皇帝批判
フランスのナポレオン3世はイタリア進出を狙っており、サルディーニャ王宮のカヴール首相と図って、イタリアが帝国から独立する際に助力する代償として、サヴォイとニースをフランスに割譲する予定だった。
イタリアの統一運動の勢いはもう止められず、両シチリア王国、トスカーナとモデナのハプスブルク領の公国と北イタリアのロンバルディア、ヴェネツィアも騒乱状態にあった。
ロンバルディア、ヴェネツィア総督のマクシミリアン大公はウィーンへ相手を挑発することがないようにと警告を発していた。
ナポレオン3世がトリノに宮廷を置いたサルディーニャ王国と頻繁に接触していたのを、察知したからだ。
1859年4月20日、ウィーンのブオル外相は「オーストリア領ロンバルディアから撤退せよ」とサルディーニャ王に最後通牒を突きつけた。
4月23日。皇帝フランツ・ヨーゼフはトリノに対して最後通牒を突きつけ「軍隊を停戦状態におき、義勇兵を解散させよ」と要求した。
トリノの宰相カヴールは通告をはねつけた。
オーストリア軍はピエモンテへ進軍した。
政府は開戦を決め、フランスは小国に援軍を送った。
開戦後、デオンらはウィーンのカフェに赴いた。
「戦争税だと? また余計なものを決めたものだな」
デオンは新聞を読んだ。
「いっそ負けてしまえばいいのに! こんな物価高で苦しむくらいならな」
「我々の譲歩を引き出すために帝国が負けるのが一番だ」
学生たちが苦言した。
「芸術協会の展覧会も人が揃わずに中止になったよ。世も末だ」
「家賃も上がって最低だな。フランツ・ヨーゼフはよぉ」
市民の憤りは止まらなかった。
このような時期にプラーターで競馬が開かれ、皇帝夫妻、大公と大公妃たち、デオンたちも見物した。
5月になってもプロイセンとバイエルンやその他のドイツ諸国も北イタリア地域の戦いでオーストリアを支援したり、フランスを攻撃することが一切なかった。
ハプスブルク家の親戚のトスカーナとモデナの君主と家族たちはウィーンへ逃げた。
ゾフィー大公妃は北イタリア駐留の軍隊に葉巻8万5千本(500グルデン)を送っていた。
オーストリア軍は武器、弾薬も食糧の蓄えも充分ではなかった。
軍隊の士気もギュライ大将からも欠けていた。
6月4日のマジェンダの戦いでサルディーニャ軍が気力がないオーストリア軍に襲いかかった。
兵力は相手より2万以上、騎兵は3倍、大砲の数でも2倍あったのに、サルディーニャとフランス連合軍に押されて、ミラノ南西ロディまで退却してきた。
ロンバルディアの要衝ミラノは6月8日に相手側に奪われていた。
ウィーンの上流階級のサロンでは貴婦人たちが綿撤糸(包帯の材料)ほぐしをひたすらしていた。
若き皇妃、ゾフィー大公妃、宮廷婦人総出だった。負傷者、患者たちが連日戦場から長い列を作って戻って来た。
彼らはイタリアで自分たちを率いた将官らを呪い、罵倒していた。
兵士らはラクセンブルク宮殿の救護に入った。
6月18日付けでウィーンではギュライ将軍の指揮能力の欠如を認め、司令官を解任した。
同日付けでフランツ・ヨーゼフは自ら指揮を取ることを軍隊に公表した。
皇帝はヘス将軍を参謀長として同行させた。
カフェ「テレーゼ」でも29歳の皇帝が指揮する決定案で懐疑が渦巻いた。
「私にはヨーゼフが軍事に秀でるとは思わない」
リアはゾフィーの傀儡者としてのイメージがなかった。
「リアちゃんの言う通り! 軍事経験の浅い皇帝じゃ勝てやしないさ」
「フランスが勝つとオーストリアはイタリアを放棄するしかないし」
「うまく凋落してくれたら、こっちの革命もやりやすくなるしな」
「軍隊が弱くなれば、なおさら良し!」
客の話を聞くたびにマシロはヨーゼフ2世と同じく、君主たちはなぜわざわざ指揮したがるのか疑問に思い、のんきに客と話し込んでいるリアを一喝するのを忘れていた。




