2 期待するのはやめました
もう朝かとカロリーネはまだ眠たい目をこすった。寝ぼけた瞳には眩しい朝の日差しが映っている。
(あのあと、アンドレカに送ってもらったんだったわ)
アンドレカ・ルーウェン。昨日カロリーネと一緒にパーティーに行くはずだった友人の名だ。婚約者と来ていたのにも関わらず、カロリーネが挙動不審に会場を出たのを心配して中庭に駆けつけてくれたのだ。彼女は何も聞かずカロリーネの背中をさすってさっさと女子寮に戻ってしまおうと諭してくれた。
王立学園は紳士淑女の自立を促す目的を掲げ、女子寮と男子寮を成立させている。自分の屋敷に帰れるのは週二回の休日か長期休みだけ。さすが王立学園と言うべきか一人一部屋が支給され、申し分ないほどの広さがある。
体を横に向けると窓辺の花瓶に挿した花が揺れるのが見えた。これは何ヶ月も前にエリオットにプレゼントされた花。もう萎れているがどうしても捨てられなかった。もしかしたらエリオットは自分のこんなところを疎ましく思っていたのかもしれない。
意味もなく花を見つめ続けるカロリーネは何もする気が起きなかった。
いつもならとびきりお洒落をして早朝からエリオットのいる男子寮まで迎えに行くところだというのに。少しでも可愛い、素敵だ、と思って欲しかった。
……実際は反対のことを思われていたようだけれど。
部屋をノックする音が聞こえても起き上がる気は到底おきなかった。
体がだるくて思うように動かないのもあったけれど、来訪者にみっともなく泣き腫らした自分の顔を見せたくないという気持ちが大きかった。
返事をせず黙っているとそのノック音は少し遠慮がちに小さくなった。
「まだ寝てるのか?」
くぐもったその声がエリオットでないことくらい寝起きの頭でもわかる。
(彼なら朝早くに私を訪ねたりしないもの)
カロリーネが男子寮周辺で待っているのを見つけた途端に嫌な顔をするほどなのだ。エリオットは。
「カロ、僕だ……リュカだ」
「……リュカ?」
カロリーネは独特な愛称の呼び方に反応して、フラフラと幽霊みたいに足を動かしてやっとドアの前までたどり着いた。ドアが開くのに呼応して棒立ちになっていたバスケットを持った男の黒髪がふわりと揺れる。まだ早朝だというのに妙に洒落た紺の地の服を着ている彼はリュカ・クラウン。エリオットと同じくらい歴の長い同年齢のカロリーネの幼馴染である。昔はよく三人で遊んでいたものだ。学園に入学してからはすっかり疎遠になってしまい廊下ですれ違う程度になってはいるが。
リュカは出てきたカロリーネの顔をまじまじと見つめた。
「久しぶり、体調は、どうだ。頭が痛いとか」
ぎこちないリュカの声は心配の現れだとわかる。改めて対面で喋るのはいつぶりだろうか。いきなりなぜ訪ねてきたのかと不思議そうにしているカロリーネを前にリュカは「アンドレカから聞いたんだ」と続けた。
「もしかして、泣いていた?」
リュカの水色とも灰色ともとれる銀の瞳がゆっくりと細められる。昔からいつもこうだった。リュカは心配性で昔と違いすっかり疎遠になってしまった今でもカロリーネに何かあったらすぐ駆けつけてくれた。長年一緒にいたリュカとカロリーネは幼馴染というには近い、もはや兄弟のようなもの。カロリーネは彼の気遣いを無駄にしないよう、ゆっくり丁寧に笑顔をつくった。
「心配してくれたのね、ありがとう。でも私は大丈夫」
「ほんとうに?」とリュカは納得はいかないけど一応、バスケットを差し出す。中身を見て思わずカロリーネは顔を綻ばす。
「こんなにたくさんの果物、ひとりじゃ食べきれないわ」
ずっしりと重い感触が手に伝わってくる。こんなに重いものを持ってくるなんて、リュカは自分が大病に罹ったとでも勘違いしているのだろうか。だけど実直なまであるリュカの眼差しは少し、カロリーネの心を軽くした。手持ち無沙汰なリュカに冗談を交えて笑いかける。
「女子寮に忍び込んでいいの?婚約者もいないのだから、あなたを狙ってる令嬢たちが飛びかかってくるわ」
リュカの眉が一瞬だけ歪む。リュカの人気は学園で底を知らない。整った顔にそれを鼻にかけない謙虚さも人気に火をつけた。それなのに婚約者がいないものだから、自分こそが婚約者になるんだ、と意気込んだ令嬢たちに常に囲まれている。本人はそれを嫌がっており、学園長に直接苦情の申し立てをしたくらいだ。
カロリーネの言葉にリュカは何かを言いかけて、彼女の引き攣った口の端に気づいてどこか寂しげな笑みを浮かべる。
「そうだな、そろそろ戻る……カロ、きみはよく頑張ったと思う」
それから間髪入れずにリュカは大雑把な動きに反してドアを丁寧に閉めて去っていった。
リュカが去った途端、昨夜っきり流していなかった涙が込み上げてくる。それは張り詰めていた糸がぷつんときれてしまったかのよう。ドアの前でしゃがみ込んで、塞いだ手から泣き声が漏れる。思い切りしゃくりあげて鼻が痛くなる。
(いやだわ、子どもみたいに泣いて)
カロリーネの意思に反して大粒の涙は止まらなかった。次々とこぼれ落ちて床に水玉模様を作る。
──きみはよく頑張った。
リュカの去り際の言葉。
その言葉はエリオットに否定されたカロリーネの今までの人生をちょっぴり肯定してくれたような気がしたのだ。
朝早くから起きてした化粧も、エリオットの好みにしたヘアセットも、彼の婚約者に相応しいように一層励んだ淑女教育も。
エリオットにとってはそのすべてが無駄だったとしても、
(頑張っているように見えていたの?)
努力は、努力になっていた。少なくとも、認めてくれる人はいた。そのことはカロリーネにとって変わりようのない事実。
(わたし、がんばったって思ってもいいの?)
ほんとうは、友人との時間も大切にしたかった。自分の好きな服を着たかったし自分に似合うと思うお化粧をしたかった。
だけど。
『きみみたいに可愛い娘こ、とられないようにしないとね』
カロリーネはエリオットにかけられた言葉が嬉しくてたまらなかったのだ。
いつでも彼に可愛いと、自分にとって一番の女性だと思って欲しかった。
そんな純粋な思いもいつの間にか歪んで──
「依存してたんだわ」
カロリーネの口からこぼれた言葉はどこか冷たい響きを含んでいた。行儀が悪いとわかりつつも洋服の裾で涙を強く拭う。
──もう、エリオットに愛されていると都合のいい勘違いをするのはやめよう。彼から向けられる冷たい眼差しから目を背けることもやめよう。
昨夜何も言わず送ってくれたアンドレカのため、わざわざ朝早くから見舞いに来てくれたリュカのため、もちろんエリオットのためにも。
(エリオットに期待するのはやめよう)
カロリーネは一つの決心とともに窓辺に向かう。
エリオットから貰った花を花瓶から取り出す。その拍子に花はくしゃりと思ったより軽い音を立てて窓の外に散った。




