誤算
1845年夏、ウィーンから少し離れた温泉保養地バード・イシュルで、ゾフィー大公女と付き人デオンとサラマンダーマシロと前皇妃のカロリーネに、50代のルイーゼが保養に来ていた。
なだらかな山々に囲まれた町はこじんまりとしていた。
翌日、すっかり老け禿頭のメッテルニヒはゾフィーたちの部屋に来て軽く歓談した。
「これからは技術、機械の進歩の時代で、世の中はこれに遅れを取ると、国家も個人も落伍するぞ」
ゾフィーはメッテルニヒに勧められて15歳のフランツィを連れ、お付きのデオンとマシロは北駅へ来た。
駅長はすぐ無線室に彼女らを案内した。
「これからモラヴィアのブルーノ駅に連絡し、返事をもらいます」
電信を打ち十分経たないうちに返事がきた。
『指定の荷物は10個積んであります』という電文が返ってきた。
「こんなに早いなんて」
ゾフィーが驚嘆した。
「何だか良く判らん!」
デオンは自信良く返した。
「マシロも判らんぜぃ!」
デオン頭上のマシロも答えた。
後日、ゾフィー大公女はルイーゼと打ち合わせのため、別荘へ彼女らを招いた。
「独裁者にライバルが出てきたのです。お姉様、財政担当コロヴラードと財政について長いこと対立していました。フランツ皇帝が亡くなってから、次第に皇族たちが協力して独裁者は最高会議でも少数派となりました」
「そんなにメッテルニヒに対する抵抗が強いのですか」
ルイーゼが尋ねた。
「強くなっています。30年以上もメッテルニヒの時代が続き、市民は飽きてきているのです。次第に不満が溜まってきているのです。もう72歳ですし」
デオンらはウィーンのカフェへ出かけた。
「検閲が昔より甘くなって、発禁の外国本が気軽に読めて嬉しいよ」
「わざわざ高い金出さなくても普通に買えるのっていいよな」
学生たちが持ち寄った本を見せ合っていた。
「あれ? 私が発禁本は書店へ横流ししろと命じたが、もう書店側はみかじめ料を払わなくて済んだのか?」
「役所も面倒な計算したくないから、無くしたんじゃないのですか。昔の本は高かったそうだし」
デオンは(すまないなぁ)と内心謝っていた。
1846年6月17日、ローマ教皇に穏健派のピウス教皇が選ばれた。
イタリアは1845年から農業不作が始まり小麦、ジャガイモ等が不足した。国民は飢餓で暴動寸前だった。
教皇は7月16日には政治犯に対する大赦をした。
ローマ国民は教皇を支持して、街では毎日のように「ピウス教皇万歳」の歓声が続いていた。
1847年3月には出版物の検閲制度を緩め、4月には市民自警団の創設までできた。
トスカーナ大公国も検閲制度を緩めた、イタリア新聞は改革を叫び、オーストリアの追放、撤退をイタリアの独立、統一まで書き立てた。
メッテルニヒは「こんなローマ教皇の出現は今まで予想もしなかった」と評した。
最もウィーン会議でのデオン出現が衝撃的であった。
メッテルニヒは秘密警察にデオンの身辺調査をさせても、ペーター教会から出た以前の記録が出てこなかった。
ロランという別人止まりで『デオンその者はこの世界から生まれ出た若者』という結論に至った。
メッテルニヒは武力干渉すると警告し、教皇領の街フェラーラ駐留部隊を増強して占領下に置いた。
ピウス9世は破門をちらつかせ抗議した。イタリア国民は反オーストリア行動を強くし、サルディーニャ国王アルベルトもローマ教皇を武力を持って応援すると宣言した。
税関緩和などの改革を始めた。
メッテルニヒはフェラーラから駐留軍を引き揚げた。
英国がイタリアを支援していると分かったからである。
オーストリアも近年不作が続き食料価格が上がり続けていた。
カフェ内でも失業した人々が不満を言い出した。
「デカイ工場が小さい工房買うから職にあふれるんだ。くそぉ」
ウィーン郊外に小屋ばかり建ち並び、農村や南のバルカン地方からの人々が住み着いていた。




