ノルマンディーの旅
1875年の夏、プラハで前皇帝のフェルディナントが82歳で亡くなった。
フランツ・ヨーゼフは現金資産が数百万グルデン、前皇帝の所有地が年に百万グルデン以上の収入を得るという莫大な遺産を相続した。
フランツ・ヨーゼフはエリザベートに200万グルデン相当の財産を分け与えた。
デオンとマシロ宛にノルマンディー旅行の誘いの電報かきた。目的地はノルマンディー地方のサセットの古城だ。
フランス領の境界までは、濃いブルーの2両連結車輌でデオンらはシシィとヴァレリーと乗った。
丸みを帯びた機関車で惚れ惚れしたデオンは車輌内装の豪華さに驚いた。
緑色をベースにした壁とベッド、テーブルクロスに携帯机。
敷物は派手な赤系だった。照明は灯油ランプであった。デオンは7歳のヴァレリーにサラマンダーマシロを渡すと「かわいい」と喜ばれた。
車輌が動き、走りが速くなるとデオンは窓を上げ、身を乗り出して興奮した。
「すげぇ、煙もすげー!」
黒ぐろとした煙に畏怖すら感じた。
「マシロも見たいぜぇ」
ヴァレリーは窓にマシロを張り付かせた。
「うぉおおおー!」
マシロは短い足をバタつかせて、ヴァレリーは笑い出した。
「おにいさんも子どもみたい」
「この方たちは私たちよりもずっと年上なのよ」
シシィも少し笑っていた。
ノルマンディーの古城までは馬車で揺られて向かった。マシロをあやしたヴァレリーは上機嫌であった。
開いた窓で外を覗いたデオンは、マリー・ヴァレリーの療養の旅という触れ込みの割には、随伴人の列が長かった。
ノルマンディーの住民たちは馬車列に近寄り過ぎるくらい、眺めている。
さらに馬も大挙しているからデオンは何の旅行か分からなくなった。
着いたサセットで落ち着いてから、午前中は海水浴をした。他の貴族の家族連れの見学も気にせず、シシィとデオンは横縞の水着で平泳ぎに徹した。
「あたたかい」
ヴァレリーはマシロを浮かせていた。
「デオンの泳ぎは下手だぜぃ」
「昔の騎士は泳げなくて当然なんだよ」
デオンは温泉旅行で水泳が上達したので昔よりましだった。
午後のシシィは体にぴったりした黒乗馬服と細身ブーツ、ステッキと扇子も持ち込んだ。
「おうまさん、みたい」
「じゃ、私の麒麟で行くか。墺麒!」
空から麒麟がやって来た。
マシロを頭上にのせたデオンはヴァレリーを麒麟に乗せた。ヴァレリーはデオンにしがみついた。
「危ないです。おやめください!」
女官たちを振り切って飛翔した。
皇妃は古城の庭園で障害競走に精を出していた。横座りのライディングは無鉄砲で危なかっしい。
夜には女官たちがヴァレリーの麒麟騎乗をシシィにチクった。
「空なんて落ちたら危ないでしょう!」
「飛行した方が安全だぜ。イノシシにぶつからないからな!」
デオンは自信たっぷり答えた。
「まぁ、いいわ。落馬したあなたの場合、飛んだ方が安全そうね」
シシィは飛行を認めた。
ある日のシシィは農地まで馬を疾走させて作物を踏み荒らしていた。
農民は怒鳴り散らし、シシィは「無礼な!」と返した。
「これは、これは……」
デオンは苦笑いして眺めた。
農民とのいざこざを抑えるように女官たちが駆け寄っていた。
森の木々が黄色くなった頃、エリザベートが乱暴な騎乗で馬が障害物を飛んだあと、シシィが落馬した。
脳震盪を起こしてシシィは一時的に意識を失っていた。
シシィは寝込みはしたが、症状が軽かったのかすぐに回復し、皇帝に手紙を出した。
心配をおかけして申し訳ありません。ですがこういった事故があることは最初からお互い覚悟していたと思います。
……また馬をたくさん持てると思うと、とても楽しみです。こちらには練習出来る馬が少なすぎます。落馬してもやる気を失わないところを示すことができて、誇りに思っております。
シシィは2週間経つと乗馬を再開した。後でヴァレリーに「馬には絶対乗らないでと約束して」とせまった。
「うまよりきりんがいい」
「あれは余計だめ! デオンしか操れないでしょう」
シシィが叱るとヴァレリーは泣き出した。
「テレーゼの若い頃は乗馬好きだったぜぃ。娘のアマーリエにちゃっかり乗馬禁止してよぉ〜」
「なるほど! 女君主は度が過ぎた暴言ありなのか」
デオンの一言でシシィは苦笑いしていた。
「いいこと、馬は突然暴れることもあるから乗馬は危ないわ」
シシィは優しく諭してヴァレリーをなだめた。
エリザベートが帰る時、デオンらはミュンヘンまでついて行って、後に別れた。
以降、シシィの度重なる旅には誘われることはなかった。
シシィは翌年2月末には英国を訪問して、障害物競争の訓練に励んだ。
1879年からの2年間はアイルランドで障害競走に夢中になった。危険度が高い馬術をシシィは全力で挑んでいった。
1882年の英国訪問時には突然乗馬を辞めて、シェーンブルン宮では競歩にはまりだした。
気象を問わず、5時間も早足で歩くので女官たちはついて行けず、悲鳴を上げたのだ。




