第八話「憂く者、浮く物」
1909年4月8日 フランス帝国 リヨン 帝国陸軍南部作戦本部
リヨンの南部作戦本部室内は、珍しく笑いの声が響いていた。
「ふはははは!やったぞモロー君!」
ガルニエは作戦室に入ってきたモローを見るなり叫んだ。
ガルニエの手にはグラスが握られており、その傍らには細長い酒瓶が置かれている。
「えっと……いかがしたんですか?ガルニエ中将殿……」
「どうしたもこうしたもないぞ!オーストリア=ハンガリー帝国の奴ら、ロシア帝国の前線突破に成功したらしいのだ!」
どう見ても酔いが回っているのは明らかだが、その口からは喜ばしい情報が飛び出す。驚くモローをよそにガルニエは続けた。
「オスマン帝国の参戦もあってか、奴ら部隊の配置転換に混乱が生じているのだ!この調子なら、オデッサとセヴァストポリは確実に陥落する!いや、ロシア国内の暴動が激化すればエカテリノスラフ、もしかしたらキーウも……!」
鼻息を荒くするガルニエを横目に、足音のする方へと目を向けると、奥の部屋から出てきたラヴァリエールと目が合った
「あぁ、モロー君、来ておったのか。例の話は聞いたか?」
「聞くも何も、部屋に入るなり中将が嬉々として話してくれましたよ。本当なのですか?」
モローはあらためて話の内容の真偽をラヴァリエールに質問する。ガルニエ中将は上司とは言えど、もしかしたらいい歳をした酔っ払いの妄言の可能性もあったからだ。
「本当じゃよ。つい先日、オーストリア=ハンガリー帝国はロシア帝国の前線突破に成功した。向こうの中央参謀の策略かは分からぬが、オスマン帝国も帝国同盟側で参戦したからな。今頃ロシア帝国の軍幹部たちは大混乱じゃろうて。」
心なしかラヴァリエールも嬉しそうに見える。長年連れ添ったであろうガルニエが心労から解放されたせいだろうか、そうこう考えているうちに、ラヴァリエールもグラスにワインを注ぎ始めた。
「ラヴァリエール大佐……」
「儂は食べるのも好きじゃが、飲むのも好きでな。昔よりは飲めなくはなったが、まだまだ若い子には負けんよ。」
「……私にも一杯注いで貰えないでしょうか?」
「ははっ!上等じゃよ!」
ラヴァリエールは嬉しそうにグラスふたつを手に取り、ワインを注いでいく。部屋に漂うブドウの匂いがまた一段と強くなった。
「さぁ、モロー君もここに来て酒なんて一滴も飲んでおらんかっただろう?こんな形にはなってしもうたが、改めて歓迎しよう。」
モローはラヴァリエールからグラスを受け取る。
「なんだ、モロー君も酒飲めるのか。だったら都合が良い。席に着け。私にワインを注いでくれ。」
「それくらい自分でやってくださいよ……」
文句は言いつつも、ワインの瓶を手に取ったモローがガルニエの元に歩み寄ろうとした矢先、作戦室の扉が勢いよく開く。
「失礼します!南部作戦本部部長閣下!いや部長補佐もいらっしゃいましたか!」
部屋に入ってきた青年は、息を切らしながらも敬礼をして体裁を整える。
「なんだ?何かあったのか?」
若干顔が火照ったガルニエは、火照ってもなお衰えない鋭い眼光を若者に向け、グラスを仰いだ。お楽しみを邪魔されたせいか、その眼光から放たれる圧がいつもよりも強く見える。
「外交課より緊急入電!大英帝国がオスマン帝国に宣戦布告しました!」
青年が息絶え絶えで叫ぶと、ワインを味わっていたガルニエは吹き出し咳き込む。
「ごほっごほっ……!おい青年!どういうことだ!」
ガルニエは噎せてしまったのか、何回も咳き込みつつも、震える手で青年から紙を奪い取り、凝視する。
「大英帝国がオスマン帝国に宣戦布告……地中海の英国領マルタ島のバレッタ港から大規模な艦隊の移動を確認……英国本土、プリマス海軍基地からも艦隊の移動を目視……なんなのだこれは……!?」
「ガルニエ!少し落ち着け!取り乱しておるぞ!」
「英国の参戦を受けて、2日後の昼から緊急参謀会議を開くため、ルネ・ガルニエ南部作戦本部長殿はパリに出向するようにと、総参謀本部からのお達しです!」
青年は伝言だけを言い伝えると、敬礼をしてすぐに部屋から出ていいってしまった。ガルニエは地面に崩れ落ちていたかと思うと、突然勢いよく立ち上がった。
「こんなことしてる場合ではない!ラヴァリエール!表とパリの『パリ・リヨン駅』に車を回してくれ!モローくんは私と一緒にパリに同行してもらう!」
指示を出し終えるとガルニエは自室へと駆け込んでいった。ラヴァリエールも車の確保のために部屋を出る。作戦室の広間にはモローだけが取り残された。
「え?私も行くんですか?」
モローの声は誰にも聞こえることはなく、空中に霧散した。
*
