きながら考える。

「考え込まなくていいからもうちょっと早く歩こう」

飼い主にせっつかれながら。

正しいボーダーミックスとしては、物事をじっくりと正確に検討したいのに。

(まあしょうがないか。うちのママのキャパはこんなところだもんね)


タッタタッタと公園の入り口を通るとラジオ体操が始まろうとしていた。

「おはようございます!」

「おはよう!」

犬たちもボディタッチやクンクン・ペロペロ挨拶、

キャッキャと走り回る仔犬に用足しをするものに慌てて水をかける飼い主と、

いつもの平和な光景が広がっていた。


「おはようございます」

そこにアプリコットという柔らかい赤みがかったベージュ色のトイプー、

ゼンちゃんが飼い主を引き連れてやってきた。


(ゼンちゃんおはよう。昨日はあえなかったね)

(かっちゃんおはよう。

うん、ママが天気予報を見て雨が降らないうちに行こうって、

かなり早かったの。けいちゃんもおはよ)


公園を回るべく歩き始めると同時に聞きなれた音楽が流れた。

そして、姑・トシ子に連れられて赤い顔をした恵美子が到着。


ゼンちゃんがフリーズした。


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