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11/16

東京:早朝のラジオ体操制覇、そして近所の犬たちの秘密の直訴

 チュンチュンと雀が鳴く、清々しい土曜日の早朝。

 恵美子——となった本物の皇妃エリザベートは、

姑のトシ子さんに付き合って近所の公園に足を運んでいた。

「ほら、えみちゃん。朝の空気は体にいいんだから。しっかり体を動かすのよ」

「はい、お義母様。これが噂に聞く『らじお体操』という、

日本の健やかなる儀式ウェルネスですのね」


 並んで体を伸ばすトシ子さんは、どこか誇らしげだ。

最近、息子(洋介)が急に名もなき家事に目覚め、

嫁をソファーに座らせてお茶を淹れるようになった。

トシ子は嫁の底知れない帝王学に背筋を凍らせつつも、

その完璧な夫操縦術にどこか尊敬の念を抱き始めていた。だからこそ、

ご近所さんたちが大勢集まる、午前六時半のこのラジオ体操の場で、

「うちの高貴な嫁」をちょっと自慢したくなったらしい。


 そして、お馴染みのあの軽快なピアノのメロディがスピーカーから鳴り響いた。

『あー、ラジオ体操、第一ー♪』

(なるほど。音律に合わせて肉体を調律するのですわね。

宮廷の舞踏に通じるものがありますわ)

 恵美子はすっと背筋を伸ばし、

最初の「腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動」に入った。

 その瞬間、周囲の空気がピキリと凍りついた。

「……え?」

 隣でノリノリで腕を振っていたトシ子さんの動きが止まった。

 鈴木恵美子の身体が繰り出すラジオ体操は、

周囲の人たちのそれとは一線を画していた。

指先の角度、1ミリの狂いもない腕の軌道、そして天を仰ぐ首筋のライン。

それは体操というよりも、神に捧げる高潔な「典礼の舞」だった。

 

「腕を回す運動」になれば、まるで広大な領土を包み込むかのような

圧倒的な慈愛の抱擁。

「身体を斜めに折り曲げる運動」は、

他国の王を美しく迎え入れる完璧な敬礼の角度。


 別に絶世の美女の服を着ているわけではない。

ただのTシャツにチノパン姿の、いつもの鈴木恵美子である。

しかし、そこから立ち上るロイヤルなオーラが、

公園の土埃舞う砂場をまるでヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊に変えていく。

「な、なんなのよあの動き……? 美しい……!」

「目が離せないわ……!」


 トシ子さんは開いた口が塞がらず、周囲の人たちも体操の手を止めて、

ただただ嫁の「第一」を神聖なものを見るかのような目で見つめていた。


 やがて体操が終わった。

「ねえ、鈴木さん、お宅のお嫁さん初めてラジオ体操に来たようだけど、

昔体操選手とかやってたの? バレリーナだったとか?」

「いやあ、きれいだったねえ」

やいのやいのとおしゃべりが始まり、

トシ子と恵美子はあっという間に囲まれた――

のだが、その時、やたらと元気のいい、小さな犬が突然、

その中心に走ってきた。

「こら、ソルマ! 待って! お母さん転んじゃう!」

どうやらリードが外れてしまったようだ。

ソルマはにっこにこしながら人だかりの中心に入り、

そのまましゃがみ込む。運動してもよおしたようだ。


「こら! 人が話している中に入ってきてウ〇チさせるな! しっしっ!」

いかにも意地悪そうな年配の男性がソルマを蹴飛ばそうとしたその時——

恵美子が猛スピードでソルマに駆け寄り、さっとテイッシュを取り出して

茶色い物を拾い、ソルマを救い上げた。

「よしよし、もう大丈夫よ」

天使のような微笑みを浮かべて頬ずりをする。


ほうっ、と周囲にため息が漏れた。


「ちょっと、あんた! こんな小さい子を蹴飛ばそうとするなんて

何考えてんのよ!?」

「あんただってトイレにくらい行くでしょうが!」

「その子のお母さん、ちゃんと袋を持ってこっちに歩いてきてるじゃないのよ! 

別にそのまま置いていこうとしてるわけじゃあるまいし」

「なんて心の狭いじいさんなの!? 

