アウスグライヒ
1867年2月、元ボヘミア総督の首相ベルクレディが辞任した。後任には外相のボイスト伯爵が首相に任命された。
2月中旬、ボイストとアンドラーシ、デアーク望んで間で細則が検討されてついにオーストリアとエルトリアはアウスグライヒ(和協)された。
アウスグライヒでエルトリアの旧憲法も復活した。オーストリア帝国はオーストリア=エルトリアの二重帝国となり、2つの首、2つの議会、2つの内閣を持つことになった。
2つの半ば独立した国家の集まりとなった。
共通の省庁は軍務省、外務省、財務省だけである。
両者の境界はドナウ川の支流タイラ川とされ、それより以西はツィス・ライターニエン、以東はトランス・ライターニエンと呼ばれた。
ツィスはこちら側、トランスはあちら側の意味。
エルトリア王国はエルトリア、スロヴァキア、トランシルヴァニア、ルテニア、クロアチアが含まれていた。
オーストリア帝国はオーストリア、ガリツィア、ブコヴィナ、ベーメン、メーレン、スロヴェニア、ダルマチアが残された。
後にフランツ・ヨーゼフがエルトリア王として即位することになる。
2月19日、アンドラーシはエルトリアの初代首相に就任した。
ボヘミアやメーレンの議会は3月を持って機能停止された。
ボヘミア人の元帥ヒューゴ・サレム伯爵やエドムント・シュヴァルツェンベルク侯爵はゾフィーと共にした晩餐会で怒りをぶちまけた。
「スラブ人の排除とはよくやってくれたものだ! 我々だって黙ってはいられないぞ!」
この頃、イーダ・フレンツィやマックス・ファルクなどのエリザベートと親しいエルトリア人たちはウィーン宮廷の嫌がらせを受けていた。
春にはマックスは勤務先のオーストリア第1貯蓄銀行からシェーンブルン宮殿まで毎日送迎されていたが、馬車がいつも遅れて到着していた。
外が暖かいと窓を閉め切ったビロード張りの馬車が来て、雨が降る日には多いのない無蓋馬車が貯蓄銀行の前に停まっていたのだ。
ゾフィーは寝る前にデオンらの部屋に入り「エルトリアの譲歩を進めてもろくなことがないわよ」と恨み節をマシロたちに吐いた。
これが、毎日続くのだ。
アウスグライヒ成立後、エリザベートはエルトリアへ訪問した。シシィは夫宛に優しさがあふれる手紙を書いた。
愛する皇帝陛下! 今日もわたしはとても悲しい気持ちです。あなたがいらっしゃらなければ、ここにいてもむなしいばかりです。5日に戴冠式が行われさえすれば、まもなくあなたが戻っていらっしゃるという希望をはっきりと持てるのですが。
戴冠式の何週間も前から準備作業が進んでいた。ウィーン市民たちは連日ウィーンからブダまで輸送される大量の木箱や長持ち、絨毯、覆いをかけた装飾馬車までがドナウ汽船に積み込まれている様子が眺められた。
磁器から食器一式、食卓用のリンネル、家具まで皇帝の宮廷生活に必要な物は何でもブダ王宮に運ばれた。
祝典の期間中は1000人以上の者に料理を出すことになる。