同時刻 地中海 エーゲ海南部海上 王立海軍地中海第一戦艦艦隊 インヴィンシブル級巡洋戦艦 艦橋司令室
「艦長。もう少しでダーダネルス海峡の警戒域に入ります。」
見渡す限りの青一色を一望できる司令室から、副艦長はアリのようにあちこちを動き回る海兵を見おろしつつ艦長に言った。
「うむ。このままマルマラ海に侵入、コンスタンティノープルに向けて艦砲射撃を敢行し、場合によってはオスマン帝国海軍と決戦する。」
艦長は室内に設置された石の円卓に拡げられた地中海の地図を指でなぞった。
コンスタンティノープル――オスマン帝国の帝都にして、”世界の都”と呼ばれるほど長い歴史を有す都市を戦艦の砲弾で瓦礫の山に創り変える。そのインパクトだけで帝国内の国民は動揺するだろうと英国参謀は踏んでいた。
「明日の話をしようか。」
そういうと艦長は副艦長に向き直り、細長い駒が数多く配置された卓上に目を向ける。
「公然の事実だが、イギリス政府はオスマン帝国に宣戦を布告した。もう間もなくフランス帝国とオーストリア=ハンガリー帝国も、海軍戦力を地中海に展開し始めるだろう。」
副艦長は何も言わずに頷いた。
「その場合、われわれ”王立海軍地中海艦隊”が相手するのは、フランス帝国海軍地中海艦隊とオーストリア=ハンガリー帝国海軍、そしてほぼないのと同じオスマン帝国海軍であるな。」
英国本土のことは本土艦隊に任せるとでも言うかのように、艦長はあえてか、地中海以外の海域の話は口にしなかった。副艦長は手元の資料に目を落とす。
「艦長、敵海軍の総戦力は情報局の統計によれば、戦艦30隻うち弩級戦艦2隻、巡洋戦艦0隻、装甲巡洋艦約15隻、軽巡洋艦約40隻、駆逐艦80隻、潜水艦30隻です。」
副艦長は資料を読み上げると、紙を捲って続けた。
「それに対し我々王立海軍地中海艦隊の戦力は戦艦12隻うち弩級戦艦3隻、巡洋戦艦2隻、装甲巡洋艦12隻、軽巡洋艦25隻、駆逐艦40隻に潜水艦5隻です。」
約200隻の敵艦隊と、96隻の艦隊。この地中海という、海にしては小さく感じるこの海域に、総勢300隻近くの戦艦が、巡洋艦が、駆逐艦が、所狭しに浮かんでいるのだ。
2倍近くの戦力差を前に、たとえ海軍強国のイギリスであっても苦戦を強いられることは誰の目にも明らかだった。
艦長が葉巻片手に地図を見つめ、思案しているさなか、突然通信兵が大声を出した。
「艦長!先に航行していた軽巡洋艦から連絡あり!オスマン帝国の斥候艦隊を捕捉したようです!」
接敵報告に対し、艦長は冷静に応える。
「ほう、規模は?」
「訊いてみます!」
返答した通信兵は、機械だらけのデスクに再び向かい合い、左手でヘッドホンを押さえ、右手で素早くモールス信号を打つ。数分すると、通信兵はペンを走らせた。
「艦長!先程の敵の斥候部隊、駆逐艦2隻のようです!」
「たった2隻か。話にもならんな。もはやオスマン帝国は名前だけの過去の遺物だ。」
艦長は葉巻を口から離してため息混じりに煙を吹く。かつての顧客も敵となってしまっては、今まで作ってやった戦艦がもったいないと若干落ち込んでいた。
「いかがしますか?」
通信員の質問に対し、艦長は淡白に、呆れにも聞こえる声で応える。
「沈めるように伝えろ。今回のコンスタンティノープル襲撃はパフォーマンスの目的もあるが、オスマン帝国海軍の力を削ぐのも主目標だ。」
しばらくして――
「艦長、オスマン帝国の斥候艦隊を撃沈したとのことです。」
司令室の後方扉から行けるデッキで、一人大海原を眺める艦長の背中に向け、副艦長は呟く。
「そうか。」
報告に対し淡白に返すと、艦長は葉巻を咥え、満天の星空を見上げる。海の上には都市のような眩しさも喧騒もなく、波の音だけが周囲を包みこむ。
「朝方にはコンスタンティノープル沿岸に到着します。今のうちに就寝されておいたほうがよろしいのでは?」
「ん。もう少ししたらそうしよう。」
艦長は見上げたまま、再び淡白に返答する。様子のおかしいと副艦長は察知した。
「……いかがされたのですか?」
「あぁいや……星空がきれいだなと……」
艦長の突拍子もない返答に、副艦長の心配は杞憂に終わる。ポカーンとする副艦長をよそに艦長は続ける。
「こんなにも自然とは美しいのかと、海に出てこうやって星空を眺めるたびにそう思うのだ。やはり君の言う通り、海軍に入って正解だったな。この景色のために私は……あぁ、エリヤ……何故……」
「あの、艦長……」
感傷に浸る艦長の後ろから、再び声を掛ける。
「……わかったわかった。もう寝るよ。」
そういって艦長は俯いて副艦長の横を通り過ぎ、扉から司令室内へと戻っていった。
副艦長は、艦長が横を通り過ぎる瞬間、目元が腫れているように感じたが、何も訊かなかった。