どうせ家でも誰にも相手にされないんでしょ!」


「わ、ワシは何も……人がラジオ体操をしているところに走ってきて

用足しをするなど非常識だと思っただけだ…」

「だったらそう言えばいいじゃないのよ!」

「蹴飛ばすなんてあり得ない! 

こんな小さい無抵抗なワンちゃんになんてことをするのよ!」

「動物虐待! 警察呼ぶわよ!」

「……う……」

老人は一気におばさま方に囲まれて小さくなっていた。


「まあまあ、皆様方」

と恵美子が割って入った。片手に丸めたテイッシュを持ち、

ソルマを抱いたまま。

「ちょっと脅そうとされただけですわよね? 

決して本当に足蹴にするおつもりではなかったのでしょう?」

「……そ、そうだ! 注意しようと思っただけだ!」

「そうですわよね。こんなに可愛い子に手や足を挙げるなどあり得ませんものね」

ソルマが恵美子の頬をぺろりと舐める。

「あらあら、あなたの言ってること分かってるみたいね」

「もちろんです、お義母様。犬はとても賢いですから」

ソルマの飼い主が行きがはあはあ言いながら駆けてきた。

「すみません、ありがとうございます。あ、それ、もらいます」

「とっても可愛い子ですね。ビションフリーゼですか?」

「ビションとトイプーのミックスです。もう、元気で元気で、元気すぎて…」

「まだ若いのでしょう? 小さい時に元気でなくてどうするのです? 

ねえ、ソルマちゃん」

別れを惜しむようにしながら恵美子はソルマを飼い主に返すと、

さっきの頑固じいさんがぽつりと言う。

「……確かに可愛い顔をしているな」

周囲の空気が穏やかなものになった。

あちこちで再び賑やかな会話が始まり、

公園の外側はジョギングで汗を流す、

若干若めの男女たちが走っていく。

(お見事。この嫁、やっぱりすごいかもしれない……)

トシ子は妙に納得していた。

しかしそう思ったのは人間だけではなかった。


「かっちゃん、ダメ! まっすぐ歩いて!」

と二頭の犬を連れた女性がリードを引くのを聞かず、

白ベースのボーダーミックスが恵美子のところにやってきた。

後ろには弟分のコッカースパニエルがぴたりとくっついている。


「あら、こんにちは。可愛いわね」


かっちゃんがキュンキュン言い始める。

(見てましたよ。ソルマちゃんを助けてくれましたね。

ありがとうございます!)

(いえいえ、当然のことをしたまでですわ)

(あなた、他のみんなと全然違う……。どこから来たんですか?

タイムリープとかしたんでしょ?)

(わかるの? 凄いわ)

(伊達に「賢い」と言われてませんから)

 かっちゃんは、どこか冷めた達観した目でふっと視線を外すと、

犬ならではの苦労をポツリと漏らした。

(大体飼い主たちは、僕たちの言っていることを自分の都合のいいようにしか

解釈しませんからね。まあ、その辺が一般人の限界なんでしょうね)

(それは……大変ですわね)

(あなたには高貴なものを感じる。もしかしてマリー・アントワネット様とか

エリザベス女王様だったりして?)

(うーん、やや近いけど、ちょっと違いますわね。

以前はエリザベートという名前でしたの)

(エリザベート……美しいお名前だ。なあ、けいすけ?)

(うん! 美人にふさわしい名前だね!)

(まあ、ありがとう。あなたも可愛いわね。イングリッシュコッカーなのですか?)

(うん、そうです! あなたはお姫様なの?)

(……実はね――)


田舎で育った子供の頃から大勢の犬と一緒に育ったエリザベートは、

思いがけない出会いで、こちらの世界にやってきて恐らく初めて、

自分の真の姿について話せる喜びを感じていた。


「馴れ馴れしくてすみません。うちの子たち、人も犬も大好きで」

かっちゃんたちの飼い主が申し訳なさそうにリードを引こうとした。

「いえいえ、とんでもございません。私もワンちゃんは大好きなんです。

なんて温かくて柔らかい、立派な毛並みなのでしょう。たまりませんわ」


そこに二頭の飼い主の犬友たちが集まってきた。

「かっちゃん、けいちゃん、おはよう」

「あら、何甘えてるの? ん? りくもお姉さんに寄っちゃって。

あんたもいい子いい子してほしいの?」

やってきた黒柴がコッカーのけいすけの横にすっと入り、

顔を恵美子の太ももにこすりつける。

(……(クンクン)おお……あなた、実は遠くから来られたんですね。

僕、リクと言います)

