6 綻び
「多分、以前の私は頑張って食べていたのかもしれない」
と言って、結局、アシュトンは最後までプチトマトに手を付ける事はなかった。
そのプチトマト以外は、アシュトンの好物ばかりだったから、残す事なく全て食べきった。
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「アシュトン、今日から執務の引き継ぎをしても良いかしら?」
「私にできるだろうか?」
と言われても、アシュトンに引き継いでもらうしかない。
「記憶がないのは分かっているけど、これからの事を考えると、少しずつでも執務に慣れていく方が良いし、分からない事があればアンセルが居るし、私も微力ながらお手伝いできると思うわ」
「それなら、マリレーヌさんがすれば良いんじゃないですか?」
なんて事をサラッと言うのはフラヴィアさん。この部屋に居るアンセルが僅かに反応した。
「アシューは、ここに帰って来たばかりだし、記憶も曖昧で大変なんだから、もう暫くはマリレーヌさんが仕事をした方が良いんじゃないですか?マリレーヌさんはアシューに厳しすぎますよ」
「ラヴィー……ありがとう」
そう言って、アシュトンがフラヴィアさんの頬にキスをする。
「……」
私だって、アシュトンにはゆっくりして欲しいと思っているけど、アシュトンが伯爵でブレイザー家の当主である限り、執務は義務でありアシュトンがやらなければならないものだ。
「マリレーヌさんには迷惑をかけるけど……その……もう少しだけお願いできるかな?」
「分かりました……それでは、来週からお願いします」
私は何も言い返せず、ただただ返事をする事しかできなかった。
ーアシュトンは、あんな人だったかな?ー
執務室の椅子に座って考える。
以前のアシュトンは、どんな事があっても、目の前にある問題から逃げるような事はしなかった。いつでも『一緒に頑張ろう』と言って、2人で色んな事を乗り越えてきた。
記憶を失っているから、不安な気持ちが大きいのかもしれない。でも──このままだと、ブレイザー家を侮る貴族が出てくる可能性だってある。ただでさえ、若すぎる伯爵だと見下されたりもしていたのに。
「奥様、少し休憩なさって下さい」
「アンセル、ありがとう。貴方にも負担を掛けてしまうわね」
「私の事は気になさらないで下さい。執務の補佐は、私の仕事のうちの1つですから。それよりも、奥様のお体の方が心配です」
「ありがとう……」
アシュトンがフラヴィアさんに向ける視線を思い出す。
アシュトンがフラヴィアさんの頬にキスをする姿を思い出す。
アシュトンは、私が自分の妻だと……知っているはずなのに。
ー記憶さえ戻ってくれたらー
「マリレーヌ様!大丈夫ですか!!??」
「──っ!なっ……カロリーヌさん!?」
暗い気持ちに陥りかけた時、部屋の扉がバンッと大きな音を立てて開かれて、カロリーヌさんが入って来た。
「あれ?カロリーヌさん、帰りは明日じゃなかった?」
「ノエラから魔法で連絡が来て、急いで帰って来たんです!それで?どうすれば良いですか?女を排除すれば良いですか?それとも、アシュトン様にもう一度ショックを与えて──」
「カロリーヌさん、落ち着いて!排除もショックも必要ないから!マリレーヌさんは医者なんだから、そんな物騒な事は言わないで!」
「んん────っ!!ごめんなさい」
ひとまず、カロリーヌさんに落ち着いてもらう為にアンセルにお茶を淹れてもらってから、アシュトンとフラヴィアさんの話をした。
「はぁ……マリレーヌ様は優しすぎます。納得はいかないけど、マリレーヌ様のお願いだから、私も医者としてしっかりと女狐の診察をしますけど」
「女狐じゃなくて、フラヴィアさんね。ふふっ……」
私の代わりに怒ってくれる人。私の心配をしてくれる人。そんな人達が居てくれるから、私はまだここに居る事ができる。ここにはまだ、私の居場所がある。
ー記憶さえ戻ってくれたら、私はまた頑張れるからー
「あ、それと、一つだけお願いがあるんですけど……」
と、カロリーヌさんからは1つだけお願い事をされた。
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今日の午前中に、カロリーヌさんにアシュトンとフラヴィアさんの診察をしてもらって、後から報告してもらう事にした。
2人の体調を確認してから、これからどうするか、カロリーヌさんとも相談する為に、今日は1日執務は休みにして、午前中のうちに家庭菜園へと足を運んでみると──
プチトマトの苗木が全てなくなっていた。
「どうして───」
「プチトマトなら全て廃棄させたわ」
「お義母様……」
私の背後からやって来たのは、義母のアニエスだった。
「アシューの嫌いな物を、わざわざ育てて食べさせる必要なんてないでしょう?本当に嫌な嫁だこと。フラヴィアの方がアシューの事をよく分かっている優しい子なのに……貴方は、1人で仕事でもしてなさい」
それだけ言うと、義母はさっさと邸の方へと帰って行った。
ーまだ……大丈……夫?ー