(まあ、リクちゃんも分かるのですわね。凄いですわ)

(いえいえ、それくらい。僕たちはその辺の人間より遥かに敏感ですから。

彼らが僕たちの言葉が理解できないだけで)

(まあ……ご苦労が多いのね)

(人生とはそういうものですから。なあ、かつ?)

(そうだね。僕たちはいつもコミュニケーションばっちりなんですけど、

そうでないのは普通の人間ですよ。飼い主たちは大好きだけど、

まあ、彼らにも欠点があるのは認めざるを得ません。仕方のないことです。

だが、あなたはそうではない。奇跡だ!)

かっちゃんがリクを見た。

(リクちゃん、このお方、絶対ロイヤルだよ。エリザベート様っていうんだって)

(今は恵美子ですけれどね)

(皇妃様! 上様! お奉行様!)

(リクちゃん……西洋のお方だよ)

((無視して)聞いてくださいます? うちの飼い主は雨が降ると、

すぐにレインコートを着せようとすぎるんです。僕は誇り高き柴犬。

裸族だなんて彼らだっていつもいってるくせに)

(……まあ……雨や泥で、後が大変でしょうしね)

(僕はもっとたくさんご飯が欲しいんです! 育ち盛りの七歳児として、

足りないんです!)

(いや、けいすけ、お前は十分食ってるだろ)

(だって、かっちゃん……)

(そう、そう! ご飯が少なすぎるのよ!)

(おお、ドナちゃん、おはよう。今きたの?)

(うん。何か楽しそうだと思って)

(ドッグフードのグレードを勝手に下げるのマジで勘弁!)

(レンちゃんおはよう)

(おなかがゆるいからってすぐ獣医に連れて行くのもやだな)

(ママが一人でこっそり高級フランスチーズを食べるのずるい。

僕もほしいです)

(おお、ルイちゃんもいたのか。おはよう)

(僕はもっと頻繁にシャワーを浴びさせろと言いたいです! 

そして食事の時間をもっと早くしてほしい!)

(……かっちゃん……お前も結構大変なんだな)

(うん。シャンプーした後に大量のタオルを洗っても干すところがない、

なんていつも飼い主が言ってるけど、僕だって常に清潔に、

気持ちよく過ごしたいんだよね)

(私はお風呂は好きじゃないからちょっと分からないけど。

それより、海とか山とか広いところでノーリードで走らせてほしいわ)

(クロエちゃん……それはちょっと疲れそうだけど、

確かにもっと自然を満喫したいよな)

(とにかくです、上様。我々全員の共通課題ですが、人間どもに、

もっと肉をよこすよう王令を出してください!)


一瞬にして犬たちの労働条件改善の直訴の嵐が吹き荒れた。

飼い主たちはというと、立ち話中。

雨が多いだの、夏が長すぎるだの、何でもかんでも値段が上がって困るとか。


(……皆様、落ち着いて。食事の管理はウェルネスの基本ですのよ?

適正な量が一番ですわ。

皆様のママさんやパパさんたちはちゃんと色々と調べて考えて

計算されているに違いありませんわ)

(そうはいってもなあ)

(ものには限度ってのがねえ)


 約一名、この光景を後ろで見つめていたのがトシ子さんだった。

完全に開いた口が塞がらなくなっていた。

もちろん、話している内容など全く理解していないが。


(な、なにこれ……。いつもは吠え散らかす猛犬や、勝手気ままな犬たちまで、

恵美子が一瞥しただけで軍隊みたいに跪いて……。

まるで恵美子が彼らに何か話していて、犬たちが大人しく聞いてるかのようだ……。

この嫁、人間だけじゃなくて、獣まで完全に手のひらで従えるってか!?)


 トシ子は恐怖に背筋を凍らせながらも、「やっぱりこの嫁、凄い……」と、

脳内で完全に脱帽の拍手を送るのだった。


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